たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

ホワイトライオンの赤ちゃん-ライブ配信

2021年09月04日 23時16分39秒 | 日記
ホワイトライオンの赤ちゃんがすくすく成長中
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/8695e5d789e315af989291051d80c739


 7月30日に姫路セントラルパークで誕生したホワイトライオンの赤ちゃん(男の子)が元気いっぱいに成長中。9月5日15時より無料のライブ配信があるとのお知らせ。今しか出会えないかわいさ。姫路セントラルパークのインスタライブには一瞬でもよいので見に来てくださいとのメッセージ。

 帝王切開で生まれた赤ちゃんがこんなに元気に。

 チーターのしばふちゃんも幼少期を過ごした毛布部屋で遊ぶ姿に元気をもらえます。 

https://www.youtube.com/user/HIMEJICENTRALPARK

https://www.instagram.com/hcpsafari/

月組『桜嵐記』『Dream Chaser』-東京宝塚劇場千穐楽ライブ配信(3)

2021年09月04日 16時07分05秒 | 宝塚
月組『桜嵐記』『Dream Chaser』-東京宝塚劇場千穐楽ライブ配信(2)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/ed02c89273fefd5dcd52fb0981a5412f



『桜嵐記』、

 楠木正時@鳳月杏さんと百合@海乃美月ちゃんは三途の川で再会できたのだろうか、二人で手に手をとって永遠に終わる時のない、極楽浄土へと渡ったのだろうか、ふとそんなことを考えます。『Another World』では、三途の川の渡し場に初音@有沙瞳ちゃんの働く「めいど・かふぇ」がありますが、二人がそこでゆっくり語り合うことができていればと思います。ウエクミ先生の容赦ない描き方、こんなことを考えないと切なすぎます。歴史に名を残すことのない、たくさんの正時と百合が史実ではいたのでしょうね。

 天皇家による政権復活に執着して亡霊となってたびたび現れる後醍醐天皇@一樹千尋さんの難しい台詞、ぐぐってみると「太平記」に記された格言。

「玉骨は縦(たとい)南山の苔に埋るとも,魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほつけつ)の天を望(のぞま)ん(「太平記」)」

デジタル版 日本人名大辞典+Plus「後醍醐天皇」の解説
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87-65042

 南北朝時代を映像や舞台にすることはむずかしいんですね。後醍醐天皇をどう描くのか、「現皇統は1392年の南北朝の合一(明徳の和約)以来、北朝である。」(ウィキペディアより) 後醍醐天皇が南朝の政権復活に執着しなければ、北朝と和睦の折衝を行うべきだという楠木正行の進言をきいて南朝の公家たちが聞き入れていれば正行と正時の若い命を戦いで散らすことはなかったのではないか。楠木正儀(まさのり)@月城かなとさんに「楠木正成は本当は南朝に殺されたのではないか、楠木家はなんのために戦っているのか」と言わせていることにウエクミ先生の立ち位置が明確に示されていると捉えていいようです。


いつも素敵な舞台レポをあげてくださるヴァンサンカンさんの宝塚への愛に満ちた記事、

よくご存知でいらっしゃる、嬉しいですね。
「今まで、轟悠さん、明日海りおさん、愛希れいかさんなど錚々たる方々が舞台上で珠城さんの腕に抱かれて命を落としましたが、その最後を飾る(?)のが自他共に認める盟友でもあり、自称相手役でもある鳳月杏さん。作・演出の上田先生のデビュー作『月雲の皇子』では逆のシチュエーションでしたから、お二人のファンにはまさに感無量のシーンの一つ。」

美園さくらちゃへの賛辞がファッション誌ならでは。
「美園さんも、まさに今、満開の美しさと実力で魅了し、眩しいほどの輝き。衣裳デザイナーを触発するミューズのようなビジュアルにも惚れ惚れします。」

【宝塚歌劇☆舞台レポ】月組『桜嵐記(おうらんき)』『Dream Chaser』

リンクを貼ろうとするとヴァンサンカンの文字が不正としてはねられてしまうのでツィートしてみました。ご興味があればこちらから。写真もキャプションも素敵です。

https://twitter.com/ahan_ben








 昨日珠城りょうさんのスタッフ公式ツィッターがスタート。11月に月組・花組の100周年を記念したコンサートに続いて、12月は明日海りおさんのコンサートにゲスト出演と発表されました。みりおちゃん、東京のコンサート会場は、東京国際フォーラムAホール、5000人収容のAホールを個人で満席にできるのは井上芳雄さんとみりおちゃんだけでしょう。さすがでございます。5000人でもわたしはいけないか・・・。

