礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

再読『吉本隆明という「共同幻想」』

2013-07-23 09:12:57 | 日記

◎再読『吉本隆明という「共同幻想」』

 呉智英〈クレ・トモフサ〉氏の『吉本隆明という「共同幻想」』(筑摩書房、二〇一二年一二月)は、刊行されて間もなく購入し、読んでみた。非常に読みやすく、わかりやすい本だと思った(この本に対する読後感想は、本年一月三一日のコラムに記しておいた)。
 この本は、「吉本隆明って、そんなに偉いんですか?」という素朴な疑問を抱いている非・吉本信者に対し、「それほど偉いわけではない」ということを説こうとした本である。また、吉本隆明の文章が、およそ日本語とは言えないような意味不明なものであり、これを理解しようとするならば、一度、「日本語」に翻訳する必要があるということを示した本である。
 そうした試みについて言えば、この本は、成功した本だと言える。私も、非・吉本信者のひとりとして、興味深く読んだし、得る〈ウル〉ところも多かった。特に、吉本の思想は、外国に発信されたことがない。それは、吉本の文章が「日本語」になっていないからだという指摘に対しては、深く頷いた。
 本年一月三一日のコラムで私は、呉氏が、吉本の思想について指摘していることは、日本民俗学の泰斗・柳田國男についても指摘できるのではないかと述べた。すなわち、柳田國男の思想は、外国に発信されたことがない。それは、柳田の文章が「日本語」になっていないからだ、と。
 さて、呉氏の『吉本隆明という「共同幻想」』は、読み終えて、「面白かった」とは思ったが、おそらく、もう二度と、読むことはないだろうと思った。しかし、先日、約半年ぶりに、この本を読みなおしてみた。用事があって名古屋まで出かけたおり、往復の新幹線の車中で読んでみたのである。そこで、いくつか気づいたことがあった。
 この本は、非・吉本信者に対し、「それほど偉いわけではない」ということを説いた本ではある。しかし、吉本思想の核心を衝こうとした本ではない。すなわち、吉本信者に向けて、吉本思想を内在的に批判しようとした本ではない。
 もちろん、この本は、吉本思想を内在的に批判することなど、目指していない。「吉本隆明って、そんなに偉いんですか?」、「吉本隆明って、どこが偉いんですか?」と感じている非・吉本信者の読者を対象とした本である。「残照の中の吉本隆明」、「迷走する大衆神学の司祭」といった言葉で、吉本隆明という「大思想家」を揶揄しようとした本である。そもそも、評論家・呉智英氏のこれまでの執筆傾向からして、吉本信者に向けて、吉本思想を内在的に批判するというような執筆スタイルを選ぶはずがないのである。
 にもかかわらず、この本では、吉本思想の全体像が、実にわかりやすく提示されている。随所で、吉本思想の核心に「触れている」。再読してみて、これらのことに気づいたのである。【この話、続く】

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