[※ ↑「原発さえなければと思います」(週刊金曜日、2021年03月12日、1320号)] (2025年01月19日[日])
核発電全開という愚行。正気を失っている。
《原発回帰》《原発復権》《原発を最大限活用》核発電全開…《「脱原発依存」の看板を下ろすのは、福島の教訓を忘れ去るということだ》(東京新聞)。「教訓」も「警告」も無視して暴走する原子力依存症、核発電「麻薬」中毒者ども。特に許せないのが、コミ、および、玉木雄一郎コミ代表(3カ月役職停止処分中、2025年03月03日まで)だ。福島を元の姿に《原状回復》(する努力すら)することなしに、《原発復権》《原発回帰》を後押しし、《原発依存度「可能な限り低減」の文言削除》され、《原発を「最大限活用する」》に舵を切らせた。政権や経産省、カルト協会とヅボヅボな「利権」「裏金」「脱税」党の背中を押して、「核発電全開」へと向かわせた。
『●女川核発電所2号機を再稼働したい…《辛うじて難を逃れたにすぎません》、
そのような幸運に次回も恵まれると思っているオメデタさ…』
『●原発マネーに群がる核発電「麻薬」中毒者の意地汚さ…《辛うじて難を
逃れたにすぎ》ない、《辛うじて事なきを得たにすぎない》女川原発を再稼働』
『●「閉じない環」破綻した核燃サイクル…《1993年から26回の延期…
核燃料サイクル政策は要の再処理工場の稼働が見通せず、「破綻」》が露わ』
《各電力会社は使用済み核燃料を再処理工場に搬出できず、急場しのぎの
対応に追われている。使用済み核燃料を保管する原子炉建屋内の
貯蔵プールが満杯になると、原発を運転できなくなるためだ。
東北電力は2月、女川原発(宮城県)の敷地内に新たな保管先
とする「乾式貯蔵施設」を設けると発表した。乾式貯蔵施設は、
プールで十分に冷やされた核燃料を金属製の容器に密封し、空冷
保管する。水がなくなれば重大事故になりかねないプール保管より
も、リスクが低い。東北電によると、今年9月に再稼働予定の
2号機のプールは貯蔵率75%で、運転再開から4年ほどで満杯になる。
乾式貯蔵施設を28年に稼働させるという余裕のない計画を示した。》
『●“日本一避難しにくい原発”伊方原発…大島堅一さん「エネルギー政策で、
インフラが不十分で逃げにくい場所を選び、差別的にリスクを押し付け」』
「志賀原発、女川原発、柏崎刈羽、そして伊方原発…稼働させたいという
核発電「麻薬」中毒者に好き勝手やらせていると、日本中が迷惑し、
世界にも事故の影響が及ぶ恐れ。」
『●もう一度、「幸運に恵まれる」とでも思っているのかね? 《辛うじて難を
逃れた》にすぎない、《辛うじて事なきを得たにすぎない》女川原発を再稼働』
『●《周辺住民には地震と津波、その後の大事故の衝撃がなお生々しい》女川核
発電所再稼働…周辺住民はあのような「幸運」に、再度、恵まれるだろうか?』
『●小出裕章さんは《国が福島県に約束した廃炉へのロードマップはただの県民を
ごまかすだけのパフォーマンスであり、…悪質な時間稼ぎであると見ています》』
『●核発電バンザイなホシュという矛盾…《地震大国の日本には、北海道から
沖縄まで原発を動かせる場所はどこにもない》(樋口英明さん)というのにね』
『●樋口英明元裁判官《地震大国の日本には、北海道から沖縄まで原発を動かせる
場所はどこにもない》はずなのに、仙台高裁ときたら住民側の控訴を棄却』
『●核発電賛成派の周辺住民の皆さん、いいんですね? 経産省や電力会社、原子力
「推進」委員会は「事故時、避難できませんよ」と言っているのに等しい』
『●樋口英明元裁判官《地震大国の日本には、北海道から沖縄まで原発を動かせる
場所はどこにもない》はずなのに、仙台高裁ときたら住民側の控訴を棄却』
『●東京電力核発電所人災の教訓も能登半島地震の警告も無視してオンボロ核発電
所を稼働させたいとはね…ところで、福島は「原状回復」したのですね?』
『●ホントにオメデタイ国だ…14年前の「教訓」やわずか1年前の「警告」を
無視する、経産省や原子力「推進」委員会委員ら核発電〝麻薬〟中毒者たち』
『●《エネルギー基本計画…原発依存度「可能な限り低減」の文言削除》…原発
依存症、核発電〝麻薬〟中毒な皆さん…もうどうかしてしまっているニッポン』
『●「教訓」も「警告」も無視して暴走…《原発活用は政府と同じ方向》な
玉木雄一郎コミ代表(3カ月役職停止処分中)が《原発復権》を大きく後押し』
『●《原発回帰》《原発復権》《原発を最大限活用》核発電全開…《「脱原発依存」
の看板を下ろすのは、福島の教訓を忘れ去るということだ》(東京新聞)』
『●2011年3月11日「震災も原発事故もまだ終わっていない」…「教訓」や
「警告」はどこに? 原発復権・原発回帰して原発依存度を上げていいのか?』
『●《除染土》という名の汚染土を全国に拡散する気満々…《除染土の再利用
「粉じんが飛び、内部被ばくする可能性」指摘 公共事業などに活用する国方針》』
東京新聞の記事【こりずに原発回帰...「福島事故を忘れたのか」 エネルギー基本計画原案に被災者「県が撤回を働きかけて」】(https://www.tokyo-np.co.jp/article/376129)によると、《政府が新しいエネルギー基本計画の原案で「原発の最大限活用」に方針転換したことを巡り、東京電力福島第1原発事故の福島県内の被災者らでつくる5団体が26日、内堀雅雄知事に対し、国に事故後苦しんできた福島の現状を伝え、異議を唱えるよう申し入れた》、《◆被災者の生活や仕事は事故前の状況に戻っていない 申し入れ書では、県内12市町村の避難指示が出た区域では住民登録者数と居住人数を比べると、約4万7000人が戻れていないと指摘。避難者の4割が心的外傷後ストレス障害(PTSD)の疑いがあるとする大学の調査結果を提示した。生活や生業が戻らず苦しみが続く中、基本計画の原案は「福島の事故がなかったかのようにしている。県民の苦しみを何ら顧みないものだ」》。
『●第八回竜一忌、涙が出ました: 松下竜一さん「暗闇の思想」を語る小出裕章さん』
『●いま「暗闇の思想」を: 朝日新聞(地方版?)社界面トップ』
『●あの3・11原発人災から1年: 松下竜一さん「暗闇の思想」を想う』
『●原発を稼働させるということ = 誰かの犠牲の上でしか成り立たない社会』
《誰かの犠牲の上でしか成り立たない社会》で良いのか?
