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●《原爆裁判…その責任について「立法府である国会及び行政府である内閣において果たされなければならない」》《被害者放置の「政治の貧困」は今も》

2024年12月13日 00時00分53秒 | Weblog

↑ ※「虎に翼」特集/日本国憲法も重要キャストだ 木村草太(週刊金曜日 1482号、2024年07月26日号)]


(20241211[])
《「原爆裁判」…その責任について立法府である国会及び行政府である内閣において果たされなければならない」と言及。「われわれは本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおられない」と結んだ》《被害者放置の「政治の貧困」は今も。》(こちら特報部)。

   『●(東京新聞)【こちら特報部/朝ドラ「虎に翼」の三淵嘉子さんと
      共に「原爆裁判」を担当した元裁判官、いま振り返る判決の意味】
   『●日本被団協がノーベル平和賞受賞…《被害者放置の「政治の貧困」は今も》
     と言わざるを得ず、まずは何より #日本政府は核兵器禁止条約に参加せよ!
   『●<ぎろんの森>《被団協の受賞は、地道な活動を通じた平和への貢献が認め
     られたものですが、同時に核兵器の脅威が現実味を帯び出したことも意味》

 田中熙巳さん《日本政府の「戦争の被害は国民が受忍しなければならない」との主張に抗い、原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならない》。《国家補償はかたくなに拒まれた》、《もう一度繰り返します、原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府はまったくしていないという事実をお知りいただきたい》。
 NHKの記事【【詳細】ノーベル平和賞 授賞式 日本被団協 晩さん会出席】(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20241209/k10014662521000.html)、《代表委員 田中熙巳さんの演説全文…「核兵器の廃絶と原爆被害に対する国の補償を求めて運動に立ち上がったのであります。…しかしそれは社会保障制度でありまして、国家補償はかたくなに拒まれたのであります。…しかし、何十万人という死者に対する補償はまったくなく日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けております。もう一度繰り返します、原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府はまったくしていないという事実をお知りいただきたいというふうに思います》。

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https://www3.nhk.or.jp/news/html/20241209/k10014662521000.html

【詳細】ノーベル平和賞 授賞式 日本被団協 晩さん会出席
2024年12月11日 7時29分

ノーベル平和賞の授賞式が日本時間の10日夜、ノルウェーの首都オスロで行われ被爆者の立場から核兵器の廃絶などを訴えてきた日本被団協日本原水爆被害者団体協議会にメダルと賞状が授与されました。

演説を行った代表委員の田中熙巳さんは「核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中のみなさんで共に話し合い、求めていただきたい」と訴えました。

授賞式は、ノルウェーのオスロ市庁舎で日本時間の10日午後9時から行われ、日本被団協の役員や支援者のほかノルウェーのハラルド国王などが出席しました。

代表委員の田中熙巳さん(92)、田中重光さん(84)、箕牧智之さん(82)の3人が登壇し、メダルと賞状を受け取りました。

このあと13歳のときに長崎で被爆し、伯母や伯父など5人の親族を亡くした田中熙巳さんが演説を行いました。

田中さんは「ウクライナ戦争における核超大国のロシアによる核の威嚇など『核のタブー』が壊されようとしていることに限りない悔しさと憤りを覚えます」としたうえで、「核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願いであります」と述べました。

そして、「想像してみてください。直ちに発射できる核弾頭が4000発もあるということを。広島や長崎で起こったことの数百倍、数千倍の被害が直ちに現出することがあるということ。みなさんがいつ被害者になってもおかしくない、加害者になるかもしれない状況がございます。核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中のみなさんで共に話し合い、求めていただきたい」と訴えました。

最後に「人類が核兵器で自滅することのないように、そして、核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう」と述べ、およそ20分間の演説を終えると、会場は大きな拍手に包まれました。

被団協は、今月12日までオスロに滞在し、それぞれの被爆者が各国メディアの取材に応じたり、地元の学校で被爆体験を証言したりする予定で核兵器の廃絶などを世界に訴えることにしています。


代表委員 田中熙巳さん「しっかり言えたかなと思う」

ノーベル平和賞の授賞式を終えて、宿泊しているホテルに戻った日本被団協の田中熙巳代表委員が取材に応じ、自身の演説について「とちらないで書いてあることをしっかり言えたかなと思う」と振り返りました。

また授賞式については「歴史的なことであり、日本にとってもそうだと思う。実際に出席してみて大したことだったんだなと改めて思った」と述べました。

 

そのうえで、「大事なのはこれからで、次世代の人たちは自分で考えて行動してほしい」と話していました。


出席者は

授賞式に出席した被爆者で医師の朝長万左男さんは、「すばらしい授賞式で、内容が深く、涙が出ました。被爆者が人類の未来を心配して、これまで運動してきたことが受賞につながったと思います。核保有国の首脳が今後リーダーシップを発揮しないといけないことが、きょうのスピーチを聞けば、よくわかるはずだと思う」と話していました。

授賞式に出席した国連で軍縮部門のトップを務める中満泉事務次長は、「すばらしく感動しました。これをきっかけにして、再び核軍縮の道に戻らないといけないということがよくわかる決意表明のような受賞だと思っています」と話していました。


「高校生平和大使」の代表4人は

高校生平和大使」の長崎、広島、熊本の代表4人は、授賞式に出席したあと、取材に応じました。

長崎県の被爆3世の大原悠佳さんは、「なぜ被爆者の方々がいま、ノーベル平和賞を受賞したか、なぜ私たちが活動をするのか、その意味を認識できました。被爆者の声を聞き、その声を未来や世界に残し、核兵器も争いもない世界を今を生きるすべての人とともに作っていくべきだと感じました」と話していました。

長崎県の被爆3世の津田凛さんは、「オスロで私の大好きな長崎の79年前の話が聞けるとは、1年前には思ってもみませんでした。授賞式では涙を流している人もいて、私たちは被爆者の心を受け継いでいかなければならないと改めて思いました」と話していました。

広島県の甲斐なつきさんは、「田中代表委員の『10年後には被爆者が何人残っているかわからない』ということばが特に印象に残りました。私自身もすでに亡くなった被爆者の曾祖父や曾祖母がいるので、被爆者の思いや怒りをどう後世につないでいくかが課題として見えた貴重な経験でした」と話していました。

熊本県の島津陽奈さんは、「鳥肌の立つような授賞式で、日本被団協の方の核兵器廃絶への強い願いや思いを生で感じ、私たち若い世代が引き継いでいかなければならないと強く実感しました」と話していました。

4人は11日、オスロで現地の若者と核問題について議論するイベントに参加する予定です。


…………。


たいまつを持ち平和を願って行進

ノーベル平和賞の授賞式のあと、ノルウェーの首都オスロではたいまつを持って街を歩くパレードが行われ、被爆者らが平和を願って行進しました。

パレードは日本被団協にノーベル平和賞が授与された現地時間の10日夜に行われ、授賞式にあわせて訪れた被爆者や被爆2世の一行が参加しました。

一行は、たいまつとともに、「ノーモア・ヒロシマノーモア・ナガサキ」と書かれた横断幕を掲げて行進し、ほかの参加者と一緒に、「ノーモア・ウォーノーモア・ヒバクシャ」と声を上げていました。

そして最後に日本被団協の代表団が出席する晩さん会の会場となるホテルの前に到着すると、テラスからは代表委員の田中熙巳さん、田中重光さん、箕牧智之さんの3人が姿を現しました。

3人は折り鶴が描かれ、核廃絶を願うデザインの旗を掲げていて、パレードの参加者からは大きな歓声が上がっていました。

6歳の時に広島で被爆した森川高明さんは「みんなでひとつになったことが忘れられない。これを契機にもう一度頑張らなくてはいけない」と話していました。

 

生後9か月の時に広島で被爆した佐久間邦彦さんは「かけ声をかけて歩くとだんだん熱くなりました。たいまつの光は平和を築いていく一歩一歩の明かりだと思います」と話していました。


代表委員 田中熙巳さんの演説全文

国王ならびに王妃両陛下、皇太子・皇太子妃両殿下、ノルウェー・ノーベル委員会のみなさん、ご列席のみなさん、核兵器廃絶をめざしてたたかう世界の友人のみなさん、ただいま紹介いただきました日本被団協の代表委員の一人であります、田中熙巳でございます。本日は受賞者「日本被団協」を代表してごあいさつをする機会を頂きありがとうございます。

