やっと金曜日の夜になりましたね。
今週もパソコンを持ち歩きながらさまよってしまいました。
平日の居心地の悪さにまだ慣れません。時間かかりそうです。
人にどう見られているのかなんてどうでもいいことを、ついつい過剰に気にしてしまいます。
昨日は下見としてこんなことがなければ足を踏み入れることはなかったであろう場所に行ってきました。もう少し先に私自身のための本番が待っています。棚卸をしながら、色々と勉強になります。こういう機会を与えられたのだと思うようにします。
どんな結果に落ち着くことが本当に望ましいことなのか、実はまだ私自身がよくわかっていません。わからないまま進んでいきます。
気持ちがほんの少し楽になってきたせいか、胃の痛みがずっと止まらなかったのが少しずつやわらいできました。薬を飲んでいれば大丈夫だとかかりつけの内科の先生が仰るので大丈夫でしょう。
『赤毛のアン』の最終章を思い出します。
「そして道には、いつも曲がり角があり、そのむこうには新しい世界が広がっているのだ!」(集英社文庫、松本侑子訳より)。
きっと無駄なことは一つもないと信じて進んでいきます。
卒業論文の参考資料を整理していると、色々な感情が入り混じっていた自分を思い出してしまい、苦しさもよみがってきたりしてきりがありませんが、また引用してみます。
よろしかったらおつき合いください。
「「OL」とはいったいどのような女性を指すのか。
まず、職業。OLと言えば、一般には事務職従事者をイメージする。「サラリーマンとOL」というふうにサラリーマンの対句として、工場のラインで働くいわゆるブルーカラーの従業員ではなく、オフィスの中で働くホワイトカラーの女子従業員の意に使われることが多い。しかしこの場合、販売や営業職従事者、あるいは研究者や技術者は果たして「OL」なのかどうか。次に職種。1986年の均等法施行以来、幹部候補の総合職社員と、総合職を補助する一般職もしくは事務職社員という職種区分が広く用いられるようになった。
通常、ノンキャリア組の一般職女性をOLと呼ぶが、キャリア組の総合職女性は、果たして「OL」なのかどうか。これと関連することではあるが、階級も問題である。ふつうOLは、肩書きを持たない社員を指すことが多いが、女性の係長、課長、あるいは部長は果たして「OL」なのかどうか。さらに属性、とくに年齢。一般にOLというと若い女性を想像するが、たとえば、50代の女性も「OL」と呼びうるのかどうか。その上、最近では雇用形態の多様化も考慮に入れなければならない。つまり、OLは正社員に限るのだろうか。それとも派遣や契約社員、パートタイムで働く女性も「OL」なのかどうか。
ひとまず「OL」とは、正社員として現在及び将来にわたって管理的責任を持たずに、深い専門的もしくは技術的知識を必要としない一般事務的、もしくは補助的業務を行う女性とする。(略)OLという言葉からは通常若い女性をイメージするが、ここではとくに年齢で制限するようなことはしていない。OLと呼ぶには年をとりすぎている年齢とはいったい何歳のことなのか一致した見解があるわけではなく、また、「若くないOL」、あるいはそのようなOLになる可能性が、OLの生活実感上、非常に大きな意味をもつのではないかと考えるからである。」
(小笠原祐子『OLたちのレジスタンス』中公新書、1998年発行、7-11頁より抜粋して引用しています。)
「われわれはどんなことも、腕を伸ばすことさえ、自分では始められない。だれも神経や筋肉に命令を与えてそれらを始めるわけではない。そうではなく、運動がひとりでに始まるのだ。われわれの仕事は、その運動に身をゆだねて、これをできるだけうまく遂行することである。だから、われわれはけっして決定はせず、つねに舵をとるだけである。猛りたった馬の首を向けなおす御者のようなものだ。しかし、猛りたつ馬でなければ首を向けなおすことはできない。そして、出発するとはこのことだ。馬は活気づき、走り出す。御者はこの奮起に方向をあたえる。同様にして、船も推進力がなければ舵にしたがうわけにはいかない。要するに、どんなしかたでもいいから出発することが必要なのだ。それから、どこへ行くかを考えればいい。
(アラン著、串田孫一・中村雄二郎訳『幸福論_人生における微笑の役割』白水社、1990年発行、74-76頁_宿命より引用しています。)
