礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『なぜ私たちは、喜んで“資本主義の奴隷”になるのか』について

2013-07-17 08:04:18 | 日記

◎『なぜ私たちは、喜んで“資本主義の奴隷”になるのか』について

 ここ数日間、ラ・ボエシー「自発的隷従を排す」(自発的隷従論)というルネサンス期の論文を紹介してきた。
 この論文に関心を抱いたのは、ごく最近、フレデリック・ロルドン(杉村昌昭訳)の『なぜ私たちは、喜んで“資本主義の奴隷”になるのか―新自由主義社会における欲望と隷属―』(作品社、二〇一二)という本を読んだからである。
 同書は、その冒頭において、ラ・ボエシーについて、言及している。
 同書のタイトル(邦訳の)を見れば見当がつくと思うが、二一世紀に出たロルドンの著作(原著は二〇一〇年刊)と、一六世紀に書かれたラ・ボエシーの論文とは、その基調において、互いに響き合うものがある。
 とりあえず、同書の「はじめに」から、少し引用させていただく。

 ラ・ボエシーは、人々の隷属の習慣が、どれほど隷属の条件そのものを見失わせるかということを喚起している。それは、人々が、隷属することが不幸であることを“忘れる”からではなくて、その不幸を耐える以外に選択肢のない運命として“甘受する”からである。つまり、それが生きていくために一番手っ取り早く不幸に慣れる方法だからだ。成功した隷属とは、隷属する者が自らの心のなかで、隷属のもたらす悲しい感情を、隷属させられているという認識から切り離すことができた隷属である。
 自らが隷属させられているという認識は、それが意識に明瞭に浮上したとき、つねに反逆心を引き起こしうる。資本主義への隷属の“固い核”を打ち破るためには、このラ・ボエシーの警告をつねに念頭に置いて、自分たちが組み込まれている事態の“核”の奥深さを推し量る必要がある。しかし、驚くべきことに、今や人間は皆、こうした隷属の奥深さに無関心になっている。そうであるがゆえに、“経営者”と呼ばれる人々が、自分の欲望のなかに他の多くの人々を巻き込み、その人々を自分のために必死に労働させることができるような事態をつくりだしているのである。

 ロルドンが指摘している「資本主義への隷属」という状況については、日本人のなかにも、気づいている人、指摘している論者がいなかったわけではない。しかし、ロルドンのこの著書に匹敵するような本を書いた日本人は皆無に近かったと思う。正確に言えば皆無ではないと考えるが、しかし、こうした問題を、ラ・ボエシーを引き合いに出して論ずることできた日本人は、これまでいなかったと思う。【この話、続く】

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