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「自費出版で踏み出す確かな一歩」だって?②(通算No114)

2011年11月06日 15時54分52秒 | ブログの枠外に取り付く広告

 朝日クリエ、かなり、大jobじゃねえな!
 いまんところの感触だけど!



 ブログの枠外にいろんな広告が貼りついてくる、という話から、朝日クリエという版元に話が飛び、そのHPを開いたら、クンちゃんにとって大変懐かしき稲垣足穂『一千一秒物語』にイラストを付けた新刊が紹介されていた(前回①)。

     

 本題に入る前に少々横道にそれるが、なぜ懐かしいのか。
 今を去る40年以上も前、クンちゃんの高校生時代の話だが、八王子の楽器店にクンちゃんに極めて似ている若い店員の方がおられるという評判が八王子方面から横浜線で通学してくる生徒たちの間に広まり、その方をわざわざ見に行ってはクンちゃんに報告してくる者がひきもきらないという出来事があった。
 そんな折、どういうつもりなのか当時は思い至らなかったが、「クンちゃん、クンちゃん!こういうお話があるんよ」と言って、某女子生徒が手書きのメモを持ってきた。
 それが、稲垣足穂『一千一秒物語』のなかの「自分によく似た人」というお話であった。
 当時、そのお話の出典など知らず、イナガキタルホの名前も知らなかったが、それから数年たって、新潮文庫版『一千一秒物語』の中にこの作品を見出して、大変懐かしかった(何が?)。
 
【自分によく似た人】(新潮文庫『一千一秒物語』より)
 星と三日月が糸でぶら下っている晩  ポプラが両側にならんでいる細い道を行くと その突きあたりに  自分によく似た人が住んでいるという真四角な家があった
 近づくと自分の家とそっくりなので どうもおかしいと思いながら戸口をあけて かまわずに二階へ登ってゆくと 椅子にもたれて 背をこちらに向けて本をよんでいる人があった
「ボンソアール!」と大きな声で云うと向うはおどろいて立ち上ってこちらを見た その人とは自分自身であった 

 というようなお話で、今回も懐かしさが先に立ったが、それと同時にこの作品がどんな扱いになっているのか、とても気になって、朝日クリエ版を取り寄せることにした。
 
 実はクンちゃんの文芸社在職時にも、著名な書き手の作品に、自分の絵・イラスト・写真を挿入した本を出したいというオーダーが何回もあって、ほとんどの場合、断念してもらった記憶があるからだった。そういう本をつくること自体はとてもたやすいこと(文章には手を入れられないのだから)なのだが、それに反比例する困難な問題を含んでいるのが常だったからでもある。

 まず、第一の要因としては、無名の書き手の中には、他人の著作権、著作者人格権等についてまったく顧慮しない、「そんなものがあるんかいね」というような方が少なからずいる、ということだ。翻訳ものだって、著者、著作権者など度外視で、息せききって日本語翻訳作品を持ち込んでくる方さえいるのである。
 ところが、「この作品に心酔している。是非、私の絵を付けたい」といった熱意に押されて、うっかり本体の権利が生きている作品について契約してしまうと、版元のほうで二次的使用について許諾の交渉をするはめに陥ることになりかねないのだ。
 正直のところ、たいていはこちらが自信をもって先方にお願いには行けない水準の絵(イラスト・写真)であったりするので、こういう事態はなんとしても避けねばならない。で、直接断るのではなく、著者=絵の描き手自身で、本体作品の権利者に交渉してみたらいかがでしょうか、と逃げたりもした。その結果、めでたく不調に終わる場合がほとんどであった。

 第二に、既に著作権が消滅している作品であっても、そうそう簡単に勝手に使うことは出来ない。
 法律は一般に人の心の襞に迫るものを持っていないが、わが著作権法第60条は珍しく、「その著作物の著作者が存しなくなった後においても、著作者が存しているとしたならばその著作者人格権の侵害となるべき行為をしてはならない」と、500万円以下の罰金付きで規定しているのだ。
 したがって、著作者は既に亡くなり、相続や譲渡による著作権者だけとなった場合、また各権利者がいずれも存在しなくなってフリーユースのように見える作品でも、その作品の著作者人格権(公表、氏名表示、同一性保持にかかる権利)は、通常、エディターを含むクリエーターの常識の線で守られることになる。