私たちは1956年8月に「原水爆被害者団体協議会」(日本被団協)を結成しました。生きながらえた原爆被害者は歴史上未曽有の非人道的な被害をふたたび繰り返すことのないようにと、二つの基本要求を掲げて運動を展開してまいりました。一つは、日本政府の「戦争の被害は国民が受忍しなければならない」との主張に抗い、原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならないという私たちの運動であります。二つは、核兵器は極めて非人道的な殺りく兵器であり人類とは共存させてはならない、すみやかに廃絶しなければならない、という運動であります。

この運動は「核のタブー」の形成に大きな役割を果たしたことは間違いないでしょう。しかし、今日、依然として12000発の核弾頭が地球上に存在し、4000発近くの核弾頭が即座に発射可能に配備がされているなかで、ウクライナ戦争における核超大国のロシアによる核の威嚇、また、パレスチナ自治区ガザ地区に対しイスラエルが執拗に攻撃を加える中で核兵器の使用を口にする閣僚が現れるなど、市民の犠牲に加えて「核のタブー」が壊されようとしていることに限りない悔しさと憤りを覚えます。

私は長崎原爆の被爆者の一人であります。13歳の時に爆心地から東に3キロ余り離れた自宅において被爆しました。1945年8月9日、爆撃機1機の爆音が突然聞こえるとまもなく、真っ白な光で体が包まれました。その光に驚愕し2階から階下にかけおりました。目と耳をふさいで伏せた直後に強烈な衝撃波が通り抜けて行きました。その後の記憶はなく、気がついた時には大きなガラス戸が私の体の上に覆いかぶさっていました。しかし、ガラスが一枚も割れていなかったのはこれは私の奇跡というほかありません。ほぼ無傷で助かりました。

長崎原爆の惨状をつぶさに見たのは3日後、爆心地帯に住んでいた二人の伯母の安否を尋ねるために訪れた時です。わたしと母は小高い山を迂回し、峠にたどり着き、眼下を見下ろして愕然としました。3キロ余り先の港まで、黒く焼き尽くされた廃墟が広がっていました。煉瓦造りの東洋一を誇った大きな教会・浦上天主堂は崩れ落ち、みるかげもありませんでした。麓に降りていく道筋の家はすべて焼け落ち、その周りに遺体が放置され、あるいは大けがや大やけどを負いながらなお生きている人々が、誰からの救援もなく放置されておりました。私はほとんど無感動となり、人間らしい心も閉ざし、ただひたすら目的地に向かうだけでありました。一人の伯母は爆心地から400mの自宅の焼け跡に大学生の孫とともに黒焦げの死体で転がっていました。もう一人の伯母の家は倒壊し、木材の山になっていました。祖父は全身大やけどで瀕死の状態でしゃがみこんでいました。伯母は大やけどを負い私たちの着く直前に亡くなっていて、私たちの手で野原で荼毘にふしました。ほとんど無傷だった伯父は救援を求めてその場を離れていましたが、救援先で倒れ、高熱で1週間ほどで苦しみ亡くなったそうです。

一発の原子爆弾は私の身内5人を無残な姿に変え一挙に命を奪いました。その時目にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまでした。誰からの手当ても受けることなく苦しんでいる人々が何十人何百人といました。たとえ戦争といえどもこんな殺し方、こんな傷つけ方をしてはいけないと、私はそのとき、強く感じたものであります。

長崎原爆は上空600メートルで爆発し、放出したエネルギーの50%は衝撃波として家屋を押しつぶし、35%は熱線として屋外の人々に大やけどを負わせ、倒壊した家屋のいたるところに火をつけました。多くの人が家屋に押しつぶされたまま焼き殺されました。残りの15%は中性子線やγ線などの放射線として人体を貫き内部から破壊し、死に至らせ、また原爆症の原因を作りました。

その年の末まで広島、長崎の死亡者の数は、広島14万人前後、長崎7万人前後とされています。原爆を被爆しけがを負い、放射線に被ばくし生存していた人は40万人あまりといえます。

生き残った被爆者たちは被爆後7年間、占領軍に沈黙を強いられました。さらに日本政府からも見放されました。被爆後の十年間、孤独と、病苦と生活苦、偏見と差別に耐え続けざるをえませんでした。

1954年3月1日のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって、日本の漁船が「死の灰」を被ばく、大きな事件になりました。中でも第五福竜丸の乗組員23人が全員被ばくし、急性放射能症を発症し、捕獲したマグロはすべて投棄されることになりました。

この事件が契機となって、原水爆実験禁止、原水爆反対運動が日本に始まりました。世界でも始まりました。燎原の火のように日本中に広がったのです。3000万を超える署名が結実し、1955年8月「原水爆禁止世界大会」が広島で開かれ、翌年の1956年、第2回世界大会が長崎で開かれました。この運動に励まされて、大会に参加した原爆被害者によって1956年8月10日「日本原水爆被害者団体協議会」が結成されたのであります。結成宣言で「自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おうとの決意を表明したのであります。「核兵器の廃絶と原爆被害に対する国の補償を求めて運動に立ち上がったのであります。

運動の結果、1957年に「原子爆弾被爆者の医療に関する法律」が制定されます。しかし、その内容は、「被爆者健康手帳」を交付し、無料で健康診断を実施するという簡単なものでありました。

さらにもうひとつ、厚生大臣が原爆症と認定した疾病にかかった場合のみ、その医療費を支給するというものでありました。1968年になり、「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」というのを制定させました。これは、数種類の手当てを給付するということで経済的な援助を行いました。しかしそれは社会保障制度でありまして、国家補償はかたくなに拒まれたのであります。

1985年、日本被団協は「原爆被害者調査」を実施しました。この調査で、原爆被害はいのち、からだ、こころ、くらしにわたるすべての被害を加えるというものでありました。命を奪われ、身体にも心にも傷を負い、病気があることや偏見から働くこともままならない実態が明らかになりました。この調査結果は、原爆被害者の基本要求を強く裏付けるものとなりました。自分たちが体験した悲惨な苦しみを二度と、世界中の誰にも味わわせてはならないとの思いを強くいたしました。

1994年12月、この2つの法律を合体した「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」が制定されました。しかし、何十万人という死者に対する補償はまったくなく日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けております。もう一度繰り返します、原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府はまったくしていないという事実をお知りいただきたいというふうに思います。

これらの法律は、長い間、国籍に関わらず海外在住の原爆被爆者に対し、適用されていませんでしたが、日本で被爆し、母国に帰った韓国の被爆者や、戦後アメリカ、ブラジル、メキシコ、カナダ、このほかに移住した多くの被爆者は、被爆者特有の病気を抱えながら原爆被害への無理解に苦しみ、それぞれの国で結成された原爆被害者の会と私たちは連帯し、ある時は共同し、裁判など活動を通して国に訴え、国内とほぼ同様の援護が行われるようになってまいりました。

私たちは、核兵器のすみやかな廃絶を求めて、自国政府や核兵器保有国ほか諸国に要請運動を強めてまいりました。1977年国連NGOの主催で「被爆の実相と被爆者の実情」に関する国際シンポジウムが日本で開催されました。原爆が人間に与える被害の実相を明らかにしました。このころ、ヨーロッパで核戦争の危機が高まり、各国で数十万人の大集会が開かれました。これら集会での証言に日本被団協に対する依頼が続いたのであります。

1978年と1982年にニューヨーク国連本部で開かれた国連軍縮特別総会には、日本被団協の代表がそれぞれ40人近く参加し、総会議場での演説のほか、証言活動を展開しました。核兵器不拡散条約の再検討会議とその準備委員会で、日本被団協代表は発言機会を確保し、あわせて再検討会議の期間中に、国連本部総会議場ロビーで原爆展を開き、大きな成果を上げました。2012年、NPT再検討会議準備委員会でノルウェー政府が「核兵器の人道的影響に関する会議」の開催を提案し、2013年から3回にわたる会議で原爆被害者の証言が重く受けとめられ「核兵器禁止条約」交渉会議に発展いたしました。

2016年4月、日本被団協が提案し世界の原爆被害者が呼びかけた「核兵器の禁止・廃絶を求める国際署名」は大きく広がり、1370万を超える署名を国連に提出いたしました。その結果でもありますが、2017年7月7日に122か国の賛同をえて「核兵器禁止条約」が制定されたのであります。これは私たちにとって大変大きな喜びでありました。