山川剛史記者による、東京新聞の記事【「いったん全てを疑おう」原発報道の姿勢が決まった 誰かの犠牲の上に立つ「繁栄」は変えなければ】(https://www.tokyo-np.co.jp/article/374860)によると、《◆原発だけを遠方につくっていた、ということは 見渡してみれば、火力発電所なら東京湾沿いに多数あります。電力会社だけでなく企業の自家発電も無数にあります。電力消費地の中にある方が有利だからです。しかし原発はいずれも周辺人口が少ない地域にだけあり、わざわざ送電ロスもあるのに何百キロも送電線を引いてきています》。
『松下竜一 未刊行著作集4/環境権の過程』より。
《「電気需要増加は必至ではないかという問いかけ…。…現在の電力に頼りきった文化生活そのものへの反省と価値転換であり、少数の被害者には目をつぶって成り立つ多数の幸福という暗黙裡の差別的発展への懐疑であり、さらに大きく根本的には、電力をとめどなく食いつぶしてやまぬ高度経済成長政策の拒否である」(p.107)。「…だれかの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬと。/じゃあチョンマゲ時代に帰れというのか、と反論が出る。必ず出る短絡的反論である。…今ある電力で成り立つような文化生活をこそ考えようというのである。…/…ただひたすらに物、物、物の生産に驀進して行き着く果てを、私は鋭くおびえているのだ。/「一体、物をそげえ造っちから、どげえすんのか」という素朴な疑問は、…開発を拒否する風成で、志布志で、佐賀関で漁民や住民の発する声なのだ。…/…都会思考のキャッチフレーズで喧伝されるのなら、それとは逆方向の、むしろふるさとへの回帰、村の暗がりをもなつかしいとする反開発志向の奥底には、〈暗闇の思想〉があらねばなるまい」(pp.116-117)》。
内橋克人さんの〈浪費なき成長〉につながる〈暗闇の思想〉。
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【https://www.tokyo-np.co.jp/article/374860】
山川剛史記者
「いったん全てを疑おう」原発報道の姿勢が決まった 誰かの犠牲の上に立つ「繁栄」は変えなければ
2024年12月31日 15時00分
〈福島第1原発事故を見つめた14年〉②
多くの方がそうだったと思いますが、2011年3月の東日本大震災、とりわけ東京電力福島第1原発事故は、頭をハンマーで殴られたような衝撃でした。
正直なところ、こんなことが現実に日本で起きるとは信じられませんでした。
◆福島が負っていた巨大リスクを認識していなかった自分
なぜ首都圏の電力をわざわざ遠い福島でつくっていたのか。
いかに巨大なリスクを福島に押し付けていたのか。
ろくに認識せずに生きてきた自分が恥ずかしかったです。
(福島第1原発から首都圏に向かう送電線。現在この地は、
除染で出た汚染土置き場となっている=福島県大熊町で)
「だれかを踏みつけにしながら、都市を繫栄させるようなことを続けていてはいけない。日本は、いや自分が生活様式を含めて変わらなきゃいけない」
刻々と悪化する原発事故の状況を紙面化しながら、そう心に刻みました。
その思いが私の原点です。
◆原発だけを遠方につくっていた、ということは
見渡してみれば、火力発電所なら東京湾沿いに多数あります。
電力会社だけでなく企業の自家発電も無数にあります。
電力消費地の中にある方が有利だからです。
しかし原発はいずれも周辺人口が少ない地域にだけあり、わざわざ送電ロスもあるのに何百キロも送電線を引いてきています。
(柏崎刈羽原発のある新潟県から伸びる送電線
=群馬県中之条町で)
首都圏向けでいうなら、一番近い原発でも日本原子力発電 東海第2(茨城県東海村)が都心(ひとまず国会にしました)まで直線距離で約114キロ。
東京電力福島第2原発が215キロ、東電福島第1原発が226キロ。
東電柏崎刈羽原発(新潟県)が220キロ、東電がまだ計画をあきらめない東通原発(青森県)にいたっては632キロもあります。
この異常なまでの立地の違いが意味することは、原発が抱えるリスク(危険性)の巨大さにほかなりません。
福島で原発事故が...……
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東京新聞のコラム『筆洗』(http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2013030402000101.html)。
「何もなかったかのように、原発回帰に向かう安倍政権の姿勢が鮮明になってきた。地震列島に五十基を超える原発を造ってきたのは自民党政権だ。その自覚のなさに驚くしかない」・・・・・・全く同感。自公に手を貸す人の「自覚のなさ」にも。
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【http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2013030402000101.html】
【コラム】
筆洗
2013年3月4日
小さな虫を地べたで観察し続けたファーブルは、『昆虫記』にこんな言葉を残している。<人間というものは、進歩に進歩を重ねた揚句(あげく)の果てに、文明と名づけられるものの行きすぎのために自滅して斃(たお)れてしまう日が来るように思われる>▼人類史で初めて投下された広島、長崎への原爆に続き、「レベル7」の福島第一原発の事故を経験した今、ファーブルの警句は原子力時代の到来を予言したのか、と思えるほど示唆的だ▼東日本大震災から来週で二年を迎える。津波で家を失った被災者の大半はまだ仮設住宅で暮らしている。原発事故の避難者の多くは家に戻れるめども立っていない▼「かつてない大災害だったにもかかわらず、東京で暮らしていると、人々の被災者への思いが『少しずつ風化しているのでは』と感じることがある」と本紙の「東京下町日記」でドナルド・キーンさんは危機感をにじませる▼原発を動かしたい人々には、事故の風化は好都合なのだろう。経済産業省の露骨な人事が発表された。エネルギー基本計画を検討する有識者会議から、脱原発派の委員五人が外れ、推進派の学者や原発立地県の知事らに代わった▼何もなかったかのように、原発回帰に向かう安倍政権の姿勢が鮮明になってきた。地震列島に五十基を超える原発を造ってきたのは自民党政権だ。その自覚のなさに驚くしかない。
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この1年、何も変わらないどころか、自民党が復権し、原子力ムラの復活がより一層鮮明になり、事態は最悪の方に進んでいると言わざるを得ない。
1年前のブログを振り返ってみると、事態は深刻。
『●あの3・11原発人災から1年: 松下竜一さん「暗闇の思想」を想う』
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【http://blog.goo.ne.jp/activated-sludge/d/20120311】
あの3・11から1年。あの時、個人的な事情もあり、こと(原発人災)の重大さに全く気付いていなかったし、ブログにも何も書いていない。2日後からようやく、それについて書き始めている。刻一刻と人災の側面が浮き彫りになり、いまに至っても、解決したと言える側面はほとんど無いといって過言ではない。メルトダウンした原子炉についても、冷温停止「状態」という言葉遊びで糊塗している。原発内部の状況はつかめていないし、知ることもできないのに。何が一体事故「収束」宣言なのか。ストレステストという計算ごっこでお茶を濁し、その〝計算された〟結果を易々と受け入れる原子力ムラお抱えの委員会。マスコミやネット、市民が騒ぎ過ぎる、不安を煽りすぎるという大御所〝ジャーナリスト〟子供にとっては20倍のリスクでは収まらないであろう年間20ミリシーベルトどころか、笑っていれば100でもオッケーと嘯く学者。市民、特に、罪なき子供達の側に立とうともしない司法。ジャーナリズムの根本としての批判精神なきマスコミ。その結果として、原子力ムラの望む原発再稼働・原発建設再開・原発輸出に向けて着々と進んでいる。
小出裕章さんの云う「たかが電気のために・・・」をよく考えるべきである。この1年目の節目に再度、松下竜一さんの「暗闇の思想」を想う。
『●いま「暗闇の思想」を: 朝日新聞(地方版?)社界面トップ』
再々度?、しつこく、再掲(http://blog.goo.ne.jp/activated-sludge/e/e1b263002193a77c5f47ca07c54ff5f2)。『松下竜一 未刊行著作集4/環境権の過程』より。
《「電気需要増加は必至ではないかという問いかけ・・・。・・・現在の電力に
頼りきった文化生活そのものへの反省と価値転換であり、
少数の被害者には目をつぶって成り立つ多数の幸福という暗黙裡の
差別的発展への懐疑であり、さらに大きく根本的には、電力をとめどなく
食いつぶしてやまぬ高度経済成長政策の拒否である」(p.107)。
「・・・だれかの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、
