礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

誰も「戦中」を覚えていない(能「蝉丸」の上演自粛)

2012-11-14 06:59:56 | 日記

◎誰も「戦中」を覚えていない(能「蝉丸」の上演自粛)

 一昨日のコラムで、ロシア文学者の米川正夫が、一九四一年(昭和一六)に、陸軍大学校を解雇されたと書いた。米川は、「琴三弦」という趣味のために解雇されたわけではない。その思想や言動が問われたのである。解雇の直接のキッカケとなったのは、ショーロホフ『静かなドン』の翻訳について相談するため、米川が単身、内務省検閲課に赴いた一件であった。しかし、これは、あくまでも解雇のヒキガネにすぎなかった。
 その前年の一九四〇年(昭和一五)に、米川が書いた「蝉丸」という文章が、陸軍の事前検閲に引っ掛かるということがあった。むしろ、この文章のほうが重大で、米川は、この文章を書き、それを発表しようとしたことによって解雇されたと捉えるべきであろう。
 米川が書いた「蝉丸」というのは、どういう文章だったのか。簡単に言えば、一九三四年(昭和九)以来、能の演目「蝉丸」が、「自粛」によって、事実上、上演できなくなっていることに対して、異議を申し立てた文章であった。
 では、この米川の文章が、なぜそれほど重大視されたのか。それを理解するためには、まず、能「蝉丸」の上演自粛問題について、知っておく必要がある。なお、文献によっては、「蝉丸」は、戦中、当局から上演が禁止されたと述べているものがあるが、これは正確でない。あくまでも「自粛」であった点に注意したい。
 以下は、中村雅之氏の「戦時体制下における天皇制の変容―『蝉丸・大原御幸事件』と謡本改訂」(『能と狂言』第二号、二〇〇四)という論文からの引用である。ちなみに、この論文は、私の知る限り、この問題に関して、最も詳細にして最も信頼しうる文献である。

 能の演目は、歌舞伎などの演劇と違い、取り締りの対象となることはなかった。初めて干渉を受けたのが、「蝉丸」上演自粛事件、「大原御幸」〈オオハラゴコウ〉上演禁止事件から昭和一五年の謡本〈ウタイボン〉改訂までの出来事である。
 昭和九(一九三四)年には、まず皇子が登場する「蝉丸」が右翼団体などによって糾弾された「蝉丸」上演自粛事件が起きる。さらに昭和一四(一九三九)年になると後白河上皇が登場する「大原御幸」が警視庁によって問題視された「大原御幸」上演禁止事件が続く。「大原御幸」上演禁止事件を直接的な契機として同年の秋から宝生流〈ホウショウリュウ〉を中心にシテ方五流が合同で改訂に向けた謡本の見直し作業に入り、翌年には二次にわたり皇室の尊厳に触れるとされた部分に配慮した改訂が発表された。この中には詞章の改訂に止まらず事実上の廃曲なども含まれている。
 