さて、核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願いであります。想像してみてください。直ちに発射できる核弾頭が4000発もあるということを。広島や長崎で起こったことの数百倍、数千倍の被害が直ちに現出することがあるということ。みなさんがいつ被害者になってもおかしくない、あるいは、加害者になるかもしれない状況がございます。ですから、核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中のみなさんで共に話し合い、求めていただきたいと思うのであります。

原爆被害者の現在の平均年齢は85歳。10年先には直接の被爆体験者としての証言ができるのは数人になるかもしれません。これからは、私たちがやってきた運動を、次の世代のみなさんが、工夫して築いていくことを期待しております。

一つ大きな参考になるものがあります。それは、日本被団協と密接に協力して被団協運動の記録や被爆者の証言、各地の被団協の活動記録などの保存に努めてきました、NPO法人の「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」の存在であります。この会は結成されてから15年近く、粘り強く活動を進めて、被爆者たちの草の根の運動、証言や各地の被爆者団体の運動の記録などをアーカイブスとして保存、管理してまいりました。これらを外に向かって活用する運動に大きく踏み出されることを期待いたします。私はこの会が行動を含んだ、実相の普及に全力を傾注する組織になってもらえるのではないかと期待しています。国内にとどまらず国際的な活動が大きく展開してくださることを強く願っています。

世界中のみなさん、「核兵器禁止条約」のさらなる普遍化と核兵器廃絶の国際条約の締結を目指し、核兵器の非人道性を感性で受け止めることのできるような原爆体験の証言の場を各国で開いてください。とりわけ、核兵器国とそれらの同盟国の市民の中にしっかりと核兵器は人類と共存できない、共存させてはならないという信念が根付くこと、自国の政府の核政策を変えさせる力になることを私たちは願っています。

人類が核兵器で自滅することのないように!! そして、核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう!! ありがとうございました。


ノーベル委員会委員長「決して諦めてはならない」

授賞式でフリードネス委員長がスピーチを行い、受賞した日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会について「核兵器のない世界の実現に向けた努力、特に核兵器が2度と使われてはならない理由を身をもって立証してきた」と説明しました。

日本被団協と、代表委員の田中熙巳さん箕牧智之さん、田中重光さんの名前を挙げ、「これまで生涯行ってきた、そしてこれからも続けていくであろう、貴重な活動に対し深く感謝の意をささげたい」と述べました。

そのうえで「大国が核武装へと世界を導くなか、恐怖の念にかられながらも沈黙を拒否した。立ち上がり、かけがえのない証人として自身の体験を分かち合う選択をした」と述べました。

そして「核兵器のない世界への道のりはまだ長いと言わなければならない。たとえどれほど長く困難な道のりであっても、私たちは日本被団協から学ぶべきだ。決して諦めてはならない」と訴えました。


………。
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●「第五福竜丸」無線長・久保山愛吉さん〝遺言〟「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」…「原子力の平和利用」の名の下にフクシマで…

2024年04月16日 00時00分37秒 | Weblog

(2024年03月28日[木])
《広島、長崎、そしてビキニ-。》…そして、フクシマ。《…核使用の懸念が消えない。日本は被爆国なのに煮え切らず、原子力の平和利用の名目で原発稼働に前のめりになるうんざりする》(こちら特報部)。
 中島京子さん《杉並区は「原水爆禁止署名運動発祥の地」だし…さまざまな活動をしている区民が多いんです》。

   『●岸本聡子杉並区長「日本の政治を変えていくには、やっぱり地方、地域
     から変えていくことが大切で、そこにこそ大きな可能性があると感じた」
    「中島:私が素晴らしいな、と思ったのは、杉並で長く運動をして
        きた、いろいろな人たちがウワーッと集まって、みんなで
        選挙を作っていくのを目の当たりにできたことです。杉並区
        は「原水爆禁止署名運動発祥の地」だし、お母さんたちが
        学校給食の自校調理方式を守ったり、さまざまな活動をして
        いる区民が多いんです。
     岸本:私がレジェンドと呼んでいる方々です。」

   『●《杉並から世界に拡散した「原水爆禁止」運動...「市民の戦い」…70年前、
      先人は声を上げ、局面を動かした…やすやすと諦めている場合ではない》

 再々度引用。東京新聞の記事【こちら特報部/杉並から世界に拡散した「原水爆禁止運動 声を上げた一軒の魚屋、公民館を拠点にした「市民の戦い」】、《◆デスクメモ 不安定な世界情勢。核使用の懸念が消えない。日本は被爆国なのに煮え切らず、原子力の平和利用の名目で原発稼働に前のめりになるうんざりする。でも、と思う。70年前、先人は声を上げ、局面を動かした。それも東京からだ。見習うべき姿勢やすやすと諦めている場合ではない。(榊)》。

   『●(こちら特報部)《核使用の懸念が消えない。日本は被爆国なのに煮え切ら
     ず、原子力の平和利用の名目で原発稼働に前のめりになる。うんざりする》

 《核兵器をタブーの領域に押し込めた。双子の兄弟の一人をいないこと」にしてしまった。原発と核兵器の血のつながりを論ずることはタブーになった》。

   『●烏賀陽弘道さん『ヒロシマからフクシマへ原発をめぐる不思議な旅』読了
   『●NUMO「文献調査」の巨額な《原発マネー》に蝟集しても、空虚な《地域
      振興》に終わるだけで、何の解決策にもならずに地域が分断されるだけ

 《日本は被爆国なのに煮え切らず、原子力の平和利用の名目で原発稼働に前のめりになる》。
 東京新聞の【<社説>ビキニ事件70年 核廃絶への思い新たに】(https://www.tokyo-np.co.jp/article/317104?rct=editorial)。《日本のマグロ漁船員が人類初の水爆犠牲者になった「ビキニ事件」から今月で70年。世界にはいまだ1万2千以上の核弾頭があり、実戦での使用をほのめかす国家指導者さえ現れた。広島、長崎、そしてビキニ-。この国に三たび刻まれた被ばくの記憶を、何としても世界に伝えていかねばならない》。

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https://www.tokyo-np.co.jp/article/317104?rct=editorial

<社説>ビキニ事件70年 核廃絶への思い新たに
2024年3月25日 06時54分

 日本のマグロ漁船員が人類初の水爆犠牲者になった「ビキニ事件」から今月で70年。世界にはいまだ1万2千以上の核弾頭があり、実戦での使用をほのめかす国家指導者さえ現れた。広島、長崎、そしてビキニ-。この国に三たび刻まれた被ばくの記憶を、何としても世界に伝えていかねばならない。

 ソ連(現ロシア)との核開発競争が激化する中、米国は1946年から58年にかけて、中部太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁エニウェトク環礁で、計67回の原水爆実験を行った。

 1954年3月1日、ビキニ環礁で炸裂(さくれつ)した「ブラボー」という呼び名の水爆は、サンゴ礁を粉々に砕いて巻き上げ、放射能を帯びた「死の灰を振りまいた

 静岡県焼津港所属のマグロ漁船「第五福竜丸」は、爆心から約160キロ東で操業中、米軍が指定した危険区域の30キロも外側にいたが、死の灰を浴びた

 2週間後に焼津港へたどり着いたが、23人の乗組員全員が「急性放射能症」と診断され、無線長だった久保山愛吉さん(当時40歳)が約半年後に亡くなった。

 そのころ「原子力の平和利用」に傾いていた「唯一の戦争被爆国」では、久保山さんの死をきっかけに反核のうねりが起こり、翌年夏、広島市での第1回原水爆禁止世界大会につながった。

 第五福竜丸は東京水産大(現東京海洋大)の練習船として使われた後、67年に廃船。東京湾のごみ処分場「夢の島に捨てられた

 しかし、それを知った地元市民らが保存に動く。役目を終え、公園として整備された夢の島の一画に76年、船体を展示する「都立第五福竜丸展示館」が開館した。

 「ここは、過去と今とをつなぎ、未来を見つめてもらう場所だと思います。ビキニ事件は決してひとごとではありません」と、同館学芸員の蓮沼佑助さん。展示館前の記念碑には、久保山さんの「遺言」が刻まれている。

