◎天地真理は「アドリブの時代」に取り残された(塩崎雪生)
塩崎雪生氏の『氷の福音――《天地真理をめぐりたる象徴学的研究》』(塩崎研究所、二〇一三年五月)は、三一二ページの大著であって、その全貌を紹介することは、容易なことではない。
ここでは、著者が、天地真理さんという歌手を、どのように捉えていたかを紹介しておくことにしよう。『氷の福音』の四七ページに、次のようにある。
天地真理は当意即妙で芸達者な万能の才人などではなかった。どちらかというと台本に忠実な優等生で、1970年代なかばから盛んとなる「アドリブの時代」にはとりのこされてしまったかの感がある。かつては台本通りに演じずに、咄嗟の思いつきでその場をしのいでいるのならば、無能なタレントとみなされたものだが、昭和50年の声を聞くようになる頃からテレビをめぐる様相は急激に変わっていったのだ。1975年以降の天地真理は、ニコニコスマイルの乱発ばかりが奇妙に目立ち、その愛嬌もその場その場で要求される肝腎の芸に的確に活きてきていない。時代は躍動していた。「アドリブ」の時代へと急展開していたのである。大衆をなごませる軽妙なトークがタレントたちに求められていた。それは、天地真理がもっとも苦手とするものだった。もしも機転を利かせた軽みで、つぎつぎと仕事をこなせていたのなら、当然ながら深刻な孤絶に陥ることもなかっただろう。事務所側が所属タレントたちに芸能人同士の交際を禁じていたのは、無論お互いのギャラについて話題にすることを避けさせたかったためだ。そのような決まりごとを言われるままに四角四面に遵守する必要などなかったのだ。不器用だった。真面目すぎるのだ。几帳面にあたえられた役目をこなそうと努力すればするほど、空転するかのように周囲との齟齬がきわだった。以前は人気を独占していたのだという自負もやがて徐々に薄れがちになっていった。
天地真理というタレントの資質についての分析であると同時に、昭和五〇年代の芸能界の動向についての分析でもある。著者の考察のレベルの高さを示している記述でもある。
明日は、話題を変える。
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