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【梶原得三郎・新木安利編、『松下竜一 未刊行著作集4/環境権の過程』】
弁護士無しでの本人訴訟である豊前環境権裁判の第一準備書面での心情的発言。「・・・私たちを救済する法律は当然存在するはずだと信じる。そしてそれは、私たちが主張せずとも、裁判所が判断して適用してくれるものだと私たちは信じる。裁判とは、そういうものであろうと、私たちは理解して来た」(p.199)。裁判員制度などといったことの前に考えるべきことがあるのでは。
居直り再び。「そこでわれらはニヤリと笑って、良識派に問い返すのである。「ここまで認めているからといって、なぜこれ以上をも認めねばならぬのか」と。一体なぜ、そのような論理の清潔さを通さねばならぬのかと。即ち、われらの〈居直り〉である。/・・・一度認めた以上、どこまでも認めるという論理の一貫性に立てば、かくてとめどなくなる。〈毒食わば皿まで〉という至言のままである。犯され続けた果ての破滅が見えぬか。/そうなりたくないために、われらは居直る。敢然と居直る。成程われらは電力なしでは生活できぬという事実は認めよう。しかし、だからとどこまでも容認するとはいわず、ほどほどにとどめようというのである。このほどほどにという言い方は、およそ思想の美学には合わぬらしく、イデオロギーの範疇では軽蔑される用語であろう。だからこそ、電力の必要性を認めた以上はどこまでも許し続けるという義理固い良識がはびこる。それにくみせぬなら暗闇にひそめと石を投げられる」(pp.208-209)。その後の石油危機時の政財界による省エネ宣言に対して、松下センセの機関紙『草の根通信』は敢然と「節電非協力宣言」! 「それは〈節電〉の正体を見抜けば、分かってくる。/・・・/これほど節電を呼びかけつつ、他方ではいま、九州になだれこんでくる新企業を野放しに受け入れているという矛盾を凝視するだけで、〈節電〉キャンペーンのインチキぶりは丸見えのはずなのだ。・・・九電社長イコール九州・山口経済連合会会長であり、・・・新聞放談においても、「電力は豊富です」と企業向けPRは忘れなかった。それは向こうを意識しての談話であり、ささやかな家庭消費者であるこちらに向かっては、電力危機を説き節電を強要するのである。その分厚い二枚舌を思い浮かべるだけでヘドが出そうになる」(pp.211-212)。
「ほどほどに」! すばらしい。まさに、「浪費なき成長」につながる発想。内橋さん曰く、「自給自足圏の中でも安定した経済成長は可能かとの問いに、「ほどほどの成長は可能です。それを実践しているモデルは世界にたくさんあります。『浪費なき成長』です」(p.221)。いわゆるFEC」(【内橋克人著、『不安社会を生きる』】)。
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