たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

自分の体はどうなってしまうのか

2021年09月19日 17時32分01秒 | 日記
 久しぶりの青空、窓を開け放って風を入れたいところですが、おそらく上階の匂いと音が入ってきてしまうし自分の音もきこえてしまうのだろうから控えます。11年前の今日は父が旅立った日でしょうか。不謹慎ですがよくわからなくなってしまいました。弔うということはありません。ただひとり思い出すだけ。夜半しいんとなると不安と絶望の波がおそいかかってきて、眠剤のんでも昨夜も眠れずまた5時半ごろまでもがき続けました。結果今まで最高に遅い、目が覚めたらお昼の1時、一度坐ったら体がなかなか動かず、ようやくお昼を食べ終わりました。

 現行の社会保障制度が続けばの話ですが介護保険と年金受給開始の対象年齢までまだまだ何年もあるのにコロナ暗黒真っただ中に手術の告知。そんなんすぐ来る、年をとるのはあっという間ですむことではありません。気持ちの問題で、がんばれば、がんばれば、すでになくなってしまっていると言われた軟骨が戻ってくるわけでもありません。ほんとうに手術しかないのか、その先にどんな希望があるのか、手術しなくても治るという民間療法は当然保険診療の対象ではないので信憑性がわからないのに何万円も出せない、保証人の相談するために役所など行きたくない、生活がある、その間の部屋も心配。ほんとうに手術しかないのか、お弁当とお惣菜買いながら涙が流れてしまいます。

 3か月前○○整形外科を受診したとき、「手術した方がいい、手術したらだいぶ楽になる」、それだけ言われて考えるよう言われても考えようがありませんでした。その場ですぐ紹介状を書いてくださいとは言えませんでした。結果手術するなら具体的にどうなのか、しないという道を選んだらどうなるのかを知るためにまた何週間も待たなければなりません。コロナの影響があるのか、ないのか。医師は病院というピラミッドの頂点にいるので誰も何も言えない、医師によって書類がおそかったり早かったりする、医師から無理なこと言われて事務方が困ることもあるということを思い出しました。そこにわたしが思う人の心はあるのか、わかりません。リハビリ専門のところでやれることはないとの診断なので、10月上旬までというだけでいつかわかりませんが医師が紹介状の準備できたら事務方に渡すだけなのでしょう。医師がそう言うのだから相談員ががわたしにそう言うしかないことはわかります。手術しかないにもして靴の中敷き百金のものではなくなんとかしたいと思ってもそこで相談できる余地は全くないということ。一般的には人口股関節へ置き換える手術をするのは早いとされる年齢で手術するしないの判断は医師によっても違うという話も○○整形外科でPTからききました。ほんとうに手術しかないのか、何件も病院をめぐらないとわからないものなのか、痛いままなにもできないのか、なんの治療も受けられないのか、そのうち自力歩行ができなくなってしまうのか。自分の体どうなってしまうのでしょう。

 緊急性が高いことではないですが、身体的な欠損なので自分ほんとにもう終わりなんだなあと思います。こんな人生の罰ゲーム、無理です。寒暖差と夏の終わりに冷房疲れもあるのか、慢性的な疲労もあるのか、動くことが億劫になってきています。動かなくなったら本当にもう動けなくなってしまいそうです。火曜日は生活のために相談窓口、木曜日は最寄り駅からタクシー使ってくださいと言ってくれているパートタイマーの仕事の打ち合わせ。

 宙組『シャーロック・ホームズ』『デリシュー』、キキちゃんのカフェブレイクがYouTubeにアップされたし、明日の夜はシャーロキアンのみなさまによる宙組ホームズの魅力を語り尽くす会、雪組東京宝塚劇場も日生劇場の『ニュージーズ』も待っているから希望はありませんが、まだ死ぬわけにはいきません。動画をみている間だけでも現実を頭の中から追い出したい。なにもわからないままただ手術、手術という呪いの言葉、この状況下でわたしが手術すればよくなってまた可能性が拡がると思うことはむずかしい。手術云々の前に心がこわれてしまいそうです、内臓の方が先にやられてしまいそうです。ひとときでも忘れる、忘れる・・・。













 

『文学の旅12=奈良』より-吉野山-吉水神社・如意輪寺

2021年09月19日 01時13分49秒 | 本あれこれ




「語りかける山川-吉水神社(よしみずじんじゃ)・如意輪寺(にょいりんじ)

 吉水神社から如意輪寺へ抜ける道はサクラがことに多い。中千本の中心だ。サクラもみじがまだらを織っていた。如意輪寺に着いたとき、太陽が真上にあったせいか、境内は妙に明るく、南天の実がよく光っていた。

 ここは南朝、それも楠木正行(くすのきまさつら)のことでよく知られる。正行ら143人は死を決し、後醍醐天皇に参拝する。『太平記』のそのくだりを山崎正和の簡潔な現代訳で引用しておこう。

「如意輪寺の壁板におのおの名字を過去帳として書き連ね、その最後に一首の詩を書き留めた。

  返らじと兼て思へば梓弓 なき数にいる名をぞとどむる

 こうして死後の追善をみずから生前に営むつもりらしく、それぞれ髻髪(もとどり)を斬って仏殿に投げ入れ、その日に吉野を討って出て、敵陣へと攻め向った」(河出書房新版『日本の古典』)

 宝物館には正行にちなむと称するいろんなものが陳列してあったが、中村汀女は四条畷合戦の錦絵に一番興味を示した。降り注ぐ矢のなかにざんばら髪の正行が突っ立っている。顔は真青だ。造型は緊張しつくし、同感であった。

 寺から後醍醐陵へと石段が続く。北面の円墳だ。悲憤をこめて京を睨んでいるのだという。」

「🌸『太平記』と吉野山

 『太平記』40巻は後醍醐天皇則の文保2(1318)年から後村上天皇の正平22(1367)年までの約50年間の南北朝の動乱を描いているが、巻5から吉野山が舞台となる。笠置落城ののち、大塔宮護良親王は十津川をへて熊野にはいり、吉野の僧徒を味方にすることに成功し、30予騎を率いて吉野山に立てこもる。ついで、巻7で北条軍との合戦が語られる。合戦は元弘3(1333)年3月、要害なので容易に落ちなかったが、金峰(きんぷ)山寺の執行の裏切りがあり、宮方は苦戦となった。そのとき、村上義光は大塔宮の鎧を着て敵前で割腹、息子義隆も追撃を防いで討ち死にし、宮は高野山へとのがれた。

 義光は信濃の人、源頼清の子孫。早くから大塔宮に従い、しばしば勇武の活躍があった。墓は薬師堂跡の南丘陵にあり、天明3(1783)年大和高取藩士内藤景文が建てた忠烈碑がある。」


月組『桜嵐記』『Dream Chaser』-東京宝塚劇場千穐楽ライブ配信(4)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/8c6770e6f11a23a723f0995a60fc7cd5

月組『桜嵐記』『Dream Chaser』-東京宝塚劇場千穐楽ライブ配信(3)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/04e08e0d1bc761b00a04696cf01fa09a


 出陣式の場面の決死を覚悟をした楠木正行の美しさを思い出しました。

 ウエクミ先生、『太平記』を現代語訳で、全巻でしょうか、読んでいるんですね。オリジナル作品を生み出し続ける座付き作家は、1本の脚本を書くためにどれぐらいの文献資料を読み込んでいるのか、知識の積み重ねの上に想像の翼を広げてオリジナル作品を生み出し続ける。当たり前みたいになっていますが、すごい文化。