 このように、作品をつくった人の意思というのは、著者の生死にかかわらず、最大限尊重されねばならない。そこがこうした他人の作品を土台にする著作物(二次的著作物)をつくる際の難しさである。特に、もはや異議を唱えようにも口がきけなくなっている著者の思いは、十二分に忖度される必要があるだろう。うがちすぎでもいいと思う。

 そこで、この度、アマゾンから届いた朝日クリエ版『一千一秒物語』を手にした訳だが、まず第一印象としては、無難な仕上げになっているという感想だった。奥付には、本体の著作権者・稲垣都さんも共同著作権者として表示されており、著者=イラストの楠千恵子さん http://www.geocities.jp/picturebooks_by_chieko/ が都さんに使用許諾を求めた経緯もあとがきに記されていた。


 ところが、ページをくっていくと、思わぬつまらん箇所が目に付いてしまった。

『一千一秒物語』というのは70篇(1957年改訂。オリジナルは200篇、1923年改訂で68篇)のお話から成っているが、朝クリ版では、ページのスペースの関係で文章がぶっちぎりになっているところに出くわしたのだ。
 えっ!
と思って、ぺらぺらとさらにめくっていくともう1か所、同じようになっている。(「A PUZZL」26頁、「はたして月へ行けたか」70頁)。
 こんなんは、主客転倒もいいところで、イラストのほうをやや縮小するか修正すれば事足れりだったはずである。
 足穂先生が生きていれば、「これじゃ、いかにもまずいわな。絵のほうをなんとかしておくれ」とおっしゃったに違いない。著作権者の都さんだって、ゲラを見せられれば気が付いたと思うんだけどね。

 このような経緯で、どうもこの版元、あんまり大丈夫じゃないんじゃないか、と思い始めたクンちゃんは、別に暇を持て余しているわけでもないが、いっぺん試しに新潮文庫版と対照してみようという、余計な世話焼きをする気になってしもうたのである。

 その結果や如何に…。

 新潮にないルビをふったもの、新潮にあるルビをとったもの、新潮にある句読点スペースを行頭では埋めたもの、新潮とは別の送り仮名表記にしたものt(酔→酔い外)、名詞について別の漢字を採用したもの(権幕→剣幕外)、などなど気が付いたところをチェックしていくと、ご覧のようにたくさんの付箋が立ってしまった。

   

 新潮文庫版は昭和44年12月の初版であるから、昭和52年に亡くなった足穂先生はこの文庫ゲラに目を通したはずだ。ということであれば、著者の了解があるこの文庫版に沿った表記で復刻するのが通常の常識である。
 そうなっていないのは、おおむね版元の責任ということになるだろう。
 なんらかの自己基準によって手を加えてしまったのではないだろうか。自費出版だろうとなんだろうと世の中に出れば同じである。これが、同社の看板どおりの本づくりなのだろうか。

 (なお、http://www.transview.co.jp/pr/03.htm に、林海象氏が稲垣都さんと『弥勒』の映像化について話をした「弥勒のミリョク」と題する文章があるのでご参照ください。また、朝日クリエ版には、遺憾ながらいずれの刊本を底本として編集したのかについて記載がないのですが、足穂先生が目を通したと思われる新潮文庫以外の底本に忠実に復刻したということが明らかになれば、本稿は撤回しておわびする用意があります。)




 
 つけたりで、クンちゃんの好きな他の作品をふたつ引用してみました。


 どうして酔よりさめたか?(朝日クリエ版では、「どうして酔いよりさめたか?」となっている。)
 ある晩 唄をうたいながら歩いていると 井戸へ落ちた
 HELP! HELP!と叫ぶと たれかが綱を下ろしてくれた 自分は片手にぶら下げていた飲みさしのブランディびんの口から匍(は)い出してきた 

 土星が三つ出来た話 
 街かどのバーへ土星が飲みにくるというので しらべてみたら只の人間であった その人間がどうして土星になったかというと 話に輪をかける癖があるからだと そんなことに輪をかけて 土星がくるなんて云った男のほうが土星だと云ったら そんなつまらない話に輪をかけて しゃれたつもりの君こそ土星だと云われた

                                                                             (この項おわり)





