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たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

雨の週末、土曜日なり・・・

2016年09月24日 22時39分06秒 | 日記
 週末、土曜日。なんとか無事に一日が終わりました。今日も朝から雨でした。外に出ると風が涼しく感じるのに、中はムシムシ。地下にいると暑くって、重ね着していると汗臭くなっちゃっていやですね。わたしの土曜日は水曜日だったので、残念ですが明日一日だけのお休みで月曜日から金曜日までフル出勤。長いなあ、つらいなあ。来週のシフト表もらいましたが、火曜日と水曜日のお昼休憩が13時30分からになっているし、はあっ!こんな土曜日はまだあと六回もあるんですよね。今日で一回減りました。残りの稼働日数が減りました。グチっている場合か、次のことを考えろよ、って感じですがすり減ってすり減ってズタズタになり気力を消耗し尽くしたところからここまで回復してきたわたしには、そこまでの気力がわきません。どうすればいいのか・・・。ほんとにわからないまま、時は過ぎていきます。たぶん失業保険を受けとるのはきびしいです。ハ〇〇ワークに確認しなければ・・・ですが今は気力がわかないなあ。マンションの契約を更新することなく実家に引き上げるか否かという決断は大きすぎて今のわたしにはできないのですが、さりとてこれからも家賃も含めた収入を確保していくのはむずかしいだろうなあ。毎日毎日雨だし、いやなニュースばっかりだし、なんだか気持ちはあがりません。雇われるために書類を準備して面接を受けて、というプロセスをまた繰り返すことはいまのわたしにはできそうにないです。なんだかね、罪を犯したわけでもないのに、罪を犯した人みたいに労働紛争になってしまったこと正直に話せないのもつらいです。必死に隠さなければならないのつらいです。でもこうして話せないことを抱えながら生きている方が、なんだか生きているっていう醍醐味があるのかな。なんかちょっとヘンな言い方ですが・・・。


「僕の経験を振り返ると、「この人は素敵な人だな」と思う人に共通して言えることがあります。それは、「秘密の抱え方が上手」だということ。つまり、「自分の言うべきこと」と「言わないでおくべきこと」の区別がきちんとできている人のことです。そういう人は、たいてい寡黙で、必要以上にしゃべらない。そして、いろいろなことを言わないで済ませていることが、すごく多い気がします。

 この寡黙さは、大人になる過程で徐々に身につけていくものだと思います。逆に、子どもは、自分が思っていることを全部さらけだしてしゃべってしまう無邪気な存在です。しかし、無邪気だった子どもも成長するにしたがって、次第に無口になっていきます。それは、アン・シャーリーとて例外ではありません。

 自分が思ったことは何でも口にしていたアンも、やがて秘めた思いをもつ女性へと変わっていく。アンが抱える最大の秘密は、ギルバートへの思いでした。しかし、その思いをアンは封印します。親友のダイアナに対してさえ、ギルバートの名前を口に出すことをしなくなる。

 少女が大人になるということは、秘密を抱えることなのだと思います。大人になるための身体の変化やそれに伴う心の変化など、さまざまなことがあって、秘密を抱えるようになり、寡黙になっていく。

 逆に、大人になっても秘密を抱えることができない人は、子供のまま成熟していないか、もしくは「おばさん」化していると言えます。ここでいうおばさんの定義とは、見た目のことではありません。メンタリティにおいて「おばさん」でることを指しています。

 「おばさん」と魅力的な女性との違いはどこにあるのかと言うと、自分の中の秘密をどう処理するか、ということではないでしょうか。たとえば、「おばさん」は、自分の中にある無意識を垂れ流しにします。言葉に対するコントロールが非常にゆるくなっていて、自分が思ったことをどんどんしゃべる。かつて秘密であったことまでしゃべってしまう。「おばさん」が無意識を垂れ流しにするのは、自分の言ったことが相手にどういう影響を与えるか、ということについて、全く注意を払っていないからです。

  ところが、魅力的な女性は、自分のひと言ひと言が、いかに重い意味を持つかわかっているので常に発言に気をつけています。(略)

 自分が何の気なしに発言したひと言で、自分が思った以上の反応が返ってくる。それは、嬉しいことであると同時に、恐ろしいことでもあります。嬉しいことは、自分のひと言ひと言に周りが感心したり、賞賛したり、気をつかってくれたりすること。反対に、恐ろしいことは、自分の発言が変に解釈されたり中傷されたり、誤解を招き非難されたりすることです。

 そして、どちらかというと、恐ろしい目にあうことのほうが多いように思います。人に対して何を言って、何を言わないか、を判断する基準は、「聖なる峻別」といってもいいくらい慎重にすべきものなのだと思います。」

(茂木健一郎『「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法』講談社文庫、2008年12月12日第一刷発行、136-139頁より。)

 わたしは過去になんどか恐ろしい目にあっているので、特に就労の場では余計なことは言わないようにしています。それでも気がついたら、あらぬ誤解を受けて突然いじめられるようになった、なんてこと何度かあります。言葉を選んで話すことって大切だと思いますが、茂木さんが書かれている、「「おばさん」は言葉に対するコントロールがゆるくなっている」はなるほど、そういうことなのか、と溜飲が落ちるような思いです。相手がどう思うかなんて全くおかまいなし、しゃべり始めたらとまらない、いわゆる「おばさん」のおしゃべりパワーはどっから出てくるのか、朝から夕方まで声がうるさいし、面倒くさいし、内輪だけならまだしも外から来所者に対しても話し始めたら止まらなくなっていることがあるので、恥ずかしいしほんとに勘弁してほしい。自分勝手なことに全く気づいていないの、勘弁してほしい。少しは自分が言っていることを振り返ってみろよ、いい加減にしろよ、って心の中で思っていますが、人がどう思うかなんて全くおかまいなしの自分勝手。こういう人ともうまくやれないといけないのか。主婦同士。うまく合わせている人は合わせているんですよね。さすがうまいなあって思います。うまくやれないわたしはこういう「おばさん」が五人も六人もいそうなところで働くのはとうてい無理。もう少し落ち着いてきたら、ほんとうにお休みしたいなあ。わたし、たぶん父とのお別れから今まで、プリンス・エドワード島を旅した時をのぞけば、ミュージカルを観劇している時をのぞけば、いつも不安で落ち着かなくって心からお休みできていないと思います。心からお休みしたいな。明日は一日だけの、またひきこもりの休日を過ごします。長いっ!

「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法 (講談社文庫)
茂木健一郎
講談社