その文化生活をこそ問い直さねばならぬと。/じゃあチョンマゲ時代に帰れ
というのか、と反論が出る。必ず出る短絡的反論である。
・・・今ある電力で成り立つような文化生活をこそ考えようというのである。
・・・/・・・ただひたすらに物、物、物の生産に驀進して行き着く果てを、
私は鋭くおびえているのだ。/「一体、物をそげえ造っちから、
どげえすんのか」という素朴な疑問は、・・・開発を拒否する風成で、
志布志で、佐賀関で漁民や住民の発する声なのだ。・・・/・・・都会思考の
キャッチフレーズで喧伝されるのなら、それとは逆方向の、むしろふるさとへの
回帰、村の暗がりをもなつかしいとする反開発志向の奥底には、
〈暗闇の思想〉があらねばなるまい」(pp.116-117)。
内橋克人さんの〈浪費なき成長〉につながる〈暗闇の思想〉。》
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asahi.comの記事(http://www.asahi.com/national/update/0721/TKY201207200768.html)。朝刊のトップニュース。
朝刊を見て驚いた。呆れた。きっと下請け・孫請け会社に押し付けて、トカゲのしっぽ切り、そして電力会社は問題を矮小化。これは構造的・普遍的な原発を持つ電力会社の問題で、被爆労働なくして成り立たない労働問題、社会問題。
こんなことをやっていても、「放射能の直接的な影響で死んだ人は一人もいない」らしい。電力会社はそう嘯いている。
『●原発意見聴取会: 広告代理店に丸投げ』
『●ある原発労働者のつぶやき』
こういう社会におののかない原発再稼働派・原発推進派・原発輸出派の人たちの感性ってどうなのか? その平気さが理解不能である。
『●第八回竜一忌、涙が出ました: 松下竜一さん「暗闇の思想」を語る小出裕章さん』
『●いま「暗闇の思想」を: 朝日新聞(地方版?)社界面トップ』
『●あの3・11原発人災から1年: 松下竜一さん「暗闇の思想」を想う』
再々々・・・度?、しつこく、再掲(http://blog.goo.ne.jp/activated-sludge/e/e1b263002193a77c5f47ca07c54ff5f2)。『松下竜一 未刊行著作集4/環境権の過程』より。
《「電気需要増加は必至ではないかという問いかけ・・・。・・・現在の電力に頼りきった文化生活そのものへの反省と価値転換であり、少数の被害者には目をつぶって成り立つ多数の幸福という暗黙裡の差別的発展への懐疑であり、さらに大きく根本的には、電力をとめどなく食いつぶしてやまぬ高度経済成長政策の拒否である」(p.107)。「・・・だれかの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬと。/じゃあチョンマゲ時代に帰れというのか、と反論が出る。必ず出る短絡的反論である。・・・今ある電力で成り立つような文化生活をこそ考えようというのである。・・・/・・・ただひたすらに物、物、物の生産に驀進して行き着く果てを、私は鋭くおびえているのだ。/「一体、物をそげえ造っちから、どげえすんのか」という素朴な疑問は、・・・開発を拒否する風成で、志布志で、佐賀関で漁民や住民の発する声なのだ。・・・/・・・都会思考のキャッチフレーズで喧伝されるのなら、それとは逆方向の、むしろふるさとへの回帰、村の暗がりをもなつかしいとする反開発志向の奥底には、〈暗闇の思想〉があらねばなるまい」(pp.116-117)。
内橋克人さんの〈浪費なき成長〉につながる〈暗闇の思想〉。》
原発労働者の「鳴き殺し」については、
『●鳴き殺し・被爆労働者』
『●原発被爆労働という〝原発ジプシー〟の労災』
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【http://www.asahi.com/national/update/0721/TKY201207200768.html】
2012年7月21日5時37分
線量計に鉛板、東電下請けが指示 原発作業で被曝偽装
東京電力が発注した福島第一原発の復旧工事で、下請け会社の役員が昨年12月、厚さ数ミリの鉛のカバーで放射線の線量計を覆うよう作業員に指示していたことがわかった。法令で上限が決まっている作業員の被曝(ひばく)線量を少なく見せかける偽装工作とみられる。朝日新聞の取材に、複数の作業員が鉛カバーを装着して作業したことを認めた。役員は指示したことも装着したことも否定している。厚生労働省は、労働安全衛生法に違反する疑いがあるとして調査を始めた。
【関連記事】「見つからないように」「高線量のところ、お金が高い」
朝日新聞は、福島県の中堅建設会社である下請け会社「ビルドアップ」の役員(54)が偽装工作したことを示す録音記録を入手した。昨年12月2日夜、作業員の宿舎だった福島県いわき市の旅館で、役員とのやりとりを作業員が携帯電話で録音していた。
役員はその前日、作業チーム約10人に対し、胸ポケットに入るほどの大きさの線量計「APD」を鉛カバーで覆うよう指示した。だが3人が拒んだため、2日夜に会社側3人と話し合いがもたれた。役員は録音内容を否定するが、この場にいた複数の作業員が事実関係を認めている。
・・・・・・。
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NPO法人 九州・自然エネルギー推進ネットワーク様の記事(http://nonukes.exblog.jp/15363070/)。末尾に、「「その日」に合わせて・・・」に関しての綿井健陽さんの記事(http://watai.blog.so-net.ne.jp/2012-03-08)も。
引用はしませんが、ポット出版(http://www.pot.co.jp/)のWPにある、「松沢呉一の黒子の部屋」の「お部屋2367/セシウム牛を食べる会」(http://www.pot.co.jp/matsukuro/20120308_082355493927832.html)は必読です。是非、読んでみてください。
あの3・11から1年。あの時、個人的な事情もあり、こと(原発人災)の重大さに全く気付いていなかったし、ブログにも何も書いていない。2日後からようやく、それについて書き始めている。刻一刻と人災の側面が浮き彫りになり、いまに至っても、解決したと言える側面はほとんど無いといって過言ではない。メルトダウンした原子炉についても、冷温停止「状態」という言葉遊びで糊塗している。原発内部の状況はつかめていないし、知ることもできないのに。何が一体事故「収束」宣言なのか。ストレステストという計算ごっこでお茶を濁し、その〝計算された〟結果を易々と受け入れる原子力ムラお抱えの委員会。マスコミやネット、市民が騒ぎ過ぎる、不安を煽りすぎるという大御所〝ジャーナリスト〟子供にとっては20倍のリスクでは収まらないであろう年間20ミリシーベルトどころか、笑っていれば100でもオッケーと嘯く学者。市民、特に、罪なき子供達の側に立とうともしない司法。ジャーナリズムの根本としての批判精神なきマスコミ。その結果として、原子力ムラの望む原発再稼働・原発建設再開・原発輸出に向けて着々と進んでいる。
小出裕章さんの云う「たかが電気のために・・・」をよく考えるべきである。この1年目の節目に再度、松下竜一さんの「暗闇の思想」を想う。
『●いま「暗闇の思想」を: 朝日新聞(地方版?)社界面トップ』
再々度?、しつこく、再掲(http://blog.goo.ne.jp/activated-sludge/e/e1b263002193a77c5f47ca07c54ff5f2)。『松下竜一 未刊行著作集4/環境権の過程』より。
《「電気需要増加は必至ではないかという問いかけ・・・。・・・現在の電力に頼りきった文化生活そのものへの反省と価値転換であり、少数の被害者には目をつぶって成り立つ多数の幸福という暗黙裡の差別的発展への懐疑であり、さらに大きく根本的には、電力をとめどなく食いつぶしてやまぬ高度経済成長政策の拒否である」(p.107)。「・・・だれかの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬと。/じゃあチョンマゲ時代に帰れというのか、と反論が出る。必ず出る短絡的反論である。・・・今ある電力で成り立つような文化生活をこそ考えようというのである。・・・/・・・ただひたすらに物、物、物の生産に驀進して行き着く果てを、私は鋭くおびえているのだ。/「一体、物をそげえ造っちから、どげえすんのか」という素朴な疑問は、・・・開発を拒否する風成で、志布志で、佐賀関で漁民や住民の発する声なのだ。・・・/・・・都会思考のキャッチフレーズで喧伝されるのなら、それとは逆方向の、むしろふるさとへの回帰、村の暗がりをもなつかしいとする反開発志向の奥底には、〈暗闇の思想〉があらねばなるまい」(pp.116-117)。
内橋克人さんの〈浪費なき成長〉につながる〈暗闇の思想〉。》
ブログ『ちあの散歩道』様によると(http://blog.goo.ne.jp/cheer_001/e/61113af9db921e05758daf32b04a4dc6)、松下竜一さんを偲ぶ今年6月16日の「第8回竜一忌」のゲストは小出裕章さんだそうです。すごい!!
