「わたしの人生を振り返ってみる時、最も鮮やかに、最も生き生きと心に残っているものは、そこへわたしが行ったことのある場所である。突然楽しいスリルが心中に起る・・・一本の木、一つの丘、どこかに隠れている白い家、運河のわき、遠い山の形。時には、あれはいつだったか、どこだったかとちょっと考えることがある。すると、情景がはっきりしてきて、それがわかる。
人のことはあまりよく覚えられない。友人たちはわたしを大切にしてくれるが、単に会っただけで好きになった人たちのことは、ほとんどすぐに心から消えてしまうようである。「わたしは人の顔は決して忘れない」などとはとてもいえたものではない。実をいえば、「わたしは人の顔が、決して覚えられない」といった方がいい。だが、場所のことはしっかりと心に残っている。前にたった一度しか行ったことがない所でも、それから五、六年後に再び訪れると、どの道を歩いたらいいかちゃんとわかるのがしばしばである。」
(『アガサ・クリスティー自伝(下)』乾信一郎訳 早川書房 1982年8月10日5刷)
『アガサ・クリスティー自伝』(上)_第三部成長するより
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