黒い冷凍庫(冷凍品=文芸社、栗田工業、幻冬舎R等、クンちゃんブログ自費出版関連記事!クリタ創業者野崎貞雄氏発禁本全文)

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本屋に並ぶ「私家版」、その光と影  (其の弐)

2011年04月14日 13時06分55秒 | 文芸社出版の光と影

                

本来なら私家版にとどまっている、あるいは多少語弊があるが、私家版にとどまっているべき著作が、著者側が出版に要する費用を負担する、つまり金銭を支払うことによって書店に堂々と並ぶようになった。それは今ではあたりまえのような感じさえ抱かせる。

おれもニンジンを喰い始めた時には、それはもう家中からびっくりされたもんだが、今じゃ、なんということもないのだ。

まだ書店陳列が目新しい時期には、「自分の本が書店に並ぶ」ということが、驚くような吸引力を発揮した。「書店に並びさえすれば、自分の本が売れる、なんせ内容は抜群だからな」という新たな錯覚を抱いた人は数多い。なにしろ、新風舎、文芸社の2社だけで年間あわせて2500点もの刊行物を世に出していた時期があるのも、その証左であろう。

その中にはビックリするような、これはあまり直截に表現するのが憚られるが、編集者が度肝を抜かれる、というか、腰を抜かすというか、到底本にならないようなものが、本の装いを施され、世に出て行った。版元側が、なんでもかんでも契約してしまおう、契約してしまったからには刊行せざるを得ない、という悪い循環に陥っていたといえそうだ。
その結果、廃棄される「書籍のようなもの」がどれだけの量にのぼったのか、恐ろしくて勘定する気になれない。エコもへちまもあったもんじゃないわな。
それから、今つくづく思うのは、国立国会図書館法の定めによって国会図書館に献本されてくる「書籍のようなもの」の処理に同館はどんなに辟易したことだろう。たぶん、法の定めとて、こっそり廃棄してしまうわけにもいかず……どうしたのだろうか。
 
ところが、碧天舎、新風舎の倒産によって、我も我もと作家熱にうかされていた人びとに、冷水が浴びせられた。
出版費用をすでに支払ったものの、ついに「書籍のようなもの」を手にできなかった人びとは数え切れない。クンちゃんは両社ともに、倒産後の債権者集会に出る機会があったが、発言する著者以外の、むしろ黙っている人びとから発散される、すさまじいまでの憤りと怨嗟の「気」に、レトリックではなく鳥肌がたった。

この段階で、加熱した素人著者による出版ブームは一段落したとみられる。碧天舎、新風舎が消滅したのちに、生き残った文芸社の刊行点数は思ったより伸びなかったし、逆に減少に転じたからだ。したがって、両社倒産前後に刊行した、あるいは刊行しようとした人びとの大部分は、己の愚かさを思い知って、2度と太鼓持ち出版の誘いには乗らない。この手の出版をしたいという需要は確実に減ったといえる。

もちろん、一部の懲りない人びとは存在するし、本を出したいという人びとはどんどん入れ替わっていく。典型的な例としては、戦記ものは10年前は、ジャンル別にみて間違いなく7、8位以内にあったが、現在は稀である。戦記を自分の体験として書く人びとはほぼ亡くなってしまったからだ。だから、何か書いている、書こうとしている人の中には、今でも自分の本が本屋に並べば売れる、売れるんじゃないか、売れなければならない、などと思っている人がいないとはいえないが、費用著者持ち出版の実態を知る人は多数派となってきた。

これらの情勢を総合的に勘案して、費用著者持ち出版を扱う版元は、大きく方針を転換すべきだが、実際には空恐ろしいほどの売れ行きを示した血液型がどうのこうのという素人本(これは、「書籍のようなもの」の典型である)が飛び出すなど、経営者にとっては見果てぬ夢を捨てきれぬ要素が存在することもまた事実である。

さらに、雇用確保の問題もあって業容の縮小になかなか踏み切れず、現状を維持していくとなれば、どうしても出版契約を延々と取り続けていく必要に迫られる。しかし、著者側だってそこはそれ、そうそう簡単に乗ってはこないご時世である。車一台買えるお金がかかるからだ。
そうなれば、行きつくところはただひとつ。簡単には手の届かないノルマが設定される。これは或る意味当然だが、契約を取る部署の担当者はノルマ達成に向けて熾烈な上司からの圧力にさらされることになる。この点は、のちに予告記事の「ノルマ達成には、契約書も偽造してしまうほどのプレッシャー」で述べる。
                                                                            (この項つづく)