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【http://nonukes.exblog.jp/15363070/】
「松下竜一」暗闇の思想館プレオープンします
脱原発市民による市民資料館を開設します
私たちの師であった中津の作家、松下竜一氏が亡くなって今年で8年目になります。松下竜一氏は私たちと一緒に大分の地で脱原発運動をチェルノブイリ原発事故以後、行っていました。氏は1972年に「暗闇の思想を」という文章を朝日新聞に書きました。その翌年に朝日新聞に同名の単行本を出しました。氏はなぜこの文章を書いたのかという説明を1991年に話しています。以下はその内容です。
「暗闇の思想」という文章の中で私が書きましたことは、
たいへん単純なことでありました。要するに「今(一九七二年時点の
ことですが)のような、とめどない電力需要を続けていれば、
これはもう本当に、とどまるところがないんじゃないか。
新たな発電所を建てれば、その建てた発電所によって、
またしても電力需要が喚起されていく。だから、もうここらで
立ち止まるべきだ」ということを言ったに過ぎないわけですね。
それは七〇年代、全国の色んな反開発運動、あるいは反公害運動が
実感的にそういうことを主張していたわけです。
皆さんもよくご存じの、非常に有名な言葉として、四日市公害の被害を
受けた人々が、「汚れた空の下でビフテキを食べるより、きれいな空の下で
梅干しを食べたい」と言っていましたし、あるいは、大分県の臼杵、
この近くの風成という所で、漁村のお母さんたちが目の前の湾が
埋め立てられることに反対して、大変激しいたたかいを展開しましたけれど、
そういう中で、風成の人たちが「もうこんなにモノ、モノ、モノを作り出して
どうするんでしょうな」ということを私に訴えていました。要するに、
高度経済成長の弊害面が際立って出てきたのが七〇年代の初めだったわけですね。
「暗闇の思想」資料館の資料収集にご協力をお願いいたします。
そのような思いから、私たちは当NPOに松下竜一「暗闇の思想館」を開設する準備を行っています。3月にオープンの予定ですが、そこには元慶応大学の藤田祐幸氏の慶応大学時代の資料も搬入済みです。そのほかにも自然エネルギー関係の資料や映像やグッツなども集める予定です。皆さんのご協力をお願いいたします。なお、この資料館はペレットストーブの展示室も兼ねています。写真のストーブはシモタニ製のコンコードです。ぜひ皆さんも一度お越しください。
by nonukes | 2012-02-01 20:46 |
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一方、綿井健陽さんの『逆視逆考PRESS』に以下の記事(http://watai.blog.so-net.ne.jp/2012-03-08)あり。前述の松沢呉一さんの記事も是非どうぞ。
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【http://watai.blog.so-net.ne.jp/2012-03-08】
Twitterまとめ投稿 2012/03/08
wataitakeharu「…から1年」という“メディア・カレンダー”から逃れることは、結構困難なことです。それがマスメディアでも、ミニメディアでも、ミドルメディアでも。何せ私もこれまで、「その日」に合わせて、いろんなことをしてきた身です。それで、張り切ったときあり、待ち構えたときあり。身過ぎ世過ぎです03/07 18:00
wataitakeharu「絆」「復興」「再生」「がんばろう日本」「心ひとつに」……どれも嫌な言葉です。特に今週末は従いたくございません。「不謹慎」で、「いかがわしく」て、「破たん」して、「ボロボロ」で、「ズタズタ」で、「最悪」で、「終わってる」……「が、しかし」「それでも」というものに惹かれております03/07 17:26
wataitakeharuあの日の、あの時間に合わせて、眼を閉じて、手を合わせて、頭を垂れて、涙を流して…という写真や映像とは、「違うもの」は何なのかということを考えている。今週末の3・11の日のテレビニュース映像や新聞写真が早くも眼に浮かぶので、「…じゃないもの」を探している。この選択って、間違ってる?03/07 16:54
wataitakeharuしかし……みんながみんな、今週末の日曜日の日に、何かしなければならないのだろうか?みんな同じ時間に「追悼」する必要があるのだろうか?周りからの強迫観念のようにも感じてきて、だんだん憂鬱になってきたので、逆に一人で別のことをしようかという気もしているが、それもまた「居心地の悪さ」03/07 16:35
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videonews.comの記事より(http://www.videonews.com/news-commentary/0001_3/002121.php)。
我々は、松下竜一さんの「暗闇の思想」論考のいうところの、どんな〝文化生活〟を目指すのか? どんな社会を創ろうとしているのか? 3.11以前の〝文化生活〟に戻すつもりか、だから、原発が必要だとでも云うのか?
松下センセ曰く「誰かの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さなければならぬ」、「いまある電力で成り立つような文化生活をこそ考えよう」。この論考は、3.11以前、はるか39年前の論考です。
しつこく、以下を再掲させて頂く(http://blog.goo.ne.jp/activated-sludge/e/e1b263002193a77c5f47ca07c54ff5f2)。『松下竜一 未刊行著作集4/環境権の過程』より。
《「電気需要増加は必至ではないかという問いかけ・・・。・・・現在の電力に頼りきった文化生活そのものへの反省と価値転換であり、少数の被害者には目をつぶって成り立つ多数の幸福という暗黙裡の差別的発展への懐疑であり、さらに大きく根本的には、電力をとめどなく食いつぶしてやまぬ高度経済成長政策の拒否である」(p.107)。「・・・だれかの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬと。/じゃあチョンマゲ時代に帰れというのか、と反論が出る。必ず出る短絡的反論である。・・・今ある電力で成り立つような文化生活をこそ考えようというのである。・・・/・・・ただひたすらに物、物、物の生産に驀進して行き着く果てを、私は鋭くおびえているのだ。/「一体、物をそげえ造っちから、どげえすんのか」という素朴な疑問は、・・・開発を拒否する風成で、志布志で、佐賀関で漁民や住民の発する声なのだ。・・・/・・・都会思考のキャッチフレーズで喧伝されるのなら、それとは逆方向の、むしろふるさとへの回帰、村の暗がりをもなつかしいとする反開発志向の奥底には、〈暗闇の思想〉があらねばなるまい」(pp.116-117)。内橋克人さんの〈浪費なき成長〉につながる〈暗闇の思想〉。》
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【http://www.videonews.com/news-commentary/0001_3/002121.php】
ニュース・コメンタリー (2011年10月29日)
エネルギー政策の転換には文明の視点が不可欠
福島第一原子力発電所の事故を受けて識者による各種の委員会が設置されるなど、日本ではエネルギー政策の新しい基本方針の模索が始まっているが、そうした委員会の中立性問題を横に置いたとしても、ここまでの議論は原発のリスクやコストといった各論レベルでの議論が中心で、エネルギー、ひいてはその前提にあるわれわれの文明がどうあるべきかという基本的な問いをめぐる議論は皆無といっていい状態だ。
果たしてわれわれは、文明論を避けたまま、エネルギー政策の大転換を図ることが可能なのだろうか。
19世紀の産業革命以降、人類は石炭から石油へ、石油から原子力へとエネルギー革命を繰り返してきたが、その根底にあった価値観は、エネルギー効率を高めることで生産を拡大し、経済成長を続けるところにあった。しかし、今われわれ人類は経済成長の原動力となるエネルギーの潜在的な成長力をほぼ使い果たし、エネルギーの技術革新がこれ以上起こらない「飽和状態」に直面しているかに見える。
また、その一方で、原発事故を例にとるまでもなく、エネルギー効率の向上による経済の成長は、必ずしもわれわれに幸せばかりをもたらしたとは言えない。人類は200年ぶりに経済が拡大しない未知の局面を迎えているのと同時に、経済の飽くなき量的拡大の負の遺産をいかに処理していくかを考えなければならない事態を迎えている。
しかし、新しいエネルギー政策を決めるために設置された委員会の人事やここまでの会議の内容を見る限り、そうした認識が共有できているとはとうてい思えない。役所が人選した委員はこれまでの原子力行政に関わってきた識者や原発推進派が多く、原発に異議申立てをしている委員はいずれも少数派にとどまる。コスト等小委員会にいたっては、電力会社の有価証券報告書をもとに、原発のコストが他の電力源よりも割高であることを指摘した立命館大学の大島堅一教授を、他の委員が寄ってたかって吊るし上げているような状態だ。
日本はこの飽和状態にどう向きあうべきなのか、そして日本にはどのような選択肢があるのかを、ジャーナリストの神保哲生と哲学者の萱野捻人、社会学者の宮台真司が議論した。
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asahi.comより(http://www.asahi.com/business/update/1027/TKY201110270135.html)。
またしても節電による脅し。それに悪乗りするマスコミもどうなのか。節電や無「計画停電」で脅して、どうしても原発を再開したいらしい。見え見えなニュースだ。
「最大使用電力」というのがミソ。しかも、「見込み」なんてどうとでも出来るもんね。一冬ずっと続く訳でもなし。一体何日間、何時間不足するのか? そのために原発が必要なの? 被爆するよりも、周辺地域を汚染するよりも、世界を汚すよりも、原発を運転することの方が大事なのだろうか? 節電で十分にカバーできるし、だって、この夏だって何の問題もなかったじゃないか! 九州は原発の依存度が高いと言われているけれども、6基中5基が停止していても問題なかった訳。九州電力 川内原発地元・薩摩川内市内でのこの小出裕章さんの講演をぜひ見てください(http://hiroakikoide.wordpress.com/2011/10/26/kawauti-oct22/)。原発なしでも、九州でも十分電力が足ります。いい加減に、目覚めるべきだ。悪夢を繰り返さないためにも。残り1基も12月に停止しても、原発事故を起こすよりも、きっと混乱は少ないはず。3.11以降なので「節電非協力」[*1](松下竜一さん)とは言わないが、九電の脅しに負けてはいけない。
([*1]: 全体を読み直してみると、やはり鋭い指摘に富んでいる。火力発電阻止闘争の時代にこのような指摘をしているのだから、やはり松下センセはすごい!! あ~、松下さんが生きておられたら・・・。全体のリンクはココ(http://blog.goo.ne.jp/activated-sludge/s/%BE%BE%B2%BC%CE%B5%B0%EC%A1%A1%CC%A4%B4%A9%B9%D4%C3%F8%BA%EE%BD%B8%A3%B4%A1%BF%B4%C4%B6%AD%B8%A2%A4%CE%B2%E1%C4%F8)に貼っておきますので、ぜひご覧ください ⇒ 【梶原得三郎・新木安利編、『松下竜一 未刊行著作集4/環境権の過程』】
その末尾に、「「この海岸を護ったのは、あなた方の力ですよ。あなた方のことはいろいろ悪くいわれましたが、結局正しかったんですね」という過褒をいただいて、・・・周防灘開発が凍結・・・。・・・『暗闇の思想』は潜在的に普遍化していくのだと思う」」とあります。周防灘開発は〝止める〟ことが出来ました。原発問題はどうでしょう? 止める前に、3.11福島原発人災が起きてしまいました。第二、第三の原発人災が起きないようにするためにどのようにしたらよいでしょうか? こと原発問題に関しては、答えは一つしかないはずです。)
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【http://www.asahi.com/business/update/1027/TKY201110270135.html】
2011年10月27日12時36分
九州電力管内に5%節電要請へ 東北は見送り 野田政権
野田政権はこの冬、九州電力管内の企業や家庭を対象に、最大使用電力で昨冬比5%程度の節電をするよう要請する方針を固めた。定期点検で停止中の原発の再稼働が見込めず、電力不足が避けられないため。関西電力管内でも10%以上の節電を要請する方向だ。
政府は今回数値目標を設けるものの、達成を義務づけるわけではなく、あくまでも「お願い」にとどまる。節電を要請する期間は九電・関電とも12月19日からで、九電は午前8時から午後9時まで、関電は午前9時から午後9時まで。終了日は関電が来年3月23日で、九電は調整中。11月1日にも開く政府の「電力需給に関する検討会合」(座長・藤村修官房長官)と「エネルギー・環境会議」(議長・古川元久国家戦略相)の合同会議で決める。
他の電力会社の管内については電力の需給に一定の余裕が見込まれることから、節電の数値目標は設けず、無理のない範囲で取り組むよう求める。東北電力管内は厳しい需給状況が見込まれるものの、東京電力や北海道電力からの融通で賄える見通しが立ちつつあり、数値目標は見送る。
工場や企業などの大口利用者に電力使用を抑えるよう義務づける電力使用制限令はこの夏、東電と東北電管内で発動されたが、工場での生産などへの影響が大きいことから今回は見送り、自主的対応を求める。
九電の原発は、ただひとつ運転中の玄海原発1号機(佐賀県玄海町)が12月に定期検査のために運転を停止する予定。これで管内の全6基が止まることになるが、「やらせ問題」などもあって再開のめどは立っていない。九電の供給計画では、来年1月の電力供給力は1353万キロワット。最大電力需要は1420万キロワットを見込み、計算上は4.7%不足する。
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CMLの記事(http://list.jca.apc.org/public/cml/2011-March/008221.html)の一部をコピペ。劣化ウラン研究会の山崎久隆さんの浜岡原発についての記事です。全て廃炉にすべきだったのに、一部再始動させていしまっていた訳です・・・。
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【http://list.jca.apc.org/public/cml/2011-March/008221.html】
[CML 008341]
・・・・・・。
まさしく市民が地震との関係での批判により廃炉になった原発は浜岡原発1,2号機があります。東海、東南海、南海地震への対応を迫られ、耐震補強に莫大な費用がかかることを理由にまだ運転可能だった(福島第一3より新しかった)のに廃炉になっています。
浜岡1号 運転開始76年3月、停止2002年4月 廃炉決定2008年12月
浜岡2号 運転開始78年11月、停止2004年2月 廃炉決定 同上
福島第一1号 運転開始71年3月
2号 運転開始74年7月
3号 運転開始76年3月
4号 運転開始78年10月
今市民は残りの3,4,5号機の廃炉と6号機の新設阻止の運動を展開しており、3,4号機については東京高裁で差止訴訟の真っ最中です。
5号機は2009年7月の駿河湾の地震により想定地震動を超えた揺れを観測したことで、最近まで耐震性を巡り猛烈な批判をし続けていたので止まっていましたが今年運転再開した矢先でした。だからこそ今は浜岡を止めろと多くの人々が声を上げているのです。
止め続けてきたのに今年1月に再開しているので、それをもう一度止めさせようとしているわけです。3,4号機についても差止訴訟で仮処分申請、本訴と戦っているからこそ、今すぐ止めろと声を上げているのです。
沢山ホームページやブログ記事はありますが、全て目を通すことは物理的に困難でしょうから、お勧めを一つだけ紹介しておきます。
http://www.geocities.jp/ear_tn/
浜岡原発訴訟をたたかう市民の文字通り「浜岡原発とめよう裁判の会」です。浜岡を巡る運動について裁判資料を中心に書かれています。浜岡原発の現状というよりどうして差止の必要があるのかが中心です。一般市民が見てどうか、と思われるかもしれません。しかしながらこれが最も充実した資料集ですので、こちらを紹介します。
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もう一つ、岩上安身さんによる社民党党首福島瑞穂(福島みずほ)さんのインタビューです。浜岡原発のことも含め、震災直後からの政府の動きなど、特に福島第一原発事故に対する対応の不味さなどについて語られています。原子力資料情報室の記者会見での後藤政志さんの発言なども取り上げられています。レントゲンとの比較の馬鹿馬鹿しさなど。Part2の方では上記の浜岡原発のことが詳しく語られています。知事の中止命令に背いての中国電力による上関原発の建設継続、祝島のことも語られています。
伊方原発も気になる。この非常時になどと云わず、今まで言い続けてきたからこそ、今だからこそ、はっきり言って全ての原発を停止すべきである。もういい加減十分に痛い目にあい、取り返しのつかない事態となり、周辺諸国どころか全世界に迷惑をかける事態となりつつあるのだから、いいかげんにこの国は学習してほしい。
下記インタビューを是非ご覧ください。
Web Iwakami 2011年3月17日 福島みずほ社民党党首
(http://iwakamiyasumi.com/archives/7630)
弱小政党の声など誰も聞こうとしていないように感じます。良いんですか、ここのままで本当に??
そして最後に、当ブログでしばしば紹介する、私が最も尊敬する松下竜一さんの『暗闇の思想』がいかに優れた提案であったかが、いま、思い起こされる。当時、周囲が嘲笑した松下竜一さんやこの『暗闇の思想』が如何に先進的であったかを、いま、嘲笑した人々は思いしらされているはずだ。
松下竜一さんの〝暗闇の思想〟
『松下竜一未刊行著作集5/平和・反原発の方向』
『松下竜一 未刊行著作集4/環境権の過程』
内橋克人さんの『浪費なき成長』

『松下竜一 未刊行著作集4/環境権の過程』、1月に読了。梶原得三郎・新木安利編。海鳥社。2008年6月刊。
扉の写真は、豊前市明神海岸にて松下センセ。福岡地裁小倉支部にて七人のサムライ、そして、「アハハハ・・・・・負けた負けた」。
Ⅰ章「タスケテクダサイ」、Ⅱ章「暗闇の思想を掲げて」、Ⅲ章「「アハハハ・・・・・・負けた、負けた」」、Ⅳ章「『草の根通信』は続く」。
松下センセの目を見開かせた岡部保さんの仁保事件(pp.5-16)。
大分県臼杵の風成裁判(p.31、40、50、101、117)。「〈父性の文明〉・・・。/それをやれるのは〈母性の文明〉しかあるまい。・・・/・・・公害企業の進出から守りぬいた中心は、風成という小漁村の母たちであった。・・・〈母性文明〉の価値観が、物質的豊かさよりも、貧しくても美しい環境を選択したのだ」(p.101)。
「電気需要増加は必至ではないかという問いかけ・・・。・・・現在の電力に頼りきった文化生活そのものへの反省と価値転換であり、少数の被害者には目をつぶって成り立つ多数の幸福という暗黙裡の差別的発展への懐疑であり、さらに大きく根本的には、電力をとめどなく食いつぶしてやまぬ高度経済成長政策の拒否である」(p.107)。「・・・だれかの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬと。/じゃあチョンマゲ時代に帰れというのか、と反論が出る。必ず出る短絡的反論である。・・・今ある電力で成り立つような文化生活をこそ考えようというのである。・・・/・・・ただひたすらに物、物、物の生産に驀進して行き着く果てを、私は鋭くおびえているのだ。/「一体、物をそげえ造っちから、どげえすんのか」という素朴な疑問は、・・・開発を拒否する風成で、志布志で、佐賀関で漁民や住民の発する声なのだ。・・・/・・・都会思考のキャッチフレーズで喧伝されるのなら、それとは逆方向の、むしろふるさとへの回帰、村の暗がりをもなつかしいとする反開発志向の奥底には、〈暗闇の思想〉があらねばなるまい」(pp.116-117)。内橋克人さんの〈浪費なき成長〉につながる〈暗闇の思想〉。


【梶原得三郎・新木安利編、『松下竜一 未刊行著作集4/環境権の過程』】
下河辺淳氏とはそういう人だったのか、と納得(p.62、103、129)。
巨大開発の夢のような話の裏。「なんのことはない。その新コンビナートがまた新しい公害を生む。その対策費をひねり出すためには第四コンビナートを造る。このとめどない悪増殖をどのように考えればいいのか。市民を待ち受けるのは地獄ではないのか」(p.90)。
「そうなのだ。それでいいじゃないか。おれ貧乏なのかなあ、などと無理に悩む必要などありはしない。/〈ゆたかさ〉とは意識問題なのだ。・・・松林の海岸を持つし、遠浅の海では貝掘りも楽しめる。心身を破壊する公害とは無縁だ。―――これほどゆたかな生き方があろうか。/・・・演劇を見ることによる一時的感興と、中津市の子供たちが幼い頃からゆたかな自然の中で生育していくことのすばらしさを比較すれば、私はためらいもなく後者を選ぶ。/・・・都市化により喪われた自然が市民の心の生育に与える底深い破壊は、その何をもってしてもつぐないうるものではない」(pp.92-93)。
内在的価値の萌芽。あのトンデモナイ冤罪事件で有名な志布志。「若者の流出に対する志布志の人たちの考えは面白い。若者が都会に働きに出て送金して来るのはやむをえないじゃないか。その若者たちが時折帰郷するときのために、あくまでも美しく静かな町を残しておくのだという」(p.94)。「「あなたの息子さんが疲れて帰郷して来るとき、せめて憩いを与えるような美しい故郷を守り通すのが、われわれの務めではないでしょうか」・・・今までの開発論議で常に欠落していたのは、自然愛好的心情論であった」(p.108)。「・・・漁業者が放棄したのは漁業権にすぎない。埋め立て海域で漁業を営む権利を放棄したに過ぎない。しかして、海は厳然として残るはずである。海そのものを売買する権利などは誰にもありえない。魚業権の放棄されたあとの海は、誰のものなのか。それは誰のものでもあるまいし、同時に誰もの共有物だろう。私企業が、漁業権を買い上げたからといって、それがあたかも海そのものまで買い上げたかの如く専横に海を埋め立てることが許されるとは呆れ果てるばかりである。」(p.184)。「漁業権さえ買い上げれば海を占有できるなどということが許され続けて来たこと自体、不思議なほどである。・・・今の社会機構が、「物の生産高計算」でしか評価基準を持たぬゆえ・・・。/海というものの評価の中で、実は生産高での計算はもっとも矮小な評価でしかなく、万人が来て海を楽しむ価値は、計算を超えて巨大なはず、その楽しみは万人がもつ権利であり、それこそが環境権なのである(私は安易に、海を楽しむ価値と書いてしまったが、それではまだ卑小ないいかただという気がする。海がそこに存在する、その存在自体の価値というべきか)」(p.137)。
埋め立て「協定調印の翌夜・・・一人のおじいさんが、さも納得いかぬげに質問に立った。「わしゃあ百姓をしちょるもんじゃが・・・・・・協定がもう結ばれたちゅうけんど、そらあおかしいなあ。わしんとこには、なんの相談もこんじゃったが・・・・・・」/・・・まさに自分は市民の一員なのだから。/首をかしげいうおじいさんの疑問に、私は胸が熱くなり「そうなんです。市民一人一人の声に耳を傾けてまわらない政治が間違っているのです」と答えた。・・・むしろ、おじいさんの発言を常識外れとして失笑した人々の、その〈ならされた常識〉にこそ、現今の民主主義の衰退があるのだ。/・・・その可否には、それこそ市民一人一人の意見を徴して回るのが当然である。今の行政機構の中でそれが不可能だとしても、そのような姿勢だけはもたねばならぬ。」(p.106)。「それこそが真の民主主義である」(p.141)。


【梶原得三郎・新木安利編、『松下竜一 未刊行著作集4/環境権の過程』】
日本列島改造論に対する「素朴な問い」。「「一体、そげえ物を造っち、だれに売るんじゃろうか?」/宇井純氏は・・・「・・・外国に売りつける。ことにアジアに。・・・きらわれ者ですから、・・・武力による威嚇が必要になってきます。・・・国内に溢れる物をかかえこんで自爆してしまうしかありません。どちらをたどってもほろびます」/・・・地域エゴのはずの私たちの住民運度は、実は巨視的には救国の闘争だということになってくる。/そうなのだ。もう、もうけもほどほどにしましょうやと、昨年の年収五十四万円の貧乏作家はいいたいのだ。これで一家五人生きられたんだから」(p.111)。
環境権とは? 「・・・あと残されたほとんど唯一の無傷な海岸線は、〈絶対自然〉として、すべての人為的な触手から、完全に凍結されるべきである。・・・/・・・なぜトキの絶滅を憂うるのか。その答えをあっけらかんとしたいいかたですれば、つまり後の世代に残してやりたい〈愛すべきもの〉であるということに単純化される。豊前海海岸も我々沿岸住民にとって、まさに後の世代に残してやりたい〈愛すべきもの〉なのである。/〈環境権〉というものは、かくの如く、後に来る者とのかかわりが密なのであり、もっといえば、のちに来る者たちの無言の権利をも含んだ主張であるはずであり、その重さは人類の歴史を曳いて、裁判官とてたじろぐほどのものであるはずなのだ。裁判官をも含めて、我々だけでこの豊前海海岸を処分するなら、のちに続く世代から我々は永久に〈愛すべきもの〉を奪い去ったのであり、彼らの環境権を抹殺したことになるのである」(p.136)。