 「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい

 世界の現状に照らせば、一層重みを持つ言葉だ。悲劇の教訓を無駄にしてはならない。
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●(こちら特報部)《核使用の懸念が消えない。日本は被爆国なのに煮え切らず、原子力の平和利用の名目で原発稼働に前のめりになる。うんざりする》

2024年03月23日 00時00分56秒 | Weblog

(20240310[])
中島京子さん《杉並区は「原水爆禁止署名運動発祥の地」だし…さまざまな活動をしている区民が多いんです》。

   『●岸本聡子杉並区長「日本の政治を変えていくには、やっぱり地方、地域
     から変えていくことが大切で、そこにこそ大きな可能性があると感じた」
    「中島:私が素晴らしいな、と思ったのは、杉並で長く運動をして
        きた、いろいろな人たちがウワーッと集まって、みんなで
        選挙を作っていくのを目の当たりにできたことです。杉並区
        は「原水爆禁止署名運動発祥の地」だし、お母さんたちが
        学校給食の自校調理方式を守ったり、さまざまな活動をして
        いる区民が多いんです。
     岸本:私がレジェンドと呼んでいる方々です。」

   『●《杉並から世界に拡散した「原水爆禁止」運動...「市民の戦い」…70年前、
      先人は声を上げ、局面を動かした…やすやすと諦めている場合ではない》

 再度引用。東京新聞の記事【こちら特報部/杉並から世界に拡散した「原水爆禁止運動 声を上げた一軒の魚屋、公民館を拠点にした「市民の戦い」】、《◆デスクメモ 不安定な世界情勢。核使用の懸念が消えない。日本は被爆国なのに煮え切らず、原子力の平和利用の名目で原発稼働に前のめりになるうんざりする。でも、と思う。70年前、先人は声を上げ、局面を動かした。それも東京からだ。見習うべき姿勢やすやすと諦めている場合ではない。(榊)》。

 「核の平和利用」などと云う甘言に騙され…被爆国があまりに愚かな選択をしてしまった。(烏賀陽弘道さん)《兵器としてアメリカで生まれ、ヒロシマに落とされた「核」。その双子の兄弟「原発」……》。そう両者は双子の兄弟。《アメリカは、臨界状態をつくり出して自然の中に眠っていた核エネルギーを引っ張りだすところから始まって、原爆をつくり、爆発させ、原子炉に閉じ込め、それを発電所に設置しそれが全国や世界に普及していくところまで、全部ひとつながり》。核分裂のエネルギーを放出させるか、原子炉の中に閉じ込めるかの違いであり、原理的には全く同じ。
 《核兵器をタブーの領域に押し込めた。双子の兄弟の一人をいないこと」にしてしまった。原発と核兵器の血のつながりを論ずることはタブーになった》。

   『●烏賀陽弘道さん『ヒロシマからフクシマへ原発をめぐる不思議な旅』読了
   『●NUMO「文献調査」の巨額な《原発マネー》に蝟集しても、空虚な《地域
      振興》に終わるだけで、何の解決策にもならずに地域が分断されるだけ

 《日本は被爆国なのに煮え切らず、原子力の平和利用の名目で原発稼働に前のめりになる》。
 琉球新報の記事【<社説>ビキニ被ばく70年 日本主導で核兵器廃絶を】(https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-2856236.html)、《同時に第五福竜丸以外の被ばくした日本全国の漁船の検証も必要である》、《現在、ウクライナに侵攻したロシアが核兵器使用をちらつかせるなど核戦争の危機が続いている。原発に関してはスリーマイル島チェルノブイリ福島第1原発の重大事故にみるように「原子力の平和利用」は曲がり角にある。日本の原子力政策も3原則に忠実だったとは言いがたい。核は人類の幸福につながるのかという根源的な問いに向き合わなければならない。その上で核兵器の廃絶を主導し、脱原発のエネルギー政策を目指すのが日本の役目だ》。

   『●鎌田慧さんらの「脱原発」署名呼びかけ
   『●社説:核廃絶と脱原発
    《しかし、本をただせば同じ核燃料と技術である。これまで分けて
     いたことが異常だったのかもしれない。そのことは安全神話が
     まかり通っていた原発が事故を起こし、思い知らされることになる
      田中氏は言う。「核と原発はつながっているが、背中合わせ
     
だからお互いが見えなかった」と。》

   『●東京電力原発人災から『X年後』……
       取り返しのつかないことが現実化してはいまいか?
    《これは高知の高校教師・山下正寿とその教え子たちの
     ゼミナールが、地道な聞き取り調査で掘り起こしたものだ。
     今年8月には、続編とも言うべき30分TV番組
     『続・放射線を浴びたX年後~日本に降り注いだ雨は今』が
     放映された。この作品も伊東 ・山下のコンビだが、今度は福島の
     原発事故をきっかけに、60年前の大地に降った雨の行方を
     追いかけたものだ。ここでは特に沖縄に焦点を当てている。
     当時、沖縄は米軍の統治下にあり、マグロの被曝で大騒ぎして
     いた本土とは違って、同じ汚染海域のマグロを獲っても、
     米軍が測定して安全を宣言していた。伊東・山下は元漁船員を
     訪ね歩き、それが米軍による完全なごまかしだった
     と明らかにしていく。驚くのは、沖縄の古書店にあった
     『気象要覧』になんと17万カウント(3万7000ベクレル)
     もの雨が降っていたと記載されていたこと。また、沖縄などの
     住居を訪ね、床下の土壌を採集して調べる徹底ぶり。
     埋もれた歴史が顔をのぞかせる》

   『●呼び掛けに応じて ~原発なんて要らない~
   『●あれから3年半、広島市長までが、
     原発は「安全性を確保できれば再稼働するという方向が出ている」と
    《「核と人類は共存できない」という思想を75年に打ち出した
     哲学者・森滝市郎(1901~94)の次女だ。
      原爆で右目を失った父は戦後、原水爆禁止運動の先頭に立った。
     豪州のウラン鉱山で働く同胞の被曝(ひばく)の危険性を訴えた
     先住民の女性との出会いが、核の絶対否定」を確信させた》

   『●人類は核と共存できるのか?
      『放射線を浴びたX年後』とパグウォッシュ会議
    《これがきっかけで、原水爆禁止運動が国民的な広がりを持った。
     翌年八月六日、広島で開かれた「第一回原水爆禁止世界大会」には
     三千万を超える署名が集まった。展示館にはその署名簿の一部も
     展示されている。
      影響は海外にも広がった。哲学者バートランド・ラッセル
     物理学者アルバート・アインシュタインは「核兵器の廃絶と
     戦争の廃絶」を訴えたラッセル・アインシュタイン宣言を発表した。
     宣言を出す理由として、水爆実験で日本の漁船員が被ばくしたこと
     に触れている。宣言には、湯川秀樹博士も署名した。
      二年後の五七年、カナダの漁村パグウォッシュに、米、旧ソ連、
     西欧、東欧、中国などの物理学者ら二十二人が集まり、核兵器の
     危険性、放射線の危害、科学者の社会的責任について討議した。
     この後、パグウォッシュ会議のグループ名で毎年、開催されている》

   『●「マンハッタン計画」の核開発拠点となったハンフォードと
           東京電力核発電人災、それぞれの『X年後』…
   『●核発電「麻薬」中毒患者の覚めぬ悪夢…《安全神話、
      経済神話、クリーン神話-三つの神話》を脱却できず
    《原水爆禁止運動に生涯を捧(ささ)げた哲学者の故森滝市郎さん
     さえも「軍事利用はいけないが、平和利用だったらいいのじゃないか
     と考えたのです」…と、一時は評価に傾きました。
      五七年には茨城県東海村の実験炉に初の原子の火がともり、
     十年後には福島第一原発の建設が始まった》
    《◆夢はずっと夢のまま こうして被爆国日本は五十四基の原子炉を
     有する世界三位の原発大国になったのです。ところが、
     しょせん夢は夢。原子力の飛行機も鉄道も、超小型原子炉で
     十万馬力の鉄腕アトムも、使えば使うほど燃料を増やす夢の原子炉も、
     実現を見ることはありますまい
      核兵器の実相を糊塗(こと)するために陳列された空虚な夢は、
     安全神話経済神話クリーン神話三つの神話の温床には
     なりました》