今週もパソコンを持ち歩きながらさまよってしまいました。
平日の居心地の悪さにまだ慣れません。時間かかりそうです。
人にどう見られているのかなんてどうでもいいことを、ついつい過剰に気にしてしまいます。
昨日は下見としてこんなことがなければ足を踏み入れることはなかったであろう場所に行ってきました。もう少し先に私自身のための本番が待っています。棚卸をしながら、色々と勉強になります。こういう機会を与えられたのだと思うようにします。
どんな結果に落ち着くことが本当に望ましいことなのか、実はまだ私自身がよくわかっていません。わからないまま進んでいきます。
気持ちがほんの少し楽になってきたせいか、胃の痛みがずっと止まらなかったのが少しずつやわらいできました。薬を飲んでいれば大丈夫だとかかりつけの内科の先生が仰るので大丈夫でしょう。
『赤毛のアン』の最終章を思い出します。
「そして道には、いつも曲がり角があり、そのむこうには新しい世界が広がっているのだ!」(集英社文庫、松本侑子訳より)。
きっと無駄なことは一つもないと信じて進んでいきます。
卒業論文の参考資料を整理していると、色々な感情が入り混じっていた自分を思い出してしまい、苦しさもよみがってきたりしてきりがありませんが、また引用してみます。
よろしかったらおつき合いください。
「「OL」とはいったいどのような女性を指すのか。
まず、職業。OLと言えば、一般には事務職従事者をイメージする。「サラリーマンとOL」というふうにサラリーマンの対句として、工場のラインで働くいわゆるブルーカラーの従業員ではなく、オフィスの中で働くホワイトカラーの女子従業員の意に使われることが多い。しかしこの場合、販売や営業職従事者、あるいは研究者や技術者は果たして「OL」なのかどうか。次に職種。1986年の均等法施行以来、幹部候補の総合職社員と、総合職を補助する一般職もしくは事務職社員という職種区分が広く用いられるようになった。
通常、ノンキャリア組の一般職女性をOLと呼ぶが、キャリア組の総合職女性は、果たして「OL」なのかどうか。これと関連することではあるが、階級も問題である。ふつうOLは、肩書きを持たない社員を指すことが多いが、女性の係長、課長、あるいは部長は果たして「OL」なのかどうか。さらに属性、とくに年齢。一般にOLというと若い女性を想像するが、たとえば、50代の女性も「OL」と呼びうるのかどうか。その上、最近では雇用形態の多様化も考慮に入れなければならない。つまり、OLは正社員に限るのだろうか。それとも派遣や契約社員、パートタイムで働く女性も「OL」なのかどうか。
ひとまず「OL」とは、正社員として現在及び将来にわたって管理的責任を持たずに、深い専門的もしくは技術的知識を必要としない一般事務的、もしくは補助的業務を行う女性とする。(略)OLという言葉からは通常若い女性をイメージするが、ここではとくに年齢で制限するようなことはしていない。OLと呼ぶには年をとりすぎている年齢とはいったい何歳のことなのか一致した見解があるわけではなく、また、「若くないOL」、あるいはそのようなOLになる可能性が、OLの生活実感上、非常に大きな意味をもつのではないかと考えるからである。」
(小笠原祐子『OLたちのレジスタンス』中公新書、1998年発行、7-11頁より抜粋して引用しています。)
「われわれはどんなことも、腕を伸ばすことさえ、自分では始められない。だれも神経や筋肉に命令を与えてそれらを始めるわけではない。そうではなく、運動がひとりでに始まるのだ。われわれの仕事は、その運動に身をゆだねて、これをできるだけうまく遂行することである。だから、われわれはけっして決定はせず、つねに舵をとるだけである。猛りたった馬の首を向けなおす御者のようなものだ。しかし、猛りたつ馬でなければ首を向けなおすことはできない。そして、出発するとはこのことだ。馬は活気づき、走り出す。御者はこの奮起に方向をあたえる。同様にして、船も推進力がなければ舵にしたがうわけにはいかない。要するに、どんなしかたでもいいから出発することが必要なのだ。それから、どこへ行くかを考えればいい。
(アラン著、串田孫一・中村雄二郎訳『幸福論_人生における微笑の役割』白水社、1990年発行、74-76頁_宿命より引用しています。)