『瓢鰻亭通信』の前田俊彦さんは、酒井伝六氏著『ピグミーの世界』から引用して、「・・・ピグミーにとっては一切が森の〈客〉であるという発想・・・。まして人間は、何者といえども森の〈主〉たることはできない」(p.143)。「この世の〈客〉たる謙虚さを忘れたわれわれは、あたかも〈主〉の如く海を埋め大気を汚染し続けてきた。・・・/さればこそ、もう発展とか開発とかはいらない、せめてここらで踏みとどまって、もはやこれ以上〈預かりもの〉である海を大地を大気を汚してはならぬという住民が各地にふえているのであり、その皆が〈環境権〉に切なる〈魔法の杖〉の夢を託すのである」(p.145)。


【梶原得三郎・新木安利編、『松下竜一 未刊行著作集4/環境権の過程』】
心の中での葛藤。「執拗にこだわりたいのは闇なのだ。発電所建設反対運動を押し進める者の拠るところ、つづまりは〈暗闇への志向〉以外にあろうか。/・・・/もとよりわれら住民が撲(う)つのは公害であってみれば、公害の問題に需要などの入りこむ余地はないと、一言に峻拒する正論である。・・・/・・・やはりこの舌鋒の刺すきっ先は、みずからにかえってくる部分を含まぬとはいいきれぬ。/・・・/それにカッコよく応ずる論理はない。・・・/恥ずかしながら、ささやかな電力はほしいのであり、それをしも否定しさるのではなく、ただ貪欲に野放図にふくれあがり海岸線を喰いつぶしてやまぬ電力需要を懐疑し瞬絶し、われらの豊前平野と周防灘を守り抜かんとするのみである。いうまでもなく、われらの志向する暗闇も光ありての闇であり、ともに綯(な)い合わせてこそ、密度も放射も濃いのである。闇が闇であり続けてもならぬし、光が光のみであり続けてもならぬ。/筑豊の闇を棲み家とする作家上野英信氏の、既にして十年前の断片を引こうか―――。/
闇―――それはけっして空間ではない。・・・どこにも闇をたたえない近代式
アパート生活者たちの倦怠と無気力を思った。/・・・闇を持たない人間。
それゆえに真の光をもたない人間。かれらは生まれた国ももたず、生むべき国も
もたぬ二重の国籍喪失者として、人工光線のうすら明りの海をけだるく
さ迷い歩くだけである。
闇ありて光は放射し、光ありて闇は密度を深化する。さればわれらの暗闇への志向とささやかなる電力要求と、なんの矛盾であろうか。われらは敢然と開き直って家庭用電力を要求し、しかして〈停電の日〉を要求することによって、これ以上のとめどない発電所建設を、もちろん高度経済成長そのものとともに、明快に否定しさるのである」(pp.150-155)。
「「・・・多少の公害はあるじゃろう、しかし、なんちゅうてん電力は国にとって必要じゃもんな―――」と説くときの良識派市民の口ぶりたるや、まるで国政の一端をでもになうエライさん化したがごとく憂いに満ちているのである。おお、田舎のおっさんが、国の電力まで心配しているいじらしさ(待てよ、この表情は・・・ああ思いつく。ちょうど選挙のとき、おだてられて票集めの先兵となって駆けまわる田舎のおっさんが、さもいっぱし代議士某と結びついて政治の重要部分に関与しているごとく、興奮にのぼせあがって懸命なさまと、なんと酷似していることか)。/日頃、政治のセの字も触手できぬ背番号的市民われらであれば、かかるときこそテッテイテキに復讐の快を遂げればならぬのだ。「俺たちは電力を要求する。されど俺んちのそばにゃ発電所は真っぴらごめんだ。―――さあ、あとどうするかはお国の方で考えろちゃ。国っちゅうもんな、そんなこつ考えるためにあるんと違うんけ?」と開き直ってうそぶけばいいのである。それが現状況で、みずからの命と健康を守りわが里を守る住民側のしたたかな論理である。しかり、開き直ること以外に、虫ケラ住民われらに抵抗の論理があられようか。/・・・はっきりしていることは、民衆にとって電力危機即社会の破局ではないことだ。・・・/電力危機を恐れること民衆にあらずとすれば本当にそれを破局としてうろたえる者は、いま電力危機を煽りたてている電力会社であり財界であり政界以外の誰だというのだ」(pp.156-157)。


【梶原得三郎・新木安利編、『松下竜一 未刊行著作集4/環境権の過程』】
しろうと歌人・しろうと運動家としての居直り。「だが、しろうとにもしろうとなりの判断基準がある。・・・一人の人間を一党の情報で裁断する前に、自分の目と耳での判断にかけたいと決めた。/・・・/ふと私は、そこにしろうと歌壇のあの清新でなまなましい息吹と、くろうと歌壇の整いすぎた技巧・・・対比を思って奇妙な気がするのだ。運動と歌壇という突飛なまでに懸隔した両者の内側で、なにやら〝しろうと〟と〝くろうと〟の対比だけは相似ている気がして不思議なのだ。/・・・/だが、もはやしろうとであることに居直る覚悟の私は、そのような批判によって揺らぎはしない。なぜ心情的発言が、政治理論や経済理論の下位に著しくおとしめられねばならぬのか、その根拠をこそ逆問したいのである。砂浜に残るかそかな水鳥の足跡をこよなくいとおしむ心情的発言は、政治や経済の側からの発言で、あっけなく圧殺され続けてきた。その結果が、救い難い環境破壊であり、なおも政治や経済の論を優位させる限り、その加速は誰しも予知するところであろう。それを制止できるのは、もはやしろうとの心情的発言の復権にしかないのではないか」(pp.162-163)。
当書籍の副題の主軸部分。「「たった四日半の調査で、豊前平野の年間気象をうんぬん出来るのか!」/・・・/「それが科学というものですよ」という一言は、恐らく全国各地でしろうと住民を沈黙させる権威的発言として機能してきたに違いない。専門家の口から、それが科学だといわれれば、科学のしろうとは恐れ入るしかなかったのである。だが、そのような権威によって保証されたはずの安全開発地域で予測を超えた公害が噴出するに至って、もはやしろうととて科学に疑い深くなっているのである(否、科学そのものとはいわぬ。それを操作する者に対して)」(p.165)。
「七十三年八月二十一日、私たちしろうと市民七人、豊前火力建設差止請求訴訟を提起したのである。いわゆる環境権訴訟である。/「国民はすべて健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(憲法二十五条)を有し、「幸福を追求する権利は尊重される」(憲法十三条)のであってみれば、それを充足するためのよりよい環境に住む権利は基本的人権であり、それはだれからも侵害されない―――〈環境権〉とは、端的にいえばこのような法理であり、まこと私たちしろうとに理解されやすく、共感は濃い。/もっといえば、海の問題でこの法律はきわ立って来る。従来、海を埋め立てるには当該海域の漁業者が漁業権放棄をすませれば全手続きは完了した。背後地住民に海への権利はなく、一片の発言も認められない。だが〈環境権〉は、海に対する住民の権利を鋭く主張する。なぜなら、海は万人共有のものであり、環境の主要因子だからである」(p.166)。「・・・法理などはクソクラエとしか思っていないのであり、こんな当たり前な権利が法理で鎧われなくとも認められて当然ではないかと、・・・」(p.265)。「環境権とは「・・・元来大気や水・日照・通風・自然の環境等という自然の資源は、人間の生活にとって欠くことのできないものであり、不動産の所有権とは関係なく、すべての自然人に公平に分配されるべき資源である。・・・それは当然に万人の共有に属すべき財産」・・・」(p.281)。
戦略的アセスのハシリ。「人が死んだり病床に呻吟してからの救済などありえないのだという痛切な反省から、ではそこまで行く前に阻止手段はないのかという発想で始まったのが環境権の主張であったはずだ。いい換えれば、〈生命〉や〈生活〉が直接におかされる数歩前で侵害行為を食い止めようということなのだ」(p.323)。
横田耕一さん(p.325)。ユージン・スミス(p.219)。
「国立岡山療養所の重症結核患者朝日茂氏が、国の生活扶助費では到底療養所生活は出来ず、これは憲法第二十五条一項に違反するとして厚生大臣を訴えた〈朝日訴訟〉・・・」(p.286)。

【梶原得三郎・新木安利編、『松下竜一 未刊行著作集4/環境権の過程』】