   『●「ビキニ事件は遠い過去に終わったことではなく、未来の命にかかわる」
       ――― マグロ漁船「第五福竜丸」の船員・大石又七さんが亡くなる
    《ビキニ事件は原水爆禁止の国内世論を高めた一方で、日米両政府の
     政治決着により、翌年に米側の見舞金7億円余で「完全解決」とされた
      同じ海域で影響を受けた日本の漁船は約1千隻とされるが、
     公式の健康影響調査はされていない。80年代以降、船の約3割は
     高知県から出ていたことが地元の地道な調査で浮かんだ》

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https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-2856236.html

<社説>ビキニ被ばく70年 日本主導で核兵器廃絶を
公開日時 2024年03月01日 05:00

 核の恐怖を歴史に刻み、今もその恐怖と向き合っている国だからこそ、なすべきことがある。そのことを再確認する日としたい。


 太平洋のビキニ環礁で米国が実施した水爆実験で静岡県のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23人が被ばくし、無線長の久保山愛吉さんが亡くなった第五福竜丸事件から、きょうで70年となった。

 広島、長崎への原爆投下とともに私たちは第五福竜丸事件を語り継ぎながら、核兵器廃絶を訴え続けなければならない。被爆国であり、核実験による深刻な被ばく被害を知る日本は、核廃絶の役割を積極的に果たすべきである

 忘れてはならないのが、沖縄もビキニ核実験とは無関係ではないということである。1988年の沖縄県原水協・平和委員会の調査で沖縄の漁船2隻の乗組員68人が被ばくした可能性があることが分かっている。放射性物質を含む雨が沖縄にも降った可能性も指摘されている。米統治下にあった沖縄で十分な調査はなされなかった。改めて検証が求められる。

 同時に第五福竜丸以外の被ばくした日本全国の漁船の検証も必要である

 厚生労働省は事件から60年後の2014年、ようやく周辺海域で操業していた延べ556隻の被ばく状況の検査結果などを公表した。翌年には被ばく状況を評価する研究班を設置した。船員や遺族らが国家賠償や船員保険適用を求める訴訟も起きている。

 第五福竜丸に関しても、乗組員の生殖機能の一時的な低下について日米両国の関係機関が「機密扱い」とし、乗組員にも伝えていなかったことが分かっている。国民の反核感情や米国の軍事政策への影響を避けたとみられる

 これらの経緯を見ても、ビキニ実験と第五福竜丸など日本漁船の被ばくは過去の事件として済ませることができないこれからも検証と事実関係の公開が求められている

 日本の原子力政策も再検討の時期に来ている。

 事件前年の1953年、アイゼンハワー米大統領は核開発競争激化を背景に「原子力の平和利用」に関する宣言を打ち出し、発電など原子力の活用が進んだ。日本学術会議は54年、核の軍事利用を拒否するとともに原子力研究における「公開・民主・自主」を打ち出した。この3原則は原子力基本法に反映された。

 現在、ウクライナに侵攻したロシアが核兵器使用をちらつかせるなど核戦争の危機が続いている。原発に関してはスリーマイル島チェルノブイリ福島第1原発の重大事故にみるように「原子力の平和利用」は曲がり角にある。日本の原子力政策も3原則に忠実だったとは言いがたい。

 核は人類の幸福につながるのかという根源的な問いに向き合わなければならない。その上で核兵器の廃絶を主導し、脱原発のエネルギー政策を目指すのが日本の役目だ。
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●《杉並から世界に拡散した「原水爆禁止」運動...「市民の戦い」…70年前、先人は声を上げ、局面を動かした…やすやすと諦めている場合ではない》

2024年02月29日 00時00分31秒 | Weblog

(2024年02月12日[月])
中島京子さん《杉並区は「原水爆禁止署名運動発祥の地」だし…さまざまな活動をしている区民が多いんです》。

   『●岸本聡子杉並区長「日本の政治を変えていくには、やっぱり地方、地域
     から変えていくことが大切で、そこにこそ大きな可能性があると感じた」
    「中島:私が素晴らしいな、と思ったのは、杉並で長く運動をして
        きた、いろいろな人たちがウワーッと集まって、みんなで
        選挙を作っていくのを目の当たりにできたことです。杉並区
        は「原水爆禁止署名運動発祥の地」だし、お母さんたちが
        学校給食の自校調理方式を守ったり、さまざまな活動をして
        いる区民が多いんです。
     岸本:私がレジェンドと呼んでいる方々です。」

 山田祐一郎記者による、東京新聞の記事【こちら特報部/杉並から世界に拡散した「原水爆禁止運動 声を上げた一軒の魚屋、公民館を拠点にした「市民の戦い」】(https://www.tokyo-np.co.jp/article/308840)。《◆デスクメモ 不安定な世界情勢。核使用の懸念が消えない。日本は被爆国なのに煮え切らず、原子力の平和利用の名目で原発稼働に前のめりになるうんざりする。でも、と思う。70年前、先人は声を上げ、局面を動かした。それも東京からだ。見習うべき姿勢やすやすと諦めている場合ではない。(榊)》

   『●鎌田慧さんらの「脱原発」署名呼びかけ
   『●社説:核廃絶と脱原発
    《しかし、本をただせば同じ核燃料と技術である。これまで分けて
     いたことが異常だったのかもしれない。そのことは安全神話が
     まかり通っていた原発が事故を起こし、思い知らされることになる
      田中氏は言う。「核と原発はつながっているが、背中合わせ
     
だからお互いが見えなかった」と。》

   『●呼び掛けに応じて ~原発なんて要らない~
   『●あれから3年半、広島市長までが、
     原発は「安全性を確保できれば再稼働するという方向が出ている」と
    《「核と人類は共存できない」という思想を75年に打ち出した
     哲学者・森滝市郎(1901~94)の次女だ。
      原爆で右目を失った父は戦後、原水爆禁止運動の先頭に立った。
     豪州のウラン鉱山で働く同胞の被曝(ひばく)の危険性を訴えた
     先住民の女性との出会いが、核の「絶対否定」を確信させた》

   『●人類は核と共存できるのか?
      『放射線を浴びたX年後』とパグウォッシュ会議
    《これがきっかけで、原水爆禁止運動が国民的な広がりを持った。
     翌年八月六日、広島で開かれた「第一回原水爆禁止世界大会」には
     三千万を超える署名が集まった。展示館にはその署名簿の一部も
     展示されている。
      影響は海外にも広がった。哲学者バートランド・ラッセル
     物理学者アルバート・アインシュタインは「核兵器の廃絶と
     戦争の廃絶」を訴えたラッセル・アインシュタイン宣言を発表した。
     宣言を出す理由として、水爆実験で日本の漁船員が被ばくしたこと
     に触れている。宣言には、湯川秀樹博士も署名した。
      二年後の五七年、カナダの漁村パグウォッシュに、米、旧ソ連、
     西欧、東欧、中国などの物理学者ら二十二人が集まり、核兵器の
     危険性、放射線の危害、科学者の社会的責任について討議した。
     この後、パグウォッシュ会議のグループ名で毎年、開催されている》

   『●「マンハッタン計画」の核開発拠点となったハンフォードと
           東京電力核発電人災、それぞれの『X年後』…
   『●核発電「麻薬」中毒患者の覚めぬ悪夢…《安全神話、
      経済神話、クリーン神話-三つの神話》を脱却できず
    《原水爆禁止運動に生涯を捧(ささ)げた哲学者の故森滝市郎さん
     さえも「軍事利用はいけないが、平和利用だったらいいのじゃないか
     と考えたのです」…と、一時は評価に傾きました。
      五七年には茨城県東海村の実験炉に初の原子の火がともり、
     十年後には福島第一原発の建設が始まった》
    《◆夢はずっと夢のまま こうして被爆国日本は五十四基の原子炉を
     有する世界三位の原発大国になったのです。ところが、
     しょせん夢は夢。原子力の飛行機も鉄道も、超小型原子炉で
     十万馬力の鉄腕アトムも、使えば使うほど燃料を増やす夢の原子炉も、
     実現を見ることはありますまい
      核兵器の実相を糊塗(こと)するために陳列された空虚な夢は、
     安全神話経済神話クリーン神話三つの神話の温床には
     なりました》