 美園さくらちゃんはどうしているのかな、どこかで生きていてくれればそれだけで嬉しいです。生きていますよと顔を出してほしいな。大千秋楽の最後、さくらちゃん渾身の「珠城さん大好きです」にたまきちがそっけなかったの、男子高校生が照れちゃって好きな女の子にわざとツンツンしてしまうみたいなノリということでいいんですね。東京公演プログラムに掲載されたさよならポートレート、二人で映っている写真がないのはちゃぴへの配慮なのか。さくらちゃんが真っ白なウエディングドレスに白い薔薇の花束、たまきちは正装に白い花束を持って花嫁のもとへ向かおうとしているというシチュエーションでいいでしょうか。



 先日宙組でも実感したように、ライブ配信と劇場での観劇は全く違います。一度でも劇場で観劇したあと千穐楽をライブ配信で見届けることができてよかったです。劇場の2階席から全体をみると、桜の花びらが舞い散る舞台、ウエクミ先生の美意識がつまった作品でした。盆周りとせり上がりのふんだんに使った演出はストレスフリーでいいものです。

 メンタルやられそうなこんな時こそ舞台、こんな時こそエネルギーを感じられる場所が必要。なかったらコロナで死ぬことはないかもしれなくてもその前に心が死んでしまう。劇場の灯りは希望、わたしたちの心を照らしてくれる光。


2008年『フェルメール展』より-「絵画芸術」(4)

2021年09月04日 00時27分09秒 | 美術館めぐり
2008年『フェルメール展』より-「絵画芸術」(3)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/5fa725d1bb37bf67386419bbc06d6e04

ヨハネス・フェルメール《絵画芸術》
1666-1668年頃 
ウィーン、美術館史美術館、油彩、カンヴァス
120× 100㎝

(公式カタログより)

「パトロンや好事家や良家の芸術愛好家が画家のアトリエを訪れるというのは、この頃には、長い伝統となっていた。それはルーベンスやヴァン・ダイクやペラスケスのアトリエを訪れる王侯貴族のことを思い起こせば足りるであろう。地元オランダでは、コンスタンテイン・ハイヘンスが若きレンブラントやリーフェンスを訪問したし、トスカーナのコジモ・デ・メディチ3世が年老いたレンブラントをはじめ、様々なオランダ画家のアトリエを訪れた。若き紳士ピーテル・テーディング・ファン・ベルクハウトは、1669年に何名かの画家のアトリエをへめぐり、「フェルメールという有名な画家」を訪ねるが、その際、おそらく彼が見たという絵画のうちの1点が《絵画芸術》であった。スライテルは、この作品は芸術家が実物見本あるいはおのれの芸術の重要なサンプルとして手元においていた作品だと、主張しているが、説得力のある見解である。彼は傍証として、ミヒール・ファン・ムスヘルの1705年の目録に同じ主題、つまり「絵画芸術を描写した」絵画が含まれていたという事実を引用してもいる。(略)フェルメールによる本作品は、デルフトの好事家向けの単なる広告以上のもの、むしろ画家の腕の高さを眼に見えるようにすべく構想されたもの、つまり、この水準は満たす、という基準作品であり、フェルメールのまさに魂の見せ所となる作品だった。ひるがえって、画家の注意は、人物全体をまだかたどっていないようなのに、月桂樹の冠の細部に向けられている。本作品には名声と栄誉が授けられているのだから、何の不思議もなかろう。

 画家のアトリエを描いた作品には、鑑賞者に背を向ける画家を描くという伝統がある。鑑賞者は、あたかも製作中の絵画を観察する訪問者であるかのようだ。(略)

 本作品の画中の画家は、画家の顔が見えないという事実にもかかわらず、しばしばフェルメールであるとされてきた。理由の一つは、切り込みの入った彼の上着が《取り持ち女》の左側の人物が着用しているものと同じ、あるいは似通っているからである。この人物が自画像であるという推測は、彼が間の抜けた笑いを実にあからさまに鑑賞者に向けているという事実、並びに画家の自画像に昔から関連づけられてきた姿勢をとっているという事実に支えられている。多くの美術史家は、本作品に描かれた画家が時代錯誤的にも16世紀ブルゴーニュ地方の衣装を着用していると誤って推測してきた。かくいう私もその一人であった。画家が着用しているベレー帽は、実際に16世紀のものだが、次の世紀にも(レンブラントの多くの自画像を参照されたい)、さらには今日に至るまで、芸術家のトレードマークとなっている。より重要なのは、マリーケ・デ・ウィンケルが明らかにしたように、両袖と背中にスリットの入った縞状のこの典型的な上着が時代遅れのスタイルではなく、実際には、1620年代と30年代のオランダにおいて見受けられたスタイルのリヴァイヴァル版をさらに洗練させたものであったということだ。」

                                      →続く