たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

日比谷な一日、舞台はやっぱり生がいい

2018年05月27日 22時14分22秒 | 宝塚
 明日に備えて時間があまりなくなってきてしまったし、部屋の中ではちっそくしそうだし、でも店の中は寒すぎるし心がこもっていない「ありがとうございます」を言われても全く嬉しくないしの日曜日の夜、一週間は長いので少しだけ思い出し。5月26日は11時から東京宝塚劇場で宙組観劇、17時45分から帝国劇場で『モーツァルト』初日観劇、どちらも気持ちがあがって舞台はやっぱり生がいいなとしみじみ思いました。あらためてゆっくり書きたいですが断片的に。

 宙組『天は赤い河のほとり』、花組から組替えになったキキちゃん(芹香斗亜さん)、二番手スタートとトップ娘役との相性って大切なんだなと。『ハンナのお花屋さん』の印象が深いだけになんか複雑なものがありましたがのびのびやっている姿をみることができてこれでよかったんだなと。ユーリに迫っていく場面、まどかちゃんとすごく合っているし、ラムセスの出番が少なかったですが登場するとカッコよさと可愛さマックス、カタカナだらけの人名と地名がたくさん出てくる場面があったのですがひとつも澱むことなく全部聴き取りやすかったのは花組で培ってきた力なんだとわかりました。たぶんものすごく言いにくいはずですが全くにごりがありませんでした。原作知りませんがプログラムに掲載されているイラストなどをみるとたぶん再現度がすごく高いんだろうなと。風のごとく滅び去って行った古代ヒッタイトのつかの間の繁栄を描いた物語、舞台の上には赤い土の渇いた風景がひろがっていて素敵でした。真風さん、まどかちゃんを軽々?お姫様だっこ、身長差もあるし、まどかちゃん色白で細くって可愛くって、でも芯のあるところが素敵、漫画の中からそのまま抜け出してきたような王子様とお姫さま感、半端ない。キキちゃんも背高いし、大型の男役がそろった宙組ならではの楽しみなトライアングルの誕生だと思いました。カイルが最後ラムセスに言う「おまえはおまえのなすべきことをなせ」ってどこかできいたことがあるセリフに似ています。邪馬台国の風のインパクト、ある意味強すぎます。クコチヒコのキキちゃん、かっこよかったー。

 帝国劇場『モーツァルト』初日、すごい楽曲の連続が続くのにまとまっていてよくできている作品なんだとあらためて実感。まず曲がいいし、出演者が豪華。一幕最後、「影を逃れて」を出演者全員が歌う中、自分の腕に羽ぺんを刺した血で狂ったように譜面を書き続けるヴォルフガングと幼い頃の自分の影アマデとが対決して幕が下りるシーン、とりはだ。二幕最後、「おれが死ねばお前も死ぬんだ」というヴォルフガングの命尽きるとアマデはヴォルフガングの膝の上に崩れ落ちて命尽きる様が壮絶。「神がつかわした奇跡の人~♪」、沁みました。心が揺さぶれました。初日にして育三郎さんの歌唱力がすごくって、芝居力がすごくってとりはだでした。和音美桜さんのナンネール、すごく可愛くって、女性があるがゆえに音楽家の道を歩めなかった悔しさが切なかった。弟のために自分を犠牲にした感が切なかった。市村正親さんの父レオポルト。2014年のプログラムに書かれている人物像を読むと体現度がすごく高いんだなと。ウィーンで成功したヴォルフガングに危さを感じて認めることができなかったところがなんとも切なくって、人生ってむずかしんだなと。ヴォルフガングにレクイエムを依頼する仮面の人物も市村さん、オペラ座の怪人みたいで市村さんの本領発揮といったところ、この役市村さんにしかできないなって思いました。他にいろいろと書きたいですが時間切れとなりました。明日起きられん。おしまい、おしまい、明日を無事に生き延びねばです。

 連投失礼しました。

カウンセリングスクールのレポートより_精神分析入門

2018年05月27日 19時08分57秒 | 祈り
 昨夜は昼も夜も観劇で生の舞台のよさに圧倒されて就寝が久しぶりに2時を回りました。なんとか7時間眠ったもののひどく眠い日曜日。足が疲れていますがやっぱりちっそくしそうな部屋は限界。いや斜め向かいの引きこもりのオッサンはずっといるのでね、朝も昼も夜も、平日も土曜日も日曜日も。家賃はどこからでているのかと考えると答えはひとつしかなく、家賃と住民のクオリティは比例するのだと思い知りました。金曜日の夜、なかなか入居者が決まらない部屋の不動産会社らしき人たちと出くわし、家賃安いですよって売っていくっていう会話をしていましたが安いのにはちゃんとわけがあるわけで安いのはそれなりで、稼ぎが悪くてこんな部屋にしか住めない自分にはそれだけの力しかないということ、一日も早く逃げ出さねばと思いますが、仕事つらすぎるし次にどうしたらいいのかわからないので身動きできずの日々。向かい側の部屋から掃除機かけている音がきこえてくるなんていややがな。それだけで緊張するがな、っていうぐちはいい加減にして、断捨離で再会した妹とお別れの翌年の自分。もがきにもがきながら、土曜日にカウントダウンを受けたNPO法人のカウンセリングスクールの講座を最初に受講したのが精神分析入門。平成7年1月から3月にかけてのことでした。レポートはまだ卒論を書く前でレポートの体裁としてはなんとも稚拙でひどいものですが、必死でした。なんで自分の家族なんだろうって知りたくって必死でした。かつえるように答えを求めていました。心を病むとはどういうことが知りたくって必死でした。今も休日にそんなことを考えたくないし、そんな日々が遠いことのように思えててきているこの頃でもういいかなっていう気がしています。これからは自分のために生きたいです、できるだけ楽しいことを考えながら生きていきたいです。レポートはここに書いたらお別れ。一応全部デジタル化していますが、レジメやら手書きメモやらお別れ中です。観劇続きでプログラムが増えてきてしまい、いざという時に持ち出すことはできないので気持ち焦り気味ですがまずは過去のものからお別れ中。