   栗田工業と文芸社によって葬り去られた野崎貞雄著『大恩・忘恩・報恩』の“遺影”  カバー写真は故栗田春生氏

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4 コメント

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フクちゃん (オリジナルテキストは変えちゃダメ)
2011-11-06 20:42:15
さすが編集畑の長いクンちゃん、著作権について少し賢くなりました。著作権法第60条って知らなかったです。

確かに、今回のクリエの作品では、オリジナルテキストについてのかかわり方がちょっと(かなり?)いい加減という印象です。一部を引いてくる引用文でも、句点、句読点、ルビなどを勝手に変えてはいけないし、歴史的仮名遣いを変更する場合にもことわり書きをいれなくてはいけませんよね。

新聞社系の出版社では、独特の基準のようなものがあって、漢字のひらき方なども、たとえば岩波や河出書房新社などとは、異なっていることもあるようですが、今回のような場合は、オリジナルテキストを厳正にあつかわなくてはいけないと思うなあ。少なくとも底本の明記は基本中の基本のはず。

ところで私にとってタルホ先生は、『少年愛の美学』の人です。そーいう趣味はないんだけど、高校生のころの読書って、今でも鮮明に記憶していますね。やはり若いノーミソは吸収率がいいんでしょう。
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クンちゃん (“少年愛”のほうは、目録外なんや)
2011-11-06 21:54:20
フクちゃん (オリジナルテキストは変えちゃダメ)
2011-11-06 20:42:15

 他に根拠となる底本があるのかどうかが問題やね。ないとなると、著作権者からクレームが出るかどうかは別として、改訂版をすぐ出すか、いまのを絶版にしてすっとぼけるしかなかんべな!

 タルホ先生の作品は、クンちゃんははじめのほうの「チョコレット」とか、この「一千一秒物語」程度でとどまっていて、その後のむずかしいやつはまったく読解不能で、近づかないんですよ!クンちゃんより
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フクちゃん (編集者もいろいろ)
2011-11-11 14:27:12
先日、出版社から初校が戻ってきたのですが、もうビックリ。詳しくは書けないけれど、「これは編集力以前の問題として、ありえんやろ」ということになっています。

きちんとした出版社なのに、こういうこともあるんか。ちなみに編集者からは「とんでもないことをしてしまって申し訳ない」という崖っぷち謝罪メールが何度も入りました。かなり絞られたみたいです。若い人なので、これから頑張ってください。ちゃんと読んでくれているので、熱が入りすぎて暴走したんでしょう。

ともあれ、編集者と一口に言ってもいろいろ。自費出版会社には「ベテランの編集者が責任をもって原稿をブラッシュアップします」と宣伝しているところもあるけれど、「これが初めての出版経験」という大多数のアマチュア著者の場合、編集者の力量を他と比べることなどできません。

そういう意味からも、自費出版会社は「編集力」を強調するべきじゃないと思いました。せめて「お客様が作りたい本を作り、場合によってはISBNとJANコードを取得して販売への道もつけておきます」くらいにしておくのがいいんじゃないかなあと、思いますです
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クンちゃん (なかなか一筋縄では、)
2011-11-11 16:01:31
フクちゃん (編集者もいろいろ)
2011-11-11 14:27:12

 若い“編集者”のなかで多くみられるのは、ご指摘の例とは別かもしれんが、知ったかぶりをそのまま押し通してしまうヒト。編集者ってのは、別に資格があるわけじゃないから、編集とはかなり無縁な実像という方も多いですよ。
 やはり、或る集団の中で「育てられる」という体験が必要なのでしょうが、そういう職場実態が極端に減っています。ということは、うろおぼえや半可通が叩かれないままに育っちゃうってことなんで、こうなるともう手に負えません、年にひとつずつ年取りますからね。いつのまにかベテラン編集者、っていうお方も結構多いんじゃないでしょうか。

 自費出版の編集についてですが、これはなかなかひとくくりに言えません。やはり、編集力がなくては対応できないのだけど、それを前面に押し出すことができない場合もあるし、逆もある。
 優秀な編集力を奥に秘めつつ、必要な時だけ取り出してくる、という望ましい編集者像があらわれてきそうです。ところが、そういう人は、この業界に愛想づかししていなくなっちゃう場合が多いんですよ…。クンちゃんより
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