65オヤジのスタイルブック

体罰と愛育(2)

地元に帰った僕は、ボタンティア団体の役員をしていた。
夏休みの期間を利用して、地元の小中学校にユネスコの識字教育の支援活動を依頼した。

ある中学校を訪問したとき、あの担任教師に久しぶりに再会した。
なんと先生は、中学の校長になっていた。
世間話のなか、僕が美術関係の仕事をしていると聞くと、盛んに地元の美術協会への入会を勧誘してきた。先生は、美術専攻でこの協会の会長でもあった。
僕は、その場で即答を避けた。
実は、同業者が利用された挙句に倒産に追い込まれた経緯があったからだ。
ちなみに、入会を避けた僕の店に、未だ一度も訪れたことはない。
ボランティアの話は、教頭先生にまかせて、その先生は早々に退席された。

地元の子供たちと担当の先生の協力により、多大な貢献ができた。
後にこの活動は、ユネスコ本部のスポーツ部長やベトナムやバングラデシュのユネスコ幹部から賞賛をいただいた。

地元の子供達からの読み書きのできない発展途上国の子供達へ支援を通して思いやりの教育ができたと自負している。
子供たちの愛が、世界の子供たちへ届けられた。

話はそれたが、その先生は、僕たちの後体罰が無くなったそうだ。
その後、先生は順調に昇進し、小中学校の校長を歴任され、定年後天下り、公民館の館長になられた。その公民館の玄関には、先生の絵が飾られている。

先輩からは、あの先生の体罰は今でも許せないと言う話を聞く。一方で後輩は、あの先生が体罰教師だったことが信じれないと言う。

体罰が愛だと言うならば、本当に生徒が間違いを犯したとき行なわれるものではないか。
決して日常的に行なわれるものではないはずだ。しかも、成長過程の小学生に対して行なわれるものではない。

僕が先生なら、生徒が間違いを犯したときにだけ、殴る前に心から涙が流れる如く訴える。愛とはそういうものではないだろうか。
愛ある教育ならば、心は必ず揺り動かされると僕は信じている。

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