「「フロイトーその自我の軌跡」を読んで                 

 フロイトの精神分析への歩みは、ノイローゼ状態の自分を分析することから始まった。父ヤコブの死を契機とした精神的危機を、フリースに対して自らが患者の立場になった自己分析によって乗り越え、自己自身の無意識に潜むエディプス・コンプレックスを発見するに至った。「人間フロイトは、私たちと少しも変わらない人間的な弱さに苦しみながら、しかも、自我への道を、その生涯をかけて辿った」その精神力の強さに、感嘆しないではいられない。それこそが、フロイトに与えられた天分だったのではないだろうか。

 自我の目ざめー自分自身の内なる声に耳を傾けて、無意識の扉を開いていくことは、とても苦しいことであるはずだ。しかも、そうしないではいられない。自分の弱さを認められることこそ、本当に強いことなのかもしれない。わたしの中に、このような自我の強さはあるのだろうか?

 昨年9月、わたしより一年二か月おくれてこの世に生を受けた妹が、自ら人生にピリオドを打ってしまった、ことをきっかけに、カウンセリングを学ぼうとし始めている。そうして気づいた、わたし自身に、まずカウンセリングが必要なんだと、ということに。訃報をきいた瞬間から葬儀まで、一連の出来事は、まだまだ生々しく脳裏に焼き付いてはなれない。その後もまだ続いていた両親の不調和、ノイローゼ気味の母、そしてこの父と母の血がつながっていることをいとわしく思うわたし、何故こんなことがおこってしまったのか、どう受け取めて進んでいけばいいのかわからないことばかりだ。

 事実をきちんと受け取めたいと思った。妹が残してくれたものはなにかさがして行きたい。生前あまり心を通わせることなく永遠に別れてしまった妹への、せめてものつぐないにカウンセリングを学びたい。しかし、結局は、自分が楽になっていきたいからであることを認めざるをえない。しかも、進んでいけば、なお苦しくなっていきそうである。幼い時から、そりが合わなかった、その妹が、数年前ゴタゴタを起こしてから始まった母のノイローゼ、以来、わたしの中に妹への恨みがずっとあった。いなくなってしまえばいいのに・・・と思ったことが、一度ならずなかったか? あったのだ。急逝の一週間前、妹が電話をかけてきた時、わたしはうっとおしく思った。「死にたいと思ったこと、何度もある」と口にしたのに対して、わたしは(・・・)」と言った。こんな事実は、認めたくない。口に出したくない。家族・友人にはとても言えない。しかし、消えない事実だ。突き放してしまった、という思いが、今もわたしを責め続けている。逃れられるものならば逃れたい。だが、逃げることはできない、いや、逃げてはいけないのだと思う。そう思えば思うほど、苦しくなってくる。弱い自分との葛藤の日々だ。

「自分自身の犯す罪は、自己自身の衝動に、ひいては自己自身の人格にその責めを負わせねばならない。」自分をただ一個の人間として客観的に見つめ、まづ自分の愚かしさ、弱さを認めていく。その過程では、鏡となる第三者の存在が必要だ。そこから新たな自分との出会いが生まれ、よりよく歩もうとする強さが生れてくる。自覚することが、オトナになることだ。

 自分を知りたい。父と母の子である自分を知りたい。今まで、わたしはこうなんだと思い続けてきたわたしとは違うわたしがいるかもしれない。精神分析を今後も学んでいくことは、新しいわたしと出会っていくためのひとつの道しるべになるだろう。まだ入口にたったばかりだ。

 夫婦・親子・家族ーお互いを結びつけるお互いのエロス(性愛)があるから、対立し、敵対しあっているはずの個々人が社会集団を形成し、その中で生きている、というエロス論について、深めていきたと思っている。「各集団メンバーはお互いが共有しあう自我理想を介して、お互いに自己愛的に同一視しあい、一体感をわかちあうのである」なら、その「集団幻想に対する個としての自我を確立する」のには、「並外れた自我の強さが必要である。」迷いや過ちを繰り返しながら、それらをも成長の糧として、自我の目ざめへの歩みを辿った人間フロイトは、人間の奥底に潜む無意識への意識の扉を開けてくれた。その姿は、時代を超えて生き生きとわたしたちに語りかけてくるエネルギーをもっている。学ぶべきことは多い。

 いつのことになるかわからないが、わたし自身も、一個の人間たる自分の弱さを乗り越えていきたいと思う。本当の意味でのオトナになりたい。長い、葛藤の日々の歩みは、これからも続いていくだろう。カウンセリングは、始まったばかりだ。

 参考文献:「フロイトーその自我の軌跡」小此木圭吾著(NHKブックス)」


 講師評は、

1、テーマに近づけて書く。

2、鉛筆では書かない。(原稿用紙に鉛筆書きで提出したので・・・)

3、個人の体験も一部は良いが一般論抽象論として考え、書くこと。フロイトの理論が然り。

4、自分用の言葉は使わない。

 提出しただけで合格でした。のたうちまわるような苦しみもこんなもんかって感じでした。自分の体験を言葉にして昇華できるまでにはまだまだ時間が必要でした。

 ぼやぼやしていると休日は終わりゆき、地獄のような日々のはじまり、また一週間の海。五日間は長いのよ、ほんとに。あー、長い・・・。