たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

2008年『フェルメール展』より-「絵画芸術」(6)

2021年09月16日 13時59分05秒 | 美術館めぐり
2008年『フェルメール展』より-「絵画芸術」(5)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/63115588370af07835450577c376de8a

ヨハネス・フェルメール《絵画芸術》
1666-1668年頃 
ウィーン、美術館史美術館、油彩、カンヴァス
120× 100㎝

(公式カタログより)

「一方、≪絵画芸術≫が真に示しているのは、絵画という概念を支える寓意的あるいは図像学的な細部の寄せ集めではない。それは絵画それ自体の美しい視覚的な饗宴のなかにこそ求められるべきだろう。フェルメールは、見事な自然主義的手法や、線遠近法や空気遠近法を駆使する能力、色彩、光と雰囲気の処理のみならず、カメラ・オブスキュラを参照したと思しき焦点面の操作を通じてわれわれを魅了する。それは驚くほど細かく描かれた絵画面と平行のいくつかの平面(地面のグレーズのかかった表面など)、テーブルやタペストリーのような焦点ボケを起こした他の部分にまずは現れる。後者の部分は、ハイライトによって活気づけられ、熟達した、個別的な、四角い筆遣いでとらえられている。それは、現代を先取りしたフェルメール版の点描主義であり、点となって弾けている。結果として現れた焦点の移動は、現在の視覚学習に実に近く、まるでスチール写真のようだ。写真術が発明されて以来、フェルメールが大きな人気を呼んできた理由の一つはこのあたりにあるのだろう。いずれにしても、フェルメールの芸術が迫真の技に優れているという点に関して、今日、ほとんど異論はない。彼の錯視的表現の扱いは、ほとんど並外れたものと見なされている。テーブル上のマスクは女神タレイアであろうが、それは直ちに、錯視効果を生み出す画家としてのフェルメール自身の力をほのめかしもしよう。マスクは、リーバの『イコノロギア』における擬人像「絵画」の持物だったからだ。リーバは、画家が絵画芸術を視覚化し、実践するに際しさまざまな変装を試みると認識していたのだ。先に記述したように、フェルメールが成し遂げた迫真の表現は、単に目の前にあるものの記録にとどまらない。それは絵画という役者によって組み立てられた表現である。その役者は、恥ずかしがってわれわれに背を向け、決してマスクを外さない。

 本作品はおのれと全ての画家たちの芸術にとっての完全な見本であるーフェルメールがどれほどそのことを確信していたかは、他の彼の作品と異なり、本作品を技術的に分析しても何ら重要な変更点が認められないことからおのずと明らかである。彼は準備段階の構図を徹底的に洗練させ、これ以上修正する必要がないというところまで考え抜いたに違いない。あらゆる偉大な作品と同様に、ウィーンのフェルメール作品にはこれしかないと感じさせるところがある。」










宝塚の“マカロン型ペンライト”とファンの愛の込もった“デコ”に驚きとときめきが止まらない

2021年09月16日 12時19分02秒 | 気になるニュースあれこれ
「おしゃれすぎん?」「魔法のステッキみたい」 宝塚の“マカロン型ペンライト”とファンの愛の込もった“デコ”に驚きとときめきが止まらない
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2109/14/news116.html

 「「マカロン・シャンシャン・ペンライト」とは、宝塚歌劇宙組公演『Delicieux(デリシュー)!-甘美なる巴里-』の公式グッズのこと。公演のテーマ「スウィーツ」に合わせ、ピンク色のマカロンを4つ積み重ねた甘くかわいいデザインのペンライトです。ショーの一部にこのペンライトを使用した客席一体型の演出があるため、ファンにとっては必携のアイテムなのだとか。価格は1本2500円で、宝塚歌劇のオフィシャルショップ「キャトルレーヴ」で販売しています。」

 「Twitter上では、このペンライトとファンによるデコレーションのかわいさが話題に。」

 「SNSには、このペンライトのデコレーションを楽しむ写真が「#マカロンシャンシャンペンライト」というタグとともに多数投稿されています。」












手術するのか、しないのか

2021年09月16日 01時20分06秒 | 日記
 眠剤まだ数日分ありますが、夕方だるい体をバスと電車に乗せてかかりつけ医に行きました。採血してきました。リハビリ専門のところで手術しかないと言われたことを話すと、今の医者は手術しかなければはっきりとそう言う、手術したくなければ手助けするよという姿勢だと。手術すればまた働けるからいいじゃないかと。インフォームド・コンセント、机の上の勉強で知っています。かつてガンであることを知らされなかった時代とは違う。患者が知った上で選ぶ、患者には知る権利、選ぶ権利がある。手術するかしないのかを選ぶのわたし、手術するならどこの病院で手術するかを決めるのもわたし。

 わかっていますが、普通の人のように動かない膝が痛いのをどうすればいいのかと考えると、手術したいですって言って紹介状をまた書いてもらって総合病院を予約して何日か、何週間か待って診察を受けて、手術の説明を受けて、そのあと役所に行って保証人と生活の心配が解決できたら、手術しますって言って、手術に向けた手続きと検査をして、それから手術に向けたPTによる運動療法を受けられるのかな。わかりませんが今の自分の理解だとこういうこと。リハビリの余地はないと診断された以上治療はない、手術しますってなったからってすぐ手術できるわけではなく、手術に向けた体をつくっていくために運動療法を行うということは○○整形外科のPTからききました。手術、手術って言われて、ググると一般的なことは出てきますがあくまでも一般的なこと、わたしの場合は具体的にどうなのかを知りたければ紹介状をもって総合病院を受診するということしかありません。具体的な流れや費用はどこもだいたい変わらないからどこかで説明をきいてから決めてもいいとはリハビリ専門のところで言われました。手術をしないという選択をしたらどうなるのかを知るにはどうすればいいのか、どうしても手術はしたくないと言ったらじゃあご勝手にかな、手術しなくても治るとうたっているところを探し求めていくのか。

 右足に痛みと痺れが走り、かばうことで左足も痛くて体全体のバランスもかなり悪いこの状態で4月末までの10か月、頑張り続けてしまっていたということになります。気力だけでした。手術をするかしないか、どちらかしかない、二か所でそう言われたんだから三ヶ所も同じなんでしょうね、それとも医者によって違うのかな。自覚が足りなさすぎた自分がいけないだけですが、3か月前まで全く考えたことがなかった手術、手術と言われて、弟には絶対知らせたくない、知られたくないし、数カ月間無収入と考えると頭の中パニック、一般的には1か月ぐらいの入院みたいですがその間部屋が心配だし、いろいろと滞る、パソコンできないし、全身麻酔の間に終わりますよと言われてもこわいし、コロナコロナの社会の中でその先に希望があると思えません。

 こんな険しい山なんだろう、こんなんも越えられない、こんなん越えたいっていう気力が湧いてこない、それでも希望を持って生きられるか試されているの?希望を信じてやれることをやろうって結果的には間抜けでしたが頑張ってきて、それでもまだ頑張りが足りないのか、もっともっと頑張れっていうことなのか。なにを目指してがんばらなければならないのか、どこに希望があるのか、どこに希望があるのかわからない、希望がみえなければこれ以上がんばれない。

 明日はまた気力を奮い立たせてお仕事探しの相談窓口に行かなければなりません。また言われてしまうのかな、ここまで整形外科に行かなかった自分もいけないって。自分でわかったからもういいよ。

 パートタイマーの仕事週3日でも通勤無理かな。迷惑かけちゃうかな。少しでも収入は必要なので打ち合わせで相談しませう・・・。