   『●「ビキニ事件は遠い過去に終わったことではなく、未来の命にかかわる」
       ――― マグロ漁船「第五福竜丸」の船員・大石又七さんが亡くなる
    《ビキニ事件は原水爆禁止の国内世論を高めた一方で、日米両政府の
     政治決着により、翌年に米側の見舞金7億円余で「完全解決」とされた
      同じ海域で影響を受けた日本の漁船は約1千隻とされるが、
     公式の健康影響調査はされていない。80年代以降、船の約3割は
     高知県から出ていたことが地元の地道な調査で浮かんだ》

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https://www.tokyo-np.co.jp/article/308840

こちら特報部
杉並から世界に拡散した「原水爆禁止」運動 声を上げた一軒の魚屋、公民館を拠点にした「市民の戦い」
2024年2月12日 12時00分

 太平洋のビキニ環礁で米国が水爆実験を行ってからまもなく70年を迎える。付近で操業していた日本のマグロ漁船が「死の灰」を浴び、放射能に汚染された「原爆マグロ」が大量に廃棄される騒動も起きた。原水爆禁止を求める統一的な署名運動は、東京都杉並区の魚商の呼びかけがきっかけとされる日本全国に広まり、世界的な活動へつながっていく運動の原点をたどった。(山田祐一郎


◆飲食店主、市場の仲間 みんな危機感があった

 「ある日を境にぱたっと魚が売れなくなった。付近の住民が遠巻きに怖い物を見るように店を避けていったのを覚えている」

 杉並区の竹内ひで子さん(81)が70年前の記憶をこう語る。当時は11歳。両親の菅原健一さんとトミ子さん(ともに故人)が営む鮮魚商「魚健」の店番や配達を手伝っていた。

     (署名運動に奔走した両親について話す
      竹内ひで子さん=東京都杉並区で)

 1954年3月1日、ビキニ環礁での水爆実験に静岡県焼津市の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が遭遇し、乗員23人全員が被ばくした。当時、周辺で多くのマグロ漁船が操業中で、850隻以上から放射能に汚染されたマグロが水揚げされた。ニュースで報道されると「日本の台所を預かる市場が大パニックに陥った」と竹内さんは振り返る。

 父健一さんの元には、すし店や干物店などの店主らが次々と相談に訪れた。同月中には、原水爆禁止を求める署名運動を行うことを地元の魚商組合が決定。健一さんは、築地市場に買い出しに訪れる東京中の魚商仲間にも声を掛けた。


◆店先の署名簿が1カ月で爆発的に広がった

 4月2日、築地市場であった大会は500人以上が集まり、米国の負担による損害補償や実験中止のための大国間の会議などを求める決議を採択した。杉並区にも地元魚商組合が陳情書を提出。文面考案の中心となったのは健一さんだ。「第五福竜丸の一報から1カ月もたたないうちに、米国や日本政府、区に意思を示したのは驚くべきこと」。竹内さんはそう思い返す。

 当初は魚商の店先に置かれていた署名簿。一気に署名運動が広がったのは、母トミ子さんの言動がきっかけだった。

     (菅原健一さん、トミ子さん夫妻=竹内ひで子さん提供)

 4月16日に杉並区立公民館で開かれた地元婦人団体協議会主催の婦人参政権行使記念講演会。講演が終わり、トミ子さんが手を挙げて発言した。「ビキニ水爆実験による放射能汚染で魚が全く売れず、困っています」。署名運動への協力を呼びかけた。後に講演会の参加者から伝え聞いた様子を竹内さんはこう話す。「母は震えながら手を挙げ、意を決して訴えたようだ」


◆日本政府は批准していない「核兵器禁止条約」

 戦時中から労働運動などを行っていた菅原夫妻。「子どものころから、戦争は絶対にしてはいけないと両親から繰り返し言われてきた。米国とソ連(当時)の核開発競争に日本が巻き込まれたことで再び戦争への道が開かれることを懸念した」。竹内さんは積極的に署名運動に関わった両親の原動力をそう語る。

     (杉並公民館の館長室で署名簿を整理する女性たち
      =1954年撮影(杉並区立郷土博物館提供))

 講演会翌日、杉並区議会は全会一致で水爆実験禁止を求める決議文を採択。5月に入ると「水爆禁止署名運動杉並協議会」ができ、区役所にも署名簿が置かれた。官民の垣根なく区民の運動として盛り上がり、当時39万人が住んでいた同区で2カ月余りのうちに27万以上の署名が集まった

 水爆実験からまもなく70年。2021年には核兵器禁止条約が発効した一方、日本政府が今も批准していない状況を竹内さんは残念がる。「かつての杉並から広まった核兵器反対のうねりが再び起こってほしい


◆「魚屋さんだけの問題だけではない」

 署名運動の中心には、杉並区立公民館の存在があった。講演会で署名への協力を呼びかけたトミ子さんに対し、安井郁(かおる)館長(故人)は「これは魚屋さんだけの問題ではない。全人類の問題である」と会場の参加者に呼びかけたという。

 安井さんは1954年5月にできた水爆禁止署名運動杉並協議会の議長に。署名簿に掲げられたスローガンと声明文は「杉並アピール」と呼ばれ、統一的な署名運動が全国に広がった。

     (三つのスローガンが掲げられた署名簿の表紙
      =杉並区立郷土博物館提供)

 8月に原水爆禁止署名運動全国協議会が発足すると、事務局が区立公民館に置かれた。安井さんが事務局長を務め、全国から寄せられた署名の集計を協議会の女性たちが行った。「当初から世界に訴えるという目標がスローガンにも表れている」と長男の妻の節子さん(79)は語る。

 大学教授でもあった安井さん。「専門は国際法。公民館は民主主義社会と平和主義のための基地であるという思いがあった」と節子さん。当時、公開講座や女性向けの読書会を企画。社会教育の場として区立公民館で多くの女性が学んだ。


◆女性たちのエネルギーが局面を動かした

 区内の署名運動で大きな役割を担ったのは、公民館でつながった女性たちだ。「署名は、女性の水爆禁止への意思表示の手段だった」。地域で平和活動や社会教育活動に関わってきた杉並ユネスコ協会顧問の林美紀子さん(84)はこう話す。「あの時代に何万という署名を集めるエネルギーには驚く」

 全国的な署名運動は、55年8月6日に広島で開かれた「第1回原水爆禁止世界大会に結実する。大会までに全国で集められた署名は3200万筆以上当時の人口の3分の1以上が署名したことになる

     (署名を呼びかけるポスター=杉並区立郷土博物館提供)

 こうした動きは、広島・長崎の被爆者の団結にもつながった。日本原水爆被害者団体協議会被団協)の田中熙巳代表委員(91)は「70年前の事件がなければ全国の原爆被害者は救われなかったかもしれない」と明かす。広島での世界大会後、各地で被爆者団体が結成され、56年に長崎で開かれた第2回大会で被団協が誕生。被爆者への補償や実相普及につながった。

 原水爆禁止の署名運動の中心となり、その後の運動に大きな影響を与えた杉並だが、当時を知る人が少ないのが現状だ拠点となった区立公民館は89年に廃館となり、跡地に建てられた記念碑には経緯が短く記されているだけだ。


◆多くの人が「連帯」できるノウハウ 継承できるように

 昨年3月には、区内の市民団体が平和資料館(室)を求めて署名活動を開始した。被爆者や戦争体験者、署名運動の関係者が所有してきた資料や証言記録を整理、保存、展示する施設の整備を訴えている。

 署名の呼びかけ人の一人で区内在住の武蔵大の永田浩三教授(メディア社会学)は当時の動きを「行政も地域の住民も頑張る中で、政党色がなく多くの人を巻き込んだ」と指摘する。

     (杉並公民館跡地に立つ「オーロラの碑」)

 「当時の資料からは、関係者が知恵を出し合い、工夫してきたことがうかがえる連帯のためのノウハウが詰まっている」と検証する場の必要性を強調する。

 安井さんが自宅で保管していた資料は2005年以降、有志らがデータベース化を行ってきた。一昨年、区立郷土博物館に資料を寄贈した節子さんは「今後、資料を研究者に役立ててもらうなどして、杉並区から世界に広がったこの運動の姿勢や精神を次世代へ語り継いでほしい」と願う。


◆デスクメモ

 不安定な世界情勢。核使用の懸念が消えない。日本は被爆国なのに煮え切らず、原子力の平和利用の名目で原発稼働に前のめりになるうんざりする。でも、と思う。70年前、先人は声を上げ、局面を動かした。それも東京からだ。見習うべき姿勢やすやすと諦めている場合ではない。(榊)


