黒い冷凍庫(冷凍品=文芸社、栗田工業、幻冬舎R等、クンちゃんブログ自費出版関連記事!クリタ創業者野崎貞雄氏発禁本全文)

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本屋に並ぶ「私家版」、その光と影  (其の伍・光)

2011年04月19日 00時02分40秒 | 文芸社出版の光と影

                                                                         

前回まで4回に分けて、費用を著者が負担し、かつ刊行された書籍がまがいなりにも書店に並ぶ、「ニュー自費出版」とでもいうべきタイプの出版について、文芸社という版元の現場にいた人間の立場からリポートしてきた。このブログにお立ち寄りいただいた皆さんは、リポーターのクンちゃんというやつは、ニュータイプ出版に否定的な考えの持ち主なんだなあという印象を持たれたかもしれない。

いや、いや、実はその反対、ノンフィクションジャンルでは、このタイプの出版の意義、社会的役割というものがかなりの重要度をもって明確に存在するというのが、クンちゃんの感想なのである。(ただ、小説などフィクション部門では、おそらく投下資本(出版費用)に見合う成果は得られぬと考えるのが正解であろう。)

そこで、「本屋に並ぶ私家版、その光と影」の最終稿である今回は、ニュー自費出版のとみられる部分に光をあてる。テカテカやねえ!

言うなれば、“千人千色”の無名の書き手による原稿が、毎日毎日、さまざまな出版社に送りつけられたり、持ち込まれている。そして、その大部分が日の目を見ずに返却されたり、廃棄される場合もある。これが偽りのない現実である。無名の書き手の出番というものはほんとうに限られているのが現実なのである。

しかし、さまざまな事情から、「どうしてもこれだけは世間の人に知ってもらいたい」「汚名を着せられたまま死ぬわけにはいかない」「こんな問題がこのまま放置されていいはずがないじゃないか」というような、よんどころのない事情を抱えた人びとがいつの時代にも存在するのは確かだ。世間様になんとか訴えたいが、その手段がない。新聞も雑誌も放送も、おいそれとは相手にしてくれない。ごまんとある出版社だって、採算に合うかどうかが最大の眼目。簡単には相手にしてくれない。
こんなことは、別に珍しいことではない。

クンちゃんはどちらかというと大雑把なヨークシャーなので、あんまりごたごたした話はしたくはないのだが、わがヨーキー憲法第21条第1項はかく言う。

 「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と。

しかし、発表の場がなくっちゃ、言論の自由も、表現の自由も絵に描いた餅。いくら保障してくれるったって、あんまりありがたくないわな。街頭で、ひとりで演説し、ビラをまいたって、誰も相手にしてくれないのが実情。マスコミに対する反論の機会を保障すべき等とする「アクセス権」というものが主張されてはいるが、これも今のところ実効性はない。

したがって、どこにも発表の場がない主張、著作というものが見えない形で積み重なっていくわけだが、その中には「こんな有罪、おかしいじゃん」とか「どうも悪いとされているほうが正しいんじゃないか」、あるいは「こんな主張はきちんと世に出るべき、世に出すべき」というものが確実に存在している。
 クンちゃんは、そうした著作はなんとかして、出版したいと考えてやってきた。いわば表現の自由を高らかに宣言するヨーキー憲法を補完するものとして、ニュー自費出版があるのだ!とさえ、心の中では思っているのであります。まあ、お金がかかるのが玉に瑕っていうことになるがな…。


このようなわけで、紹介すべき例は山ほどあるが、その中からクンちゃんが携わったものを少しばかりレビューに供したい。



『国策捜査』(貴志隼人著)  著者は、さまざまなモノを粉体に加工する機械を製作・販売する大きな会社の創業者・社長。順調に事業を進めてきたが、突然、イランに輸出した製品が、原爆製造に使われる恐れがあるとの難癖的な容疑をかけられる。大々的な捜索、自身も長期の勾留を余儀なくされ、会社もピンチに見舞われる。しかも、裁判は有罪の決着となる。取引先・取引銀行の信用は地に堕ちてしまった。だが、このままでは、すまされん。裁判の結果は、あくまでも“司法的真実”であって、本当の真実は別にある。そうした執念で書いた原稿だが、出してくれる出版社など見つからない。あるはずないのだ。それを引き受けるのが、ニュー自費出版だった。
出版後、しばらくしてこの会社の消息を耳にした。この本を出したおかげで、“司法的真実”を修正することはできなかったが、取引先も銀行も旧倍のつきあいが復活し、困難な状態だった業績も回復、空前の実績をおさめたという。まさにニュー自費出版、いんや、いまからこの手の出版をクンちゃんは“自由出版”と称することにするが、自由出版ならではの快挙ともいえる。