弁護士無しでの本人訴訟である豊前環境権裁判の第一準備書面での心情的発言。「・・・私たちを救済する法律は当然存在するはずだと信じる。そしてそれは、私たちが主張せずとも、裁判所が判断して適用してくれるものだと私たちは信じる。裁判とは、そういうものであろうと、私たちは理解して来た」(p.199)。裁判員制度などといったことの前に考えるべきことがあるのでは。
居直り再び。「そこでわれらはニヤリと笑って、良識派に問い返すのである。「ここまで認めているからといって、なぜこれ以上をも認めねばならぬのか」と。一体なぜ、そのような論理の清潔さを通さねばならぬのかと。即ち、われらの〈居直り〉である。/・・・一度認めた以上、どこまでも認めるという論理の一貫性に立てば、かくてとめどなくなる。〈毒食わば皿まで〉という至言のままである。犯され続けた果ての破滅が見えぬか。/そうなりたくないために、われらは居直る。敢然と居直る。成程われらは電力なしでは生活できぬという事実は認めよう。しかし、だからとどこまでも容認するとはいわず、ほどほどにとどめようというのである。このほどほどにという言い方は、およそ思想の美学には合わぬらしく、イデオロギーの範疇では軽蔑される用語であろう。だからこそ、電力の必要性を認めた以上はどこまでも許し続けるという義理固い良識がはびこる。それにくみせぬなら暗闇にひそめと石を投げられる」(pp.208-209)。その後の石油危機時の政財界による省エネ宣言に対して、松下センセの機関紙『草の根通信』は敢然と「節電非協力宣言」! 「それは〈節電〉の正体を見抜けば、分かってくる。/・・・/これほど節電を呼びかけつつ、他方ではいま、九州になだれこんでくる新企業を野放しに受け入れているという矛盾を凝視するだけで、〈節電〉キャンペーンのインチキぶりは丸見えのはずなのだ。・・・九電社長イコール九州・山口経済連合会会長であり、・・・新聞放談においても、「電力は豊富です」と企業向けPRは忘れなかった。それは向こうを意識しての談話であり、ささやかな家庭消費者であるこちらに向かっては、電力危機を説き節電を強要するのである。その分厚い二枚舌を思い浮かべるだけでヘドが出そうになる」(pp.211-212)。
「ほどほどに」! すばらしい。まさに、「浪費なき成長」につながる発想。内橋さん曰く、「自給自足圏の中でも安定した経済成長は可能かとの問いに、「ほどほどの成長は可能です。それを実践しているモデルは世界にたくさんあります。『浪費なき成長』です」(p.221)。いわゆるFEC」(【内橋克人著、『不安社会を生きる』】)。
【梶原得三郎編、『松下竜一 未刊行著作集4/環境権の過程』】
都知事等のニセ右翼の対極に居るはずの、真の右翼とは? 鈴木邦男さん以外にも居る。「その人宇治田一也氏は、ハンストを始めるにあたって、決意を短く告げている。/・・・/氏は・・・埋め立てに抗議して三十三日間にわたる長期ハンストを敢行しているが・・・。それほどの公害に苦しんでいる人々にとって、革新知事すらが、更に第二火力の増設を認めたことは、救いのないことであった。・・・/宇治田氏は・・・、右翼とされる。各地の公害問題地で、加害企業のガードマンとして登場する右翼をしか見ていない我々に、一見、氏の行為は奇異であるが、右翼思想の純粋な系譜は、当然なまでに〈国のまほら〉を守らんとする心なのであり、氏の行為こそ優れて右翼の真髄だと分かる」(p.220)。
環境保全とは? 「・・・されば、〈環境保全〉とは、このような〈環境〉そのもののそっくりな保全でなければならず・・・。/・・・/県知事にとっての〈環境保全〉とは、埋め立てによって周辺水域に及ぼす影響―――すなわち、水質汚濁防止法にかかわるところの水質基準値に汚濁がおさまるかどうかということだけなのである。背後地住民にとっての〈環境〉がそっくり喪われることなど、問題外なのだ。なぜなら、海水浴も、潮干狩りも、釣も眺望も、実定法に於ける〈権利〉として定着していないのだから、顧慮する必要はないということであろう」(p.225)。今から30年以上前にこのような論説を唱える松下センセの視点に感心する。
センセ曰く「気恥ずかしき機関紙『草の根通信』」。「・・・六〇年安保闘争の絶頂・・・。/同じ頃、九州の山奥、阿蘇山系の北麗の渓谷で国家権力に抗する壮大な戦いが展開されていたことを、人は記憶にとどめているであろうか。蜂の巣城闘争という。文字通り、急峻な山崖に無数の砦を築き、ダム反対の叛乱農民がこもったのである。城主・室原知幸氏は山林地主としての巨富をこの闘争にそそぎこんだ。六〇年安保闘争の終熄ののちも、この山峡の闘いは執拗に持続され、一九七〇年の室原氏の死まで国家をてこずらせた。/公共性をふりかざしての国家権力に私権を拮抗させた、この壮絶な十三年間の闘いを記録すべく、今私は遅々たる取材を重ねているが、ほとほと弱るのが、この果敢な〝抵抗者〟達が長い闘争の期間を通じて、ほとんど〈文字〉の記録を遺してくれていないことである。/今やすべての住民運動につきものの、機関誌はおろかビラの一枚すら出されなかったのである。・・・/・・・当初マスコミをさえ砦の中に立ち入らせなかった。城主との会見を目指して東京から乗り込んできた安倍公房があっけなく拒否に遭い、・・・。/・・・機関誌も一枚のビラも残さなかった彼等のいさぎよさの前に、・・・号を重ねる機関誌『草の根通信』を持つおのれらの豊前火力反対闘争の、それこそが脆弱さの証明とみえて、ひそかに気恥ずかしくてならぬのである。まして、『草の根通信』は今や全国的に好評なのである」(p.248)。『草の根通信』は松下センセの死まで続き、室原翁の闘争は、『風成の女たち』と同じくブログ主の最も好きな松下センセの作品の一つである『砦に拠る』に纏められることになる。

【梶原得三郎・新木安利編、『松下竜一 未刊行著作集4/環境権の過程』】
痛切な反省再び、そして裁判制度の問題点。「四大公害裁判が勝利したあとの痛切な反省は、いくら裁判で勝っても死者は還らぬしむしばまれた健康は元に戻らぬというむなしさにあった。そこから、真に必要なのは環境が破壊される段階での事前差し止めでなければならぬという公害裁判の根本的な発想転換であったはずだ。もし、事前差し止めの意義を重視していれば、「あなた方の方は今のところなんの苦痛もあるわけじゃないし・・・・・・」というような裁判長の発言はありえぬだろう。/・・・事前差し止めを目指す裁判のほとんどが直面する腹立たしい現実である。たとえ差止訴訟が係争中であろうとも、それを無視して着工するのは企業・行政の常とう手段であり、いったん着工さえしてしまえば裁判遅延に助けられて工事は完成し、その既成事実の重さにとって裁判自体が左右されることになるのだ」(p.301)。さらに、埋め立てた所の復元など何ら考えず、敗訴などないと考え、裁判をやる意味など、全く頭の隅にさえない。しかも、そううそぶくのも当然で、〈原状回復ノ義務ヲ免除スルコトヲ得〉と定めた〝裏取引〟まで存在。「「一体、裁判はどんな役に立つのか」という私達の怒り」(p.303)。
〝得さん〟こと梶原得三郎さんのこと(p.330-354)。その出会いから〝主犯〟へ、そして、魚屋さん、その後。玲子ちゃん(p.363)。
一審敗訴において、賛否両論、大反響であった「アハハハ・・・・・・敗けた、敗けた」の意表を突いた型破りな垂れ幕(p.358、393)。「アハハハ、敗けた、敗けた、また出直すか、というしかないんですよ」(p.359)。田中正造の晩年の言葉にちなみ、伊方原発訴訟の原告たちが敗訴の日に掲げたのは「辛酸入佳境」の垂幕。それに対して、やはり前代未聞の垂れ幕!
大分の明神の海は埋め立てられたが、福岡側のスオーナダは取りあえず守られた。「・・・NHKの『新日本紀行』・・・スオーナダ開発に侵されなかったこの町の海岸を、美し過ぎる画面で描いてみせたが、それを視たこの町のいろいろな人々から、・・・「この海岸を護ったのは、あなた方の力ですよ。あなた方のことはいろいろ悪くいわれましたが、結局正しかったんですね」という過褒をいただいて、・・・周防灘開発が凍結・・・。・・・『暗闇の思想』は潜在的に普遍化していくのだと思う」(p.380)。
「洋子病」という生涯直らぬ病(p.411)。
解説は恒遠俊輔さんの「主張微塵も枉(ま)ぐと言わなく」(p.441)。