ここに詳細を書くことはできませんが、ようやく動こうとしています。
今すぐというわけではありません。こういうことは時間がかかります。
私はまだしどころがなく、中途半端な状況で落ち着きません。
次のことが全く考えられず不安でもあり、苦しいところですが、先ずは今の状況を突破することに力を注いでいくしかありません。
ほとんどの人が泣き寝入りしてしまって、ここまでくることはないそうです。
我慢し続けるのは大変なエネルギーが要ります。
でも声をあげていかないとなにも変わっていかない・・・。
ここまでくることができたのですから、あとふたふんばりぐらいでしょうか。
道筋がなんとなく見えてきたのでまだ時間はかかりますが、自分でたたかっていくと決めたのですから、辛抱していこうと思います。
もう少し進んだ先に、曲がり角の向こうにある次の道がきっと見えてくる、今は全くみえませんが、今はただそう信じるしかありません。
卒業論文の参考資料からです。
「”幸福を求めない人はいないはずだ。“ 私たちは希望をいだき、幸福を求めて生きる。幸福は到達さるべき目標としてあるわけではなく、あくまで実現さるべきものとして求められる。私たちの日常生活は、幸福と希望を追求し、そうしたものの実現をめざす生活であるといってよかろう。日常生活の哲学があるとすれば、それは幸福の哲学であるにちがいない。しかし、日常生活において私たちはさまざまな不安におそわれるし、絶望状態におちいってしまうこともある。不安や絶望から脱出することが必要だ。生活の知恵は、そのような場面に求められるものであろう。日常生活は、他者たちとおのれ自身のそれぞれとバランスをとるために行われる私の活動なのである。私の生は、私自身によってしか生きられないが、生活は本来他者たちとの共同的な活動にほかならない。人間は共同生活を通じて、人類に文化的遺産を継承してくることができたし、そうした共同的活動によって、社会的世界を組織化したり、日常生活を秩序づけたりすることができたのである。
人間は自己自身の幸福だけをもとめるわけではなく、他者の幸福を祝福し、共同の平和と福祉をともに求める。そうした存在なのである。現実の状況がどのようなものであろうとも、悲惨と絶望のはるかかなたに希望の灯を見出そうとする幸福追求こそ、人間の独自性が認められるだろう。私たちは多かれ少なかれ、理想と現実の間に生きている。日常生活は、理想と現実の距離を縮めようとする所に成立するものであり、日常生活には本来なんらかの生活哲学と生活設計、生活技術がみられるはずであろう。」
(山岸健著『日常生活の社会学』1978年発行、NHKブックス、109-111頁より引用しています。)
「(和田さん45歳、10年前駆け込み結婚をした女性へのインタビューから)
彼女は親元にいたらか身にしみていないのかもしれないが、家という屋根を得ることが、どんなに大変なことか。人に与えてもらったような安定の上で、さらに精神的な安定をも他者から得ようとするのは、甘いような気がする。
淋しいシングル女性が駆け込み結婚し、淋しい主婦になった。つまり本人をとりまく状況は変わったが、衣が変わっただけで本人そのものは変わっていない。環境を変えることは簡単だが、自分を変えることはむずかしいのだ。
(略)
シングルだから淋しい、結婚しているから幸福という方程式はない。もし和田さんがシングルであのままずっと働いていたとしても、幸せをみるけることはできたにちがいない。
結婚できても、幸福だと感じなければ幸福ではない。
淋しさというのは、結局、自分自身の心の問題で、人や条件が取り除いていくれるものではないのだ。
大事なのは、今の自分をイキイキと生きているかどうか。そして、自分で決めたこと、行動したことに、責任をもつことではないだろうか。」
(松原惇子著『クロワッサン症候群 その後』文芸春秋 1998年発行、116頁、119頁より抜粋して引用しています。)
今すぐというわけではありません。こういうことは時間がかかります。
私はまだしどころがなく、中途半端な状況で落ち着きません。
次のことが全く考えられず不安でもあり、苦しいところですが、先ずは今の状況を突破することに力を注いでいくしかありません。
ほとんどの人が泣き寝入りしてしまって、ここまでくることはないそうです。
我慢し続けるのは大変なエネルギーが要ります。
でも声をあげていかないとなにも変わっていかない・・・。
ここまでくることができたのですから、あとふたふんばりぐらいでしょうか。
道筋がなんとなく見えてきたのでまだ時間はかかりますが、自分でたたかっていくと決めたのですから、辛抱していこうと思います。
もう少し進んだ先に、曲がり角の向こうにある次の道がきっと見えてくる、今は全くみえませんが、今はただそう信じるしかありません。
卒業論文の参考資料からです。
「”幸福を求めない人はいないはずだ。“ 私たちは希望をいだき、幸福を求めて生きる。幸福は到達さるべき目標としてあるわけではなく、あくまで実現さるべきものとして求められる。私たちの日常生活は、幸福と希望を追求し、そうしたものの実現をめざす生活であるといってよかろう。日常生活の哲学があるとすれば、それは幸福の哲学であるにちがいない。しかし、日常生活において私たちはさまざまな不安におそわれるし、絶望状態におちいってしまうこともある。不安や絶望から脱出することが必要だ。生活の知恵は、そのような場面に求められるものであろう。日常生活は、他者たちとおのれ自身のそれぞれとバランスをとるために行われる私の活動なのである。私の生は、私自身によってしか生きられないが、生活は本来他者たちとの共同的な活動にほかならない。人間は共同生活を通じて、人類に文化的遺産を継承してくることができたし、そうした共同的活動によって、社会的世界を組織化したり、日常生活を秩序づけたりすることができたのである。
人間は自己自身の幸福だけをもとめるわけではなく、他者の幸福を祝福し、共同の平和と福祉をともに求める。そうした存在なのである。現実の状況がどのようなものであろうとも、悲惨と絶望のはるかかなたに希望の灯を見出そうとする幸福追求こそ、人間の独自性が認められるだろう。私たちは多かれ少なかれ、理想と現実の間に生きている。日常生活は、理想と現実の距離を縮めようとする所に成立するものであり、日常生活には本来なんらかの生活哲学と生活設計、生活技術がみられるはずであろう。」
(山岸健著『日常生活の社会学』1978年発行、NHKブックス、109-111頁より引用しています。)
「(和田さん45歳、10年前駆け込み結婚をした女性へのインタビューから)
彼女は親元にいたらか身にしみていないのかもしれないが、家という屋根を得ることが、どんなに大変なことか。人に与えてもらったような安定の上で、さらに精神的な安定をも他者から得ようとするのは、甘いような気がする。
淋しいシングル女性が駆け込み結婚し、淋しい主婦になった。つまり本人をとりまく状況は変わったが、衣が変わっただけで本人そのものは変わっていない。環境を変えることは簡単だが、自分を変えることはむずかしいのだ。
(略)
シングルだから淋しい、結婚しているから幸福という方程式はない。もし和田さんがシングルであのままずっと働いていたとしても、幸せをみるけることはできたにちがいない。
結婚できても、幸福だと感じなければ幸福ではない。
淋しさというのは、結局、自分自身の心の問題で、人や条件が取り除いていくれるものではないのだ。
大事なのは、今の自分をイキイキと生きているかどうか。そして、自分で決めたこと、行動したことに、責任をもつことではないだろうか。」
(松原惇子著『クロワッサン症候群 その後』文芸春秋 1998年発行、116頁、119頁より抜粋して引用しています。)