2008年『フェルメール展』より-「絵画芸術」(5)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/63115588370af07835450577c376de8a
ヨハネス・フェルメール《絵画芸術》
1666-1668年頃
ウィーン、美術館史美術館、油彩、カンヴァス
120× 100㎝
(公式カタログより)
「一方、≪絵画芸術≫が真に示しているのは、絵画という概念を支える寓意的あるいは図像学的な細部の寄せ集めではない。それは絵画それ自体の美しい視覚的な饗宴のなかにこそ求められるべきだろう。フェルメールは、見事な自然主義的手法や、線遠近法や空気遠近法を駆使する能力、色彩、光と雰囲気の処理のみならず、カメラ・オブスキュラを参照したと思しき焦点面の操作を通じてわれわれを魅了する。それは驚くほど細かく描かれた絵画面と平行のいくつかの平面(地面のグレーズのかかった表面など)、テーブルやタペストリーのような焦点ボケを起こした他の部分にまずは現れる。後者の部分は、ハイライトによって活気づけられ、熟達した、個別的な、四角い筆遣いでとらえられている。それは、現代を先取りしたフェルメール版の点描主義であり、点となって弾けている。結果として現れた焦点の移動は、現在の視覚学習に実に近く、まるでスチール写真のようだ。写真術が発明されて以来、フェルメールが大きな人気を呼んできた理由の一つはこのあたりにあるのだろう。いずれにしても、フェルメールの芸術が迫真の技に優れているという点に関して、今日、ほとんど異論はない。彼の錯視的表現の扱いは、ほとんど並外れたものと見なされている。テーブル上のマスクは女神タレイアであろうが、それは直ちに、錯視効果を生み出す画家としてのフェルメール自身の力をほのめかしもしよう。マスクは、リーバの『イコノロギア』における擬人像「絵画」の持物だったからだ。リーバは、画家が絵画芸術を視覚化し、実践するに際しさまざまな変装を試みると認識していたのだ。先に記述したように、フェルメールが成し遂げた迫真の表現は、単に目の前にあるものの記録にとどまらない。それは絵画という役者によって組み立てられた表現である。その役者は、恥ずかしがってわれわれに背を向け、決してマスクを外さない。
本作品はおのれと全ての画家たちの芸術にとっての完全な見本であるーフェルメールがどれほどそのことを確信していたかは、他の彼の作品と異なり、本作品を技術的に分析しても何ら重要な変更点が認められないことからおのずと明らかである。彼は準備段階の構図を徹底的に洗練させ、これ以上修正する必要がないというところまで考え抜いたに違いない。あらゆる偉大な作品と同様に、ウィーンのフェルメール作品にはこれしかないと感じさせるところがある。」
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/63115588370af07835450577c376de8a
ヨハネス・フェルメール《絵画芸術》
1666-1668年頃
ウィーン、美術館史美術館、油彩、カンヴァス
120× 100㎝
(公式カタログより)
「一方、≪絵画芸術≫が真に示しているのは、絵画という概念を支える寓意的あるいは図像学的な細部の寄せ集めではない。それは絵画それ自体の美しい視覚的な饗宴のなかにこそ求められるべきだろう。フェルメールは、見事な自然主義的手法や、線遠近法や空気遠近法を駆使する能力、色彩、光と雰囲気の処理のみならず、カメラ・オブスキュラを参照したと思しき焦点面の操作を通じてわれわれを魅了する。それは驚くほど細かく描かれた絵画面と平行のいくつかの平面(地面のグレーズのかかった表面など)、テーブルやタペストリーのような焦点ボケを起こした他の部分にまずは現れる。後者の部分は、ハイライトによって活気づけられ、熟達した、個別的な、四角い筆遣いでとらえられている。それは、現代を先取りしたフェルメール版の点描主義であり、点となって弾けている。結果として現れた焦点の移動は、現在の視覚学習に実に近く、まるでスチール写真のようだ。写真術が発明されて以来、フェルメールが大きな人気を呼んできた理由の一つはこのあたりにあるのだろう。いずれにしても、フェルメールの芸術が迫真の技に優れているという点に関して、今日、ほとんど異論はない。彼の錯視的表現の扱いは、ほとんど並外れたものと見なされている。テーブル上のマスクは女神タレイアであろうが、それは直ちに、錯視効果を生み出す画家としてのフェルメール自身の力をほのめかしもしよう。マスクは、リーバの『イコノロギア』における擬人像「絵画」の持物だったからだ。リーバは、画家が絵画芸術を視覚化し、実践するに際しさまざまな変装を試みると認識していたのだ。先に記述したように、フェルメールが成し遂げた迫真の表現は、単に目の前にあるものの記録にとどまらない。それは絵画という役者によって組み立てられた表現である。その役者は、恥ずかしがってわれわれに背を向け、決してマスクを外さない。
本作品はおのれと全ての画家たちの芸術にとっての完全な見本であるーフェルメールがどれほどそのことを確信していたかは、他の彼の作品と異なり、本作品を技術的に分析しても何ら重要な変更点が認められないことからおのずと明らかである。彼は準備段階の構図を徹底的に洗練させ、これ以上修正する必要がないというところまで考え抜いたに違いない。あらゆる偉大な作品と同様に、ウィーンのフェルメール作品にはこれしかないと感じさせるところがある。」