『僕、コレで市長辞めました』(旅田卓宗著)  僕コレ、のコレとは、小指である。彗星のごとくあらわれた和歌山市の旅田・元市長だが、背任、収賄に問われて有罪が確定。現在、加古川刑務所に服役中である。      http://plaza.rakuten.co.jp/papaiku/
旅田さんは、相当に斬新な手法で地方自治を推し進めたが、女にもてるのが禍となり、写真週刊誌に女性問題で袋だたきにされる。さらに、市議会が議決した市施設としての借り上げ賃貸借契約が背任となり、もらってもいない建設会社からの賄賂も受け取ったとして最高裁で有罪が確定した。この本は、まだ大阪高裁の控訴審判決が出る前に刊行されたが、すべてが女性問題の悪印象によってマイナスの判断をされ、もてない世間の男たちのやっかみも手伝って、旅田さんの本を出そうというところはそうそうなかった。この本は、刊行前に慎重に審査するための費用も出してもらって吟味検討を加えた。自由出版の真骨頂のひとつといえよう。


 
『誰がコトを殺したか』(坂本せいいち著)  昭和11年の夏に、青森県五所川原で起きた美人おかみ「コトさん」殺しで犯人とされた人の義理の息子が、このままおやじの汚名を返上しないでは、死ねん!と持ち込んできた。文字どおり、「血と涙でつづった原稿」だったが、思い入れが強すぎる論調で、読み進めることができない。大幅に再取材しないと本にはならない。しかし、完成原稿としての費用しか計上されておらず、取材も再構成するにも一円の費用もなかった。そこをなんとかかんとか工面しつつ、やっとこさ上梓されたのがこの本。昭和11年というと、2・26事件があった年。七十何年も前にもなる。そんな古い事件のうえ、敗戦前の青森空襲で大切な裁判関係資料が焼けてしまっている。圧倒的に困難な状態にもかかわらず、いま日弁連人権擁護委員会はこの本を手掛かりとして、あらためてこの事件を見直そうとしている。自由出版も捨てたもんじゃないぜよ!



『嬉しくて、悲しくて、苦しくて』(柿原幸代著)  著者は小児科専門の看護師。自分がかつて勤めていた大病院で次女を出産する。しかし、出産時の問題で娘は短いが苦しい苦しい闘病の末、その生涯を閉じる。著者と夫は悲嘆のどん底に叩き込まれる。
娘の死の原因はなかなか明らかにならない。専門的知識を持つ著者にして、何が起こったのかを解明することは、あたかも無装備で氷壁に挑戦するようなものだった。実態がわかりにくい医療事故に、当事者(患者の親としての立場)と第三者(医療者の一員たる看護師の立場)の視点から挑んだ力作だったが、刊行後に病院側から起こされるかもしれない名誉毀損等の裁判沙汰に巻き込まれる可能性が多分にあった。訴訟になれば、収支からいえば版元に利益は残らない。大損である。したがって、最悪、訴訟になっても勝てる状態にして刊行しなければ申し訳が立たない。えらく手間暇がかかる。できれば、やめたい。しかし、この本をいま出さないことは版元の恥だ、ということで世に出たのが、この本である。



いくつか実例を挙げてきたが、このように“自由出版”にも大きな存在意義がある、という点においては、おおかたの了承を得られるものと思う。
問題は、このタイプの出版を実際にどのように推進していくか、ということである。著者の思惑と、版元の本音が乖離している現状をどのように改めていくのか、双方が考えを改めてゆく必要を感じる。(この項、おわり)