たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

通信教育レポート‐西洋史特殊1-古代オリエント史

2023年11月12日 15時55分06秒 | 日記

課題:アッシリア帝国の興亡について記せ。

 

 アッシリアは前2000年頃、ティグリス川中流域の都市アッシュルから興り、前612年までおよそ1400年にわたって北メソポタミアを中心領域として盛衰を繰り返した国である。アッシリアの中心部は、肥沃な三角地帯の真ん中にあり、常に交易の中継地であり、通商による利益をもたらした。そこはまた自然的な国境線がないので、常に外界からの危険にさらされていた。このためアッシリア人は好戦的であった。アッシリアは軍事力と交易によって次第に勢力をメソポタミア上流域全体に伸ばしていく。南メソポタミアには、バビロニアがいた。すでに前2000年紀前半にはバビロンを首都とする統一王朝が成立していたが、アッシリアは、政略結婚によってバビロニアの王位継承に干渉するまでになっていたと同時に、多くの場合文化を受け入れることにもなった。

 

 前1000年紀前半、アッシリアは一大帝国となる。この時代のアッシリアを、新アッシリア帝国と呼ぶ。新アッシリア帝国は、周辺の様々な対抗勢力を征服する。中でも最も困難だった敵は北方のウラルトウ人であった。その首都トウスパはヴァン湖の近くにあった。王たちはフリ人の子孫であった。彼らはアッシリアの支配下にあった諸都市の経済的担い手であり、もしアッシリア人が武力で抑えなかったならば西アジア全体の支配階級となったであろう。第二の敵は鉄器時代初期にはまだ未開の時代にあったアラム人諸部族であった。特に、ダマスカスのベン・ハダット王朝は、何度征服されてもすぐに回復した。次には、スサの周囲にいたエラム人がいる。スサは世界史上最も古い町のひとつであるが、アッシリアにとっても強敵であった。そこはアッシリアからは山を隔てていたので、武力征服をうけにくかった。これに対して、シリア・パレスティナはアッシリアから地つづきで征服しやすかった。

 

 アッシリアがこのような周辺の様々な対抗勢力を征服しはじめたのは、アッシュル・ダンニ二世(前934-912年)とその息子アダド・ニラリ二世(前911-891年)の時代になってからであった。そして、アッシュルナシルパル二世(前883-859年)とシャルマナセル三世(前859-824年)の親子60年の治世には、アッシリアはさらに多くの近隣諸国を支配下に組み入れ、大帝国となる基礎を築いていった。

アッシリアは統治政策として強制移住を行った。その目的は、新しく征服した土地の人々をアッシリア領地内の遠方の町に移住させることによって民族の結束力を弱め、反逆を防止することであった。また、多くの労働力を必要とするアッシリアの首都、とりわけ新都の建設のために、各地から多様な民族が移住させられてきた。アッシュルナシルパル二世は、古都アッシュルを離れて、ティグリス川をさらに遡ったところにあるニムルッド(古代名カルフ)に壮大な新都を造営した。そのためには、多くの人手を必要としたので、その必要を満たすために戦争をし、捕虜を連行したほどであった。シャルマナセル三世の治世には、アッシリアの領土はさらに拡大した。城塞から出土した有名な「黒いオベリスク」は彼の輝かしい功績を物語っている。そこには遠征の記録だけでなく、イスラエルやエジプトなど、アッシリアを取り巻く5つの国から貢物が運ばれてくる様子がレリーフによって表されている。

 

 シャルマナセル三世の息子シャムシ・アダド五世(前823-811年)と、さらにその息子のアダド・ニラリ三世(前810-783年)の治世には、内政が混乱し、そのために地方支配も十分ではなく、帝国の勢力は一時的に弱まった。そしてアッシリアの管理統制が緩んだので、属国からの献納も滞りがちになった。また高位の官僚、特にアッシリア属州を治めるために任命された代官たちが強い権力をもち、ほぼ独立国の王のように振る舞うになったのもこの頃であった。