【関連記事】杉並区議選の波乱を起こした「2万票」…女性が当選者の半数、自民が大量落選
【関連記事】佐倉市、「原水爆禁止」大行進の後援見送り 旧統一協会問題影響か 市側「イベント精査の結果」
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●「マンハッタン計画」の核開発拠点となったハンフォードと東京電力核発電人災、それぞれの『X年後』…

2016年01月21日 00時00分21秒 | Weblog


asahi.comの記事『(核の神話:9)農民が語る 汚染された米国の「真実」』(http://www.asahi.com/articles/ASJ1442R8J14PTIL00B.html?iref=comtop_fbox_d1_02)。

 《米国の原爆開発「マンハッタン計画」の核開発拠点となったハンフォード。その周辺住民らの健康被害をメディアで告発して訴訟を起こし、米国内に「ヒバク博物館」を造るためのNPOをトリシャ・プリティキンさん(「核の神話:8」で紹介)らとともに立ち上げたハンフォードの「語り部」農民トム・ベイリーさん(68)に、ハンフォードと福島の共通点などについて聞いた》

   『●社説:核廃絶と脱原発
   『●烏賀陽弘道さん
     『ヒロシマからフクシマへ原発をめぐる不思議な旅』読了
   『●人類は核と共存できるのか?
      『放射線を浴びたX年後』とパグウォッシュ会議

 『X年後』…そして、烏賀陽弘道さん『ヒロシマからフクシマへ原発をめぐる不思議な旅』。
 口にしたくは無いのだけれど、棄民という言葉が思い浮かびます。
 「マンハッタン計画」から『X年後』に何が起き、いま、ニッポンで何が起きているのか?

   『●東京電力原発人災から『X年後』・・・・・・ 
       取り返しのつかないことが現実化してはいまいか?
   『●「私たちは被ばく船員を見捨ててきたと痛感」
              ・・・2011年から「X年後」を怖れる
   『●東電原発人災から『X年後』:「自分が壮大なできごとの 
          参加者だということがわかっているのだろうか」?
   『●黙殺される東電原発人災『X年後』: 
     「100万人に2~3人という日本の全国平均を大きく上回ったもの」
   『●星北斗座長「甲状腺がんは放射線の影響とは考えにくい」
            …では、何が原因なのか?、を説明して下さい!

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http://www.asahi.com/articles/ASJ1442R8J14PTIL00B.html?iref=comtop_fbox_d1_02

(核の神話:9)農民が語る 汚染された米国の「真実」
核と人類取材センター・田井中雅人 2016年1月13日17時38分

     (トム・ベイリーさん=米ワシントン州ハンフォード、
                            新井卓氏撮影)

 米国の原爆開発「マンハッタン計画」の核開発拠点となったハンフォード。その周辺住民らの健康被害をメディアで告発して訴訟を起こし、米国内に「ヒバク博物館」を造るためのNPOをトリシャ・プリティキンさん(「核の神話:8」で紹介)らとともに立ち上げたハンフォードの「語り部」農民トム・ベイリーさん(68)に、ハンフォードと福島の共通点などについて聞いた。


■「語り部」農民、トム・ベイリーさん

 福島第一原発事故後の2011年夏、原水爆禁止世界大会に招かれて長崎に行ったんだ。集会で日本人科学者が「福島の放射能は大丈夫。心配ない」と発言したから、俺は思った。「ばかじゃないか。原子炉が三つも爆発したんだぞ。自分は科学者じゃなくてただの農民だけど、大丈夫じゃないことくらいは分かる」と。

 福島住民の放射線被曝(ひばく)の「許容線量」を上げておいて、日本政府は「心配ない」って言っているんだろう。ここハンフォードでも同じさ。40年にわたって「許容線量」を上げ続け、がんで施設周辺の住民が次々と死んでいるのに、科学者は「これは安全なレベルの放射能です」ってね。

 確かに、ハンフォード周辺はワイン産地として売り出しているし、ジャガイモは日本のファストフード店用にも輸出しているよ。畑の緑の景色はきれいだから、放射能の危険性が見えなくなる。畑で働いているのは放射能について何も知らないメキシコ系移民たちが多い。危険性がわかっている科学者たちは自分の子どもや孫たちをここに住まわせたりしない。リタイアした裕福な老人たちには気候が良くて、いい所だがね。

 「マンハッタン計画」が始まった1940年代、ハンフォード核施設では放射性廃棄物を敷地の土中に直接埋めていた。それが施設沿いを流れるコロンビア川に漏れて汚染した水を当時の住民は飲んでいた。さらに49年の「グリーン・ラン実験」で前代未聞の大量の放射性物質が意図的に大気中にぶちまけられたハンフォードは地球上で最も放射能に汚染された場所になったにもかかわらず、政府や企業はそのことをずっと隠し続けてきた

 施設の風下にあたるうちの近所一帯は「死の1マイル」だ。家族や友人らが、がんや白血病で次々と死んでいく。俺が4歳くらいのころ、金属製の箱を持った男たちがうちの庭に勝手に入って、シャベルで土をとっていた。ガイガーカウンター(放射線測定器)で放射線を測っていたんだろう。暑い日なのに、SFの宇宙服のようなものを着ていたのは、防護服だったのだろう。俺は子どものころから病気がちで、他の子どもたちとともに甲状腺や全身、血液の検査を定期的に受けさせられた。好奇心を抑えきれない科学者たちが、人間を家畜のように扱って、放射線の人体への影響を定点観測していたんだろう。日本に行ってショックだったのは、原爆障害調査委員会(ABCC)の医師らが広島・長崎の被爆者たちの検査をしながら治療をしていなかったと知らされたことだ。俺たちと同じじゃないか、と。

 俺自身も皮膚がんを患い、無精子症と診断された。それでも子どもがほしかったから、国内外から7人の養子をもうけた。しかし、その遺伝していない養子たちにも放射能の影響がでている。俺の友達はほとんど亡くなり、きょうだいもがんを患っている。近所の女性たちは流産したり、奇形児を産んだり、世代を越えて被曝(ひばく)の影響が続いているんだ。………。
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●人類は核と共存できるのか? 『放射線を浴びたX年後』とパグウォッシュ会議

2015年11月01日 00時00分10秒 | Weblog


東京新聞の社説【核と人類 パグウォッシュ会議を前に 世界を動かした死の灰】(http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2015102602000135.html)。


 《第五福竜丸は一九五四年、太平洋で操業中に、米国がビキニ環礁で行った水爆実験で被ばくした。大量の放射性降下物(死の灰)を浴び、乗組員の一人が帰国後、死亡した》。

 これは一面にしか過ぎない…『放射線を浴びたX年後』。

   『●映画『放射線を浴びた『X年後』』: 
      「こんな巨大な事件が、・・・日本人としての資質が問われる」
    「だが、実は被曝したのは1隻だけでなく992隻に上った
     しかも、船員の多くは若くしてがんで人知れず亡くなっていた
     たとえば「第二幸成丸」の乗組員20人中17が、「新生丸」では
     19人中17が死亡している。それなのに米政府は、200万ドルの
     慰謝料を支払うことで“完全解決”を図り、日本政府が受諾し、
     一切の調査を打ち切って隠蔽した。翌年から、
     すべての魚が無検査で全国の食卓にのぼった」・・・・・・。
    「山下は語る。「こんな巨大な事件が、全体像が明らかにされないまま
     現代史に埋没するなんてことは、日本人としての資質が問われる
」と。
     この映画から、フクシマの「X年後」が見えてきて誰しも愕然となろう」

   『●東電原発人災の『X年後』: 厚生省「1.68ミリシーベルト」
                     vs 研究者「1400ミリシーベルト」


 《長崎市で第六十一回パグウォッシュ会議世界大会が…人類は核と共存できるのか…》?