 中村氏は、この数ページあとに、「蝉丸上演自粛事件」の経緯を説明している。こちらも引用させていただこう。

 それまで能の演目が政治問題化することはなかった。初めて問題となったのが「蝉丸」上演自粛事件である。昭和九(一九三四)年二月八日付の『東京日日新聞』に「不穏当な字句ゆゑ謡曲『蝉丸』を廃曲か 内務省でも一思案し近く各家元とも正式に交渉」との見出しで、以下のような記事が掲載されている。
「謡曲『蝉丸』の一曲は内容が史実に反し、しかも皇室の尊厳を害ふ〈ソコナウ〉が如き字句で充満してゐるから、これをこのまゝに放任するは国民として座視するに忍びないといふので、日本精神協会(会長菊池武夫男〔爵〕)理事森清人氏は七日午後内務省に中里〔喜一〕図書課長を訪問、『蝉丸』を廃曲にしてもらひたいと陳情した。中里課長は直ちに省内で相談したが、同曲の内容が如何に〈イカニ〉不穏当だとしても、永年古典として続いてきた以上、今更廃曲処分にするのも心なきやり方であるまいか、といつて明らかに不穏当を指摘し得るからにはこのまゝ黙過もできぬので警務課とも相談の上、何等かの処分に出ることゝなった。当局の肚〈ハラ〉としては各家元と交渉して『蝉丸』の上演を永久に禁止したい意向で調査を進める模様である。」
 これによれば、日本精神協会という団体からの「蝉丸」廃曲の申し入れが発端であり、これを受けて内務省が検討を始めたというのが事態の始まりであった。
 日本精神協会は、昭和一〇(一九三五)年に国体明徴問題として、美濃部達吉博士の天皇機関説攻撃の急先鋒となる貴族院議員の菊池武夫を会長に、その理論的ブレーンで「科学的日本主義」を標榜する右翼思想家の森清人〈モリ・キヨンド〉らによって昭和八(一九三三)年に設立された団体である。
 森清人は、日本精神協会の設立目的について「当時マルクス主義の熱が盛んでありまして、どうしても日本精神を発揮させることが一番急務であるといふ考えから日本精神協会を組織して菊池男爵を中心として日本精神の研究、開明に努力して来たのであります」と述べている。

 中村氏によれば、内務省は、各家元に上演自粛を求めることで、「事態の沈静化」を図ろうとしていたという。おそらく、その通りであろう。
 内務省は、右派の主張に過敏に反応し、「『蝉丸』の上演を永久に禁止」する方向で、検討を開始する。といっても、「何等かの処分に出る」、すなわち明確な禁止措置を採るというのではなく、「各家元と交渉」することで、自粛を求めようとしたのであろう。実は、こうした新聞報道そのものが、内務省から各家元に対する「廃曲の申し入れ」であった、と見ることもできるだろう。
 こうした中、北海道小樽市で、ひとつの事件が発生する。同年(一九三四)七月のことである。
 北海道巡演中だった宝生流の一行は、七月二八日、小樽市の豪商・岡崎謙〈オカザキ・ケン〉別邸の能楽堂(現・小樽市能楽堂)で、「蝉丸」を演ずることになっていた。ということは、この時期まだ、内務省による「自粛」の要請が徹底していなかったことになる。
 小樽公演のシテ(蝉丸の宮)は、後に人間国宝になる近藤乾三〈コンドウ・ケンゾウ〉であった。近藤の回想によれば、「曲の内容が不敬にわたるというので、右傾団が警察に持ち込んだのを、なんとか説得して当日は刑事の監視つきで上演した」のだという(インターネット情報)。
 しかし、この上演以来、戦後の一九四七年(昭和二二)まで、「蝉丸」の上演は、一度もおこなわれなかった。この間、「蝉丸」は、事実上の「廃曲」になっていたのである。
 米川正夫の「蝉丸」という文章は、この「蝉丸」上演自粛問題などについて論じたもので、一般誌に掲載される予定になっていた。陸軍は、部内における事前検閲で、この文章の公表を許さなかった。そして、この一件につぐ内務省相談の一件(ショーロホフ『静かなドン』の翻訳)で、陸軍は、米川の「免官」を決意した。
 陸軍は、部内の事前検閲で、「蝉丸」という文章が表に出るのを防ぐことができた。米川が、この文章を書いたという事実そのものも、伏せることができた。ところが、内務省相談事件で陸軍は硬化した。なぜか。今後、米川が「蝉丸」と同様の文章を内務省に持参し、相談しないとも限らない。あるいは、陸軍が不許可とした「蝉丸」そのものを持ち込み、内務省に「再考」を求めるかもしれない。――おそらく陸軍は、そのような事態を警戒したのではないだろうか。
 つまり、それだけ、能「蝉丸」自粛問題は、重大で深刻な問題だったのである。陸軍としては、何としても、また一刻も早く、米川を「免官」にする必要があった。【この話、続く】

◎各家元と交渉して『蝉丸』の上演を永久に禁止したい

 日本精神協会理事・森清人による「蝉丸」廃曲の陳情に対し、1934年(昭和9)2月に内務省が示した意向。上記コラム参照。

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