礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

禹徳淳の号「ウースー山人」の意味は?

2013-12-14 02:29:14 | 日記

◎禹徳淳の号「ウースー山人」の意味は?

 昨日のコラムで、東雲新報社編『最後の伊藤公』(東雲社、一九一一)から、安重根の同志である禹徳淳が、暗殺の二日前にハングルで作った歌を、引用紹介した。
 同書において、その歌は、「いざ勇敢の心持て、国民たる義務を蓋し見、」というふうに、いかにも途切れたような形で終わっていた。
 たぶんこれは、誤植ではない。『最後の伊藤公』の編者は、この本を編集・執筆するにあたって、満洲日日新聞社発行の『安重根事件公判速記録』(一九一〇年三月初版)を参照している。『速記録』においても、この歌は、途切れた形で紹介されている。つまり、『最後の伊藤公』の編者は、『速記録』の途切れた形を、そのまま踏襲しているのである。本日は、このあたりの問題点について述べてみたい。
 話が少しまわりくどくなるが、安重根公判記録のうち、一八〇九年(明治四二)一一月一六日付の「禹連俊第二回尋問調書」の内容を、最初から追ってみる。
 同尋問調書の冒頭には、禹徳淳と溝淵孝雄検察官との間でかわされた、次のようなヤリトリが記録されている。なお、この尋問においては、当初、禹徳淳は「禹連俊」を名乗り、自分が禹徳淳であることを否定していた(それゆえに、「禹連俊第二回尋問調書」と題されている)。

問 其方〈そのほう〉大丈夫カ又俗ニ云フ腰抜ケ男カ先ツ夫レ〈それ〉ヲ聞イテ置ク
答 私ハ日稼人〈ひかせぎにん〉デアリマス
問 其方ノ名前ハ禹徳淳ト云フナラム如何〈いかん〉
答 私ハ禹徳淳トハ申シマセヌ
問 此物品ハ其方ノ所有カ
此時四十二年領特第一号ノ十八ノ時計其他括リタルモノヲ示ス
答 私ノ所有デアリマス
問 此ノ印形〈いんぎょう〉モ其方ノ所有カ
此ノ時右同号ノ印形ヲ示ス
答 私ノ印形デス
問 此ノ印ニ漢陽ト刻シテアルハ如何ナル訳カ
答 私ノ住所ガ京城デアリマスカラ漢陽ト致シマシタ
問 此手紙ハ心当リガアルカ
此時四十二年領特第一号ノ十一ノ書面〔安重根と禹徳淳の連名の手紙〕ヲ示ス
答 私ハ此手紙ハ知リマセヌ印ハ私ノ物デスガ押シタ覚ヘハアリマセヌ
問 然ラバ何人カ其方ノ印ヲ盗ンデ押シタカ
答 夫レハ判リマセヌ印ハ私ノモノト申シマシタ次第デスカラ押シタノナラハ押シタト申シマス
問 禹徳淳トハ誰ノ事カ
答 夫レハ知リマセヌ
問 安応七〔安重根の別名〕ハ禹徳淳トハ其方ノ事即チ禹連俊デアルト申シテ居ルガ如何
答 私ハ安応七ト云フ人ハ知ラヌ人デス
問 安応七ト云フノハ即チ安重根ト云ヒ其方ト察家溝へ一所ニ行キ飲食店ニテ宿泊シ又現ニ当地ヘモ同人ト一所ニ送ラレテ来テ居ルデハナイカ
答 私ハ其様ナ人ト一所ニ印ヲ押シタ事ハアリマセヌ
問 其手紙ヲ読ンデアルカ
答 私ハ手紙中知ツテ居ル字ハ何程リアリマセヌ〔ママ〕
問 其方ハ朝鮮ノ諺文(おんもん)ハ書ケルカ
答 諺文ハ皆知ツテ居リマス
問 此ノ書面ハ判ルカ
此時四十二年領特第一号ノ十二ノ歌ヲ示ス
答 如何ナル意味ノモノカ私ニハ判リ兼ネマス
問 其方ハ禹ス山人ト申シタ事ガアルカ
答 私ハ此様ナ名前ヲ用ヒタ事ハァリマセヌ
問 其諺文ニハ禹徳淳卜書イテアルガ如何
答 禹徳淳トハ書イテアリマスモ私ハ書イタ事ハアリマセヌ
問 然ラバ誰レガ書イタノカ
答 誰ガ書イタカ私ノ関係シタモノデモアリマセヌカラ知リマセヌ

 以上のヤリトリによって、禹徳淳がハングルで書いた詩は、証拠「四十二年領特第一号ノ十二」と呼ばれていたことがわかる。
 それにしても、先に、印鑑のことを確認しておいて、次にその印鑑が捺してある手紙を持ち出す溝淵検察官の手法は巧妙である。
 そのそばらくのち、禹徳淳は、自分の本名を明かしてしまい、また伊藤公爵を殺そうとしていたことも認めてしまう。

問 其方ノ本名ハ禹徳淳ト云フカ
答 左様デス又禹連俊トモ申シマス
問 浦潮〔ウラジオストック〕カラハ安応七ト一所ニ出立シタカ
答 左様デス
問 同人ハ本名ヲ安重根ト云フカ
答 其事ハ知リマセヌ只安応七ト聞イテ居リマシタ
問 如何ナル目的デ安ト共ニ浦潮ヲ出立致シタルヤ
答 伊藤公ガ来ラルヽノデ同人ヲ殺害スル為メ出発シマシタ
問 其殺害スル事ハ何日何処デ何人等ト相談シタカ
答 安応七ガ浦潮ノ私ノ宅へ来テ其話ガアリマシタカラ私ハ承諾シテ一所ニ来マシタ

 さらに尋問が進んだのちに、次のようなヤリトリがある。

問 浦潮デ伊藤サンヲ殺ス相談ヲシタノハ其方ト安ト二人丈ケ〈だけ〉カ
答 左様デス
問 誰レカ夫レハヤレト申シタコトハナカツタカ
答 左様ナコトハアリナセヌ
問 伊藤サンヲ殺ス事ハ誰レカラ云ヒ出シタノカ
答 夫レハ安ガ云ヒ出シマシタ
問 安ハ一人デモ決行スルト申シタカ
答 其事ハ特ニ聞キマセヌモ安ハ一人デモ決行スル様子デアリマシタ
問 公ヲ殺ス事ヲ安ニ教唆シタ者ハナカツタカ
答 其事モ聞キマセヌ
問 安ニハ妻子ガアルカ
答 知リマセヌ
問 安ノ家族ヲ世話スル人ノアル事ヲ聞カヌカ
答 其ノ事ハ聞キマセヌ
問 「ウスサン人」トハ其方ノ号カ
答 歌ヲ書イタ時急グカラ「ウスサン人」ト書キマシタ

 溝淵孝雄検察官は、事件の本質に迫る質問をしているが、禹徳淳の答はアイマイである。おそらく禹は、その質問に答えられるだけの情報を持っていなかったのであろう。
 さて、上記のヤリトリの最後のほうで、「ウスサン人」が出てくる。『最後の伊藤公』の三四ページにある「ウースー山人」のことであろう。朝鮮語には詳しくないが、朝鮮語に、「急ぐ」ということに関係した「ウースー」という言葉があるのではないか、という気がする。
 さらに、このしばらくのちに、次のようなヤリトリが出てくる。

問 安ガ柳東夏ニ手紙ヲ渡シタノヲ見サリシカ
答 夫レモ見マセヌ
問 手紙ヲ出ス様ニ頼ミタリトノ事モ安カラハ聞カサリシカ
答 其様ナ事ハ聞キマセヌ
問 其方ノ書イタ歌ハ何処デ安ニ渡シタカ
答 私ガ金成白ノ宅デ二三行書キ残シタ時人ガ帰ツテ来タノデ急ギ懐中ヘ入レ停車場デ渡シマシタガ安ニ渡シタカ柳ニ渡シタカ忘レマシタ

 禹徳淳はここで、自分が書いた詩は、最後の二三行が未完成のままになっているということを言っている。「ウースー山人」という号は、禹徳淳が日ごろ用いていた号というわけではなく、むしろ、これは急いで作った詩であり、かつ未完成なものであるということを示さんがために、この時にトッサに考えた号だったのではないか、と推理する。
 いずれにせよ、公判で通訳を担当した園木末喜通訳生は、公判に際して、禹徳淳がハングルで書いた詩(証拠「四十二年領特第一号ノ十二」)を日本語に翻訳して紹介した。その内容は、『安重根事件公判速記録』にも載っている(初版九一~九二ページ)。当然、園木通訳生は、禹徳淳の詩が未完成なものであることはわかっていた。だからこそ、「いざ勇敢の心持て、国民たる義務を蓋し見、」というふうに、その詩(歌)を、あえて途切れた形で翻訳したのである。『最後の伊藤公』の編者が、こうした事情をどこまで把握していたかは不明だが、ともかく彼もまた、禹徳淳の詩を、途切れた形で紹介したのであった。
 それにしても、「ウースー山人」の「ウースー」とは、どういう意味なのだろうか。朝鮮語に詳しい方のご教示を待つ。

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