◎吉本隆明「関係の絶対性」と『歎異抄』
昨日の続きである。『吉本隆明という「共同幻想」』(筑摩書房、二〇一二年)の第一章「評論という行為」の「1」で、呉智英氏は、吉本隆明の評論「マチウ書試論」(執筆、一九五四~一九五五)の文体と主題について論じている。
呉氏によれば、この難解な評論で、吉本が言いたかった主題は、最後の三ページになってようやくあらわれるという。呉氏は、その中でも「要」となる文章を五つ紹介している。とりあえずここでは、最初のひとつだけ再引用しておこう。
マチウ書が提出していることから、強いて現代的な意味を抽き出してみると、加担というものは、人間の意志にかかわりなく、人間と人間との関係がそれを強いるものであるということだ。人間の意志はなるほど、選択する自由をもっている。選択のなかに、自由の意思がよみがえるのを感ずることができる。だが、この自由な選択にかけられた人間の意志も、人間と人間との関係が強いる絶対性の前では、相対的なものにすぎない。
この文章が、「マチウ書試論」の主題を示すものであることは、間違いない。その意味で、ここでの呉氏の指摘は鋭いものがある。これから「マチウ書試論」を読もうという読者にとって、この指摘は、有力な道しるべとなるはずである。
しかし、そのあとに付されたコメントには、感心できなかった。
しかし、別に目の覚めるように斬新なことを言っているとは思えない。
悪政への加担者だろうと反抗者だろうと、詳しく検討すれば、それぞれに事情はあるだろう。何かの欲に駆られて加担することも反抗することもあるだろうし、錯誤や一時の激情から加担することも反抗することもあるだろう。侵略軍の凶暴な兵土が実は愛妻家で子煩悩だったり、レジスタンスの英雄が実は吝薔〈リンショク〉な小心者だったりすることもある。たまたま敵が弱かったから勇者になった者もあるだろうし、射た矢が偶然通りかかった敵将を貫くという殊勲もあるだろう。そんな例は歴史上珍しいことではない。
そうであれば、確かに、倫理や自由意志よりも、人間関係、社会関係全体が、人間の行動を決めていると言える。
しかし、それは「関係の絶対性」というほどのことだろうか。関係要因は重要であるというだけのことであり、そんなことはまともな歴史学者、社会学者、心理学者は、誰でも言っている。だが、これを「関係の絶対性」という奇妙な造語にまとめたことで「マチウ書試論」は一九六〇年代の学生たちを魅了するようになった。まさしく、一九六〇年代という時代関係の絶対性であり、学生集団という社会関係の絶対性であった。むろん、私はこれを絶対だとは思わない。時代関係、社会関係は、重要であるとは思うが、絶対というほど絶対であるはずはないからである。〈三二ページ〉
この呉氏のコメントについて、いくつかコメントしてみたい。
一 「関係の絶対性」という言葉を思いついた際、吉本は、「戦争協力」や「戦争責任」という問題を考えていた可能性がある。つまり、ここで吉本が問題にしたかった「加担」とは、「戦争への加担」だったのではないか。呉氏のコメントを読むと、そうした可能性を想定しているようには思えない。
二 「自由な選択にかけられた人間の意志」が、それを上回る「何か」によって制約されるという発想を、吉本は、親鸞の『歎異抄』から得たのではないだろうか。その「何か」とは、「マチウ書試論」の場合は「関係の絶対性」であり、『歎異抄』の場合は「宿業」〈シュクゴウ〉ということになるが、発想はよく似ている。いずれも「罪」の意識から逃れるために考え出された論理であり、その点においても共通するところがある。
三 呉氏は、「時代関係、社会関係は、重要であるとは思うが、絶対というほど絶対であるはずはないからである」という形で、吉本の「関係の絶対性」概念を否定する。しかし、それを言うなら、もう少しここで、説得力のある論理を展開してほしかったように思う。【この話、さらに続く】
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます