礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

香川照之さんと七代目市川中車

2012-06-07 04:32:36 | 日記

◎香川照之さんと七代目市川中車

 昨日のニュースで、六月五日、俳優の香川照之さんが九代目市川中車を襲名したことを知った。父親である三代目市川猿之助さんは、二代目市川猿翁を襲名、四代目市川猿之助は、一門の市川亀治郎さんが襲名したという。
 本年四月六日の読売新聞記事によると、市川中車の名を継ぐことになった香川照之さんは、七代目市川中車(一八六〇~一九三六)の自伝『中車芸話』を読んだという。
 同記事によれば、香川さんは、「七代目の本を読み、自分が映画の世界で思い至った数々の境地と共通点があることを知った」と語ったという。この言葉は、一見したところ、映画と歌舞伎に共通する「芸の境地」を見出したというふうに解釈できるし、取材した塩崎淳一郎記者も、そのように受けとめたフシがある。しかし私は、別の解釈もありうると思った。
 七代目市川中車は大阪生まれで、父はいわゆる「長脇差」(侠客)だった。母親が芝居好きだったことから、子ども時代から役者となり、以降は、その実力だけで異例の出世をしてきた。門閥が支配する世界の中で、その間の苦労は並大抵でなく、五代目尾上菊五郎と決定的に対立したときには、焼け火箸を持って、菊五郎の顔に当てようとしたこともある(一八八二年ごろの事件。『中車芸話』による)。
 香川照之さんは、歌舞伎の名門に生まれたが、さる事情から、長く歌舞伎の「門閥外」の位置にいた。ということであれば、「自分が映画の世界で思い至った数々の境地」というのは、七代目中車と共通する「門閥外」における境地だったのではないか。なお、これも憶測にすぎないが、今回、中車という名跡が選ばれたのは、七代目中車もまた「門閥外」だったという暗喩なのかもしれない。
 なお、右の『中車芸話』(築地書店、一九四三)は、実に興味深い読み物である。東海道・関の宿で、明治天皇が江戸改め東京に向かう鹵簿を拝んだ回想、地方巡業中に経験した厚遇ないし差別、著名な歌舞伎役者についての人物評、含蓄に富む芸談などが満載されている。七代目の口述を、歌舞伎研究家の川尻清潭が筆録・編集したものだが、達意の名文である。

今日の名言 2012・6・7

◎役者は千秋楽の翌朝が楽しみ
 七代目市川中車の言葉。『中車芸話』に出てくる。前後を含めて引用しておこう。「丁度薮入りの小僧さんが前の晩には寝られないといふのと同じ事に、役者は千秋楽の翌朝が楽しみなもので、平日よりも早くから起きて嬉しがつてゐる所などが、素人衆の想像の及ばない楽しみの一つなのです」。

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