 

 新アッシリア帝国を再び強大にしたのは、ティグラト・ピレセル三世(前744-727年)である。彼は、前735年までには北方のウラルトウを制圧し、さらに西方のシリア・パレスティナ地方でもほとんどエジプト国境付近に至るまでの覇権を回復し、ハマ、ダマスカス、ヒブロス、ティルス、サマリアからの貢納を受けた。ティグラト・ピレセル三世はバビロニアの覇権をも掌中におさめ、アッシリア王であると同時にバビロニア王ともなった。シリア・パレスティナの諸国家は、ティグラト・ピレセル三世の侵略に抵抗するためには、反アッシリア同盟を結んだ。しかしユダ王アハズはこの同盟に加わらずアッシリア寄りの政策をとったため同盟軍から制裁を受けた。このアハズはティグラト・ピレセル三世に貢納し支援を求めた。これに応じて進軍したアッシリア王の前に同盟軍は敗退し、ダマスカスは前732年にアッシリアの属州となった。

さらにティグラト・ピレセル三世は、アラビア半島北部とシナイ半島に住むアラム人諸部族からも貢納させるに至った。シャルマナセル五世(前726-722年)の短い治世を経て、即位したサルゴン二世(前722-705年)は帝国の完成者であり、野心と才能において最も注目すべき人物であった。サルゴン二世は、それまでの首都カルフを捨ててコルサバードに新都の建設を始めた。シリア・パレスティナでは再びアッシリアへの反逆が起こるが、これらを打ち破ったサルゴン二世は、シリア・パレスティナから多くの住民をアッシリアに移し、また他の地方の住民をシリア・パレスティナに移住させた。バビロニアではカルデア人部族の首領メロダク・バルアダン二世が、東方の隣国エラムの支援を得てバビロニアの覇権を握り、事実上バビロニアの王となった。前709年、サルゴン二世は苦戦の末、バビロニアの支配権回復に成功するが、メロダク・バルアダン二世は逃亡し、センナケリブの治世に再出現するまで姿を隠してしまった。アナトリアでもサルゴン二世は、フリギュア人の王ミダスとの抗争に手をやいていた。

しかしミダスはアナトリアに侵入してきたキンメリア人に対処するため、アッシリアとは和睦した。また北方の山岳地方では、そこに王国を築いていたウラルトウとの戦いに苦しむことになった。アナトリアの諸都市もウラルトウの援助を得てアッシリアに反逆し続けたため、サルゴン二世は対ウラルトゥ戦に完全勝利をおさめることなく没した。

その息子センナケリブ(前705-681年)は、ニネヴァの再建にとりかかり、そこを帝国の首都とした。その治世中、バビロニアでは、メロダク・バルアダン二世が再び登場し、エラムと結んでアッシリアに対抗した。センナケリブは、数度の遠征ののち、前689年、ついにバビロニアを下し、バビロンを徹底的に破壊した。彼は、西方のパレスティナ諸都市へ軍隊を送った他、東方のメディアでも、アナトリアのキリキアでも戦績をおさめるなど、多くの遠征を行っている。

次いで、エサルハドン(前680-669年)は、エジプトへと進軍した。エジプトも世界支配を目指すアッシリア人の野心を免れることはできなかったのである。メンフィスは前671年に占領された。エサルハドンの没後は、その定めた王位継承に従って、アッシュルバニパル(前669-626年)がアッシリアの王位に、その兄弟のシャマシュ・シューム・ウキンがバビロニアの王位に就いた。両者の関係は、前651年までは平穏であった。アッシュルバニパルは、前660年に再びメンフィスを占領し、前661年にはテーベスを徹底的に破壊している。バビロニアとの関係は、何年かの平和的共存の後にシャマシュ・シューム・ウキンが反乱を起こし、エラム王やスメル人、エジプト人、シリア・パレスティナなどの不平等分子もそれに加わった。前648年以来戦争状態となり、長い包囲ののちバビロンが陥落した。その際シャマシュ・シューム・ウキンは没し、エラムは略奪された。この兄弟戦争が終わった後も、アッシュルバニパルは、バビロニアを支援したエラムとアラブを討伐するためにまたしても長い遠征に出立した。

しかし、人口の減少と長期にわたる戦いにより、アッシリアの国力は急速に衰えていった。この頃から国境線の侵犯がしばしば起こるようになり、北東部ではメディア人が、北方ではウラルトゥ人が背き、他方キンメリア人はキリキアにまで進出した。アッシュルバニパルの最後の数年はきびしい危機に直面したらしいが、その詳細はわからない。アッシュルバニパルの没後は、短期間に王の交替が相次いだ。バビロニアでは、南部の「海の国」の首領ナボポラッサルが台頭し、アッシリア勢力を押さえてバビロンに新バビロニア王朝を樹立した。メディアのキュアサクレス二世とバビロニアのナボポラッサルの同盟軍によって、ニネヴェは前612年に略奪された。

 

 アッシリア帝国の君主制の組織は安定性を欠いていた。アッシリア帝はこれほど強力で広大な制服を行ったにもかかわらず、体系的な統治体制を持っていなかったと言える。陰謀、王位をめぐる争い、暗殺などは日常茶飯事であった。王の下には強固な貴族階級が存在していた。その首長たちは戦争によって裕福となり、中央政府にとってはきわめて危険な地方総督となった。サルゴン二世の努力にもかかわらず、国家は大幅に自治を認められた地方政府の寄せ集めのままであり、租税の徴収や軍隊の編成の主導権は地方総督の手に握られていた。全体としてアッシリアの力はもっぱら君主の個人的能力に依存していた。

 

参考文献

『世界の歴史1-人類の起源と古代オリエント』

大貫良夫・前川和也・渡辺和子・屋形禎亮(中央公論社 1998年)

 

平成13年に書いたレポート、評価はAでした。

講師評は「テーマについて理解十分と認められる。」

 

チグリス川・ユーフラテス川とは?メソポタミア文明が興った理由 | ターキッシュ・カルチャークラブ (worldclub.jp)

 


宮沢孝幸先生の京都大学退職について、正しい情報を国民に発信することができない社会を考える!

2023年11月12日 01時38分05秒 | 気になるニュースあれこれ

2023年11月9日心理カウンセラー則武さんライブ配信、

(1) 【ライブ配信】宮沢孝幸先生の京都大学退職について、正しい情報を国民に発信することができない社会を考える!【心理カウンセラー則武謙太郎】 - YouTube

  コロナ騒動によってあぶりだされた日本の課題をわかりやすく説いてくれています。宮沢先生がコメントで参加。おかしいことをおかしいと気づいておかしいよと発信した人を同じ日本人が叩き潰す。宮沢先生ほどではありませんが10年前の労働紛争でわたしもその一端を経験しました。おかしいことをおかしいと言えない社会、言えなくなる社会、怖ろしいと思います。

 

日本でコロワクチン後遺症にいち早く気づいた長尾医師の講演会、後半だけなんとか聴講してきましたが、日本、本当におかしい。おかしいと気づいた人が声をあげていくしかないとのお話でした。医師の多くがワクチンの危険性に気づいていない、高齢者施設はインフォームドコンセントもなにもなく打たせている、国はワクチン被害を隠蔽し続ける、どうなっとるんや日本。反対の声をあげる人はねらわれる。宮沢先生を守る会を立ち上げたいといった話もでているようです。

 

一人一人が気づいていくしかありません。弱小ブログですが今のところまだ書き続けるつもりです。ワクチン打ちまくってインフルエンザ流行でみんなでマスクして今度はインフルエンザワクチン打て打てどんどん?!ワクチン打ち過ぎて免疫がやられているということではなくて?!