 核発電も含めて、答えは「No!」だ。

   『●社説:核廃絶と脱原発
   『●首相の2枚目の舌が福島で語らない事
   『●核開発・核使用、そして原発推進・・・・・・、
                 それは愛国心の発露か?
   『●吉永小百合氏の原発廃止発言
   『●吉永小百合さん、「核と人は共存できない」
            「ゲームやコミックスで知っている戦争ではないか?」』 

   『●「原発に依存しない地域の未来図を」描くことは可能だ
    「福島原発の被災者は、放射能でふるさとさえも失った
     あまりに過酷な現実の渦中にある。
     再び原発と共存できるとは思うまい
      他の原発立地地域にも、もはや原発の安全神話を
     信じる人はいないだろう

   『●あれから3年半、広島市長までが、原発は
     「安全性を確保できれば再稼働するという方向が出ている」と
   『●「核と人類は共存し得ない」
   『●東電原発人災から『X年後』:「自分が壮大なできごとの
           参加者だということがわかっているのだろうか」?
    「『チェルノブイリの祈り』(松本妙子訳、岩波書店)…
     本の副題は「未来の物語」とした▼だが、この副題は
     隠喩以上の意味を持つこととなった福島の事故を見て
     彼女は「私は過去についての本を書いていたのに、
     それは未来のことだったとは」と慨嘆したという
     ▼人類は核と共存しうるのか。常にそう問われる時代に
     私たちは生きている。」

   『●黙殺される東電原発人災『X年後』:
      「100万人に2~3人という日本の全国平均を大きく上回ったもの」


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http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2015102602000135.html

【社説】
核と人類 パグウォッシュ会議を前に 世界を動かした死の灰
2015年10月26日

 秋の修学旅行シーズン、真っ盛りだ。東京・夢の島にある「第五福竜丸展示館」にも、小中高校生たちの姿が目立つ。

 第五福竜丸は一九五四年、太平洋で操業中に、米国がビキニ環礁で行った水爆実験で被ばくした。大量の放射性降下物(死の灰)を浴び、乗組員の一人が帰国後、死亡した。展示館には、ガラス瓶に入った「死の灰」がある。瓶のラベルが茶色く変色しているのとは対照的に、食塩のような純白の小さな粒だ。サンゴが水爆で破壊され、その熱に焼かれてできた。放射線はもう測定できないほどだという。

 これがきっかけで、原水爆禁止運動が国民的な広がりを持った。翌年八月六日、広島で開かれた「第一回原水爆禁止世界大会」には三千万を超える署名が集まった。展示館にはその署名簿の一部も展示されている。

 影響は海外にも広がった。哲学者バートランド・ラッセルと物理学者アルバート・アインシュタインは「核兵器の廃絶と戦争の廃絶」を訴えたラッセル・アインシュタイン宣言を発表した。宣言を出す理由として、水爆実験で日本の漁船員が被ばくしたことに触れている。宣言には、湯川秀樹博士も署名した。

 二年後の五七年、カナダの漁村パグウォッシュに、米、旧ソ連、西欧、東欧、中国などの物理学者ら二十二人が集まり、核兵器の危険性、放射線の危害、科学者の社会的責任について討議した。この後、パグウォッシュ会議のグループ名で毎年、開催されている。

 来月一日から五日まで長崎市で第六十一回パグウォッシュ会議世界大会が開かれ、四十カ国から二百人近い科学者らが参加する。

 国内での開催は一九九五年、二〇〇五年の二度、広島市で開かれたのに続き三回目だ。被爆地広島での開催は、参加者にとって貴重な経験となったという。

 今回は、参加者と長崎の被爆者との対話を予定。福島第一原発事故が初めてプログラムに入った。「平和と共存の北東アジアをめざして」というセッションでは、将来の非核化を探る。

 会議が開かれるのを機に、人類は核と共存できるのか、みなさんと一緒に考えたい。 (井上能行
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●社説:核廃絶と脱原発

2011年08月21日 00時22分34秒 | Weblog


東京新聞の社説(http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2011080702000057.html)。何もコメントを添える必要性を感じません。産経などと違って、当たり前だけれども、東京新聞はとてもとてもまともだ。

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2011080702000057.html

核廃絶と脱原発 次世代に引き継ぐ責任
201187

 六十六年目の原爆忌を迎えた広島で、核廃絶と脱原発の訴えが共鳴した。ともに人類の存亡にかかわる目標だ。次の世代に引き継ぐ責任を自覚したい

 爆心地に近い平和記念公園で営まれた原爆死没者慰霊式・平和祈念式。首相のあいさつがこれほど注目された年もなかろう。原発事故を受け、菅直人首相が原子力政策にどう言及するのか、と。

 首相は、核兵器廃絶と世界恒久平和に向けた決意に続き、「エネルギー政策についても白紙から見直しを進めている。原発への依存度を引き下げ、『原発に依存しない社会』を目指す」と述べた。


平和という「救い」
 首相が原爆忌にあたり、脱原発依存に言及するのは、これまでの例から言えば確かに異例だろう。

 核兵器は「悪」で、核の平和利用は「善」という構図が、唯一の被爆国・日本でも広く受け入れられてきたからだ。

 広島市立大学広島平和研究所の田中利幸教授によると、核の平和利用は当初、被爆者の間でも受け入れられてきた、という。

 一九五五年に開かれた第一回原水爆禁止世界大会の広島アピールでは「原子戦争を企てる力を打ちくだき、その原子力を人類の幸福と繁栄のために用いなければならないとの決意を新たにしました」とうたわれている。

 核が平和利用されれば、人々の生活を豊かにでき、何より軍事利用の道を閉ざせるかもしれない。被爆者にとっては、それが「救い」になったのだろう。

 しかし、本をただせば同じ核燃料と技術である。これまで分けていたことが異常だったのかもしれない。そのことは安全神話がまかり通っていた原発が事故を起こし、思い知らされることになる

 田中氏は言う。「核と原発はつながっているが、背中合わせだからお互いが見えなかった」と。


米国核戦略の一環
 核の平和利用自体、米国の核戦略の一環だったことが、近年の研究で明らかになりつつある。

 米国が平和利用を打ち出したのは五三年十二月、アイゼンハワー大統領の国連演説「Atoms for Peace(平和のための原子力)」だ。

 この年の八月、当時のソ連が水爆と思われる核実験を行うなど核開発競争は熾烈(しれつ)を極め、米ソ間で核戦争が勃発するのではないかという不安が急激に高まっていた。

 大統領演説からは、ソ連を牽制(けんせい)すると同時に、西側の非核武装国には原子力発電をはじめとする非軍事技術を提供し、自陣に留め置こうという意図がうかがえる。

 日本、特に広島は平和利用宣伝のターゲットにされた。五六年の「原子力平和利用博覧会」、五八年の「広島復興大博覧会」では、平和記念資料館に米国の協力で原子炉模型などが展示され、多くの入場者でにぎわったという。

 米国にとって被爆地のお墨付きを得ることは「平和のための原子力」を成功に導き、核戦略で優位に立つための必要条件だった。

 米国の核政策はともかく、原子力は安価で、小資源国の日本には欠かせないという意見もある。

 しかし、福島での原発事故を見れば、とても安価とは言えない。事故収束や補償の費用は優良企業とされた東京電力の存立すら危うくするほど膨大だ。そもそも核燃料サイクルは未完の技術であり、使用済み核燃料はたまる一方だ

 原爆忌での「脱原発依存」宣言は、むしろ遅きに失したのかもしれない。政権延命意図の有無にかかわらず、目指す方向性は支持する。

 とはいえ、田中氏は「脱原発に向かってのビジョンがつくれていないのが問題だ」と指摘する。

 政府のエネルギー・環境会議がまとめた中間整理案では、首相の脱原発方針は「原発への依存度の低減に関する国民的議論を踏まえた対応」にトーンダウンした。

 原発を推進してきた経済産業省の人事は、次官以下、責任をとらせる「更迭」のはずが通常の順送り人事にとどまった。いずれも官僚の抵抗を、首相がはねつけられなかった結果だ。

 世論調査では、首相の脱原発方針を支持する意見は70%に達しているが、内閣支持率は20%前後にとどまる。国民が脱原発を支持しながらも、首相の指導力の欠如を見透かしているからだろう。


核とは共存できぬ
 自らも被爆し、核兵器廃絶と被爆者援護に半生をささげた故森滝市郎・広島大名誉教授は「核と人類は共存できない」と語った。

 核廃絶と脱原発。ともに実現の道は険しいが、今の世代で無理ならば、次世代に引き継いででも成し遂げねばならない目標だ。

 菅首相の責務は、脱原発依存方針を閣議で正式決定し、次の政権にも引き継ぐことだろう。政治生命を賭す価値は十分ある。
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