礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ラ・ボエシー「自発的隷従を排す」の政治性(危険性)

2013-07-18 03:56:52 | 日記

◎ラ・ボエシー「自発的隷従を排す」の政治性(危険性)

 フレデリック・ロルドン氏は、その著作『なぜ私たちは、喜んで“資本主義の奴隷”になるのか―新自由主義社会における欲望と隷属―』(作品社、二〇一二)の冒頭で、ラ・ボエシーの論文「自発的隷従を排す」を紹介している。そしてそこで、「ラ・ボエシーの警告」という表現を用いていた(昨日のコラム参照)。
 一六世紀になされた警告が、二一世紀の今日において、なお有効なのである。ということであれば、ラ・ボエシーの論文が、それが書かれた一六世紀のフランスの王政に対する鋭い政治批判を意図したものであったことは、ほぼ間違いない。
 この点に関して、世界文学大系74『ルネサンス文学集』(筑摩書房、一九六四)の巻末にある「解説」の執筆者である荒木昭太郎氏は、次のように述べていた(今月一五日のコラムで、すでに引用している)。

 ……へロドトス、プルータルコス、タキトゥスなどの古代作家から得た題材を一般論的に展開して、圧制を否定し、自由を擁護し、圧制に慣れた民衆の無気力を叱責する小論文である。君主の策略を指摘しこれを非難している点などから、マキアヴェルリの所説への反論を動機と考える説もある、しかし、この時代の情勢の中に圧制的要素を見出して発想の起点としたにせよ、彼が具体的な直接的な否定の対象を現実のフランス王たちの中に見たかどうかは疑問である。

 ここで荒木氏は、「彼が具体的な直接的な否定の対象を現実のフランス王たちの中に見たかどうかは疑問である」としているが、この見解に疑問を抱く。やはり、ラ・ボエシーは、「否定の対象を現実のフランス王たちの中に見た」、と解すべきではないだろうか。ただし彼は、そうした批判を、「圧制に慣れた民衆の無気力を叱責する」という形で、「間接的」に示したのである。
 また荒木氏によれば、ラ・ボエシーは、この論文の「刊行を予定していたようであるが、無益な誤解と争論をひき起こすことを警戒したためか、事を控えた」という。この本が刊行された場合、それが権力によって、どのように受け取られるかを、ラ・ボエシーはよく理解していた。すなわち彼は、みずからの論文の政治性(危険性)よく自覚していたのである。
 この点に関して、論文「ラ・ボエシー『自発的隷従論』覚書」(『人文学報 フランス文学』四〇六号、二〇〇八)の筆者・大久保康明氏は、荒木昭太郎氏とは対照的なのであって、ラ・ボエシーの論文の政治的側面に注目している。
 大久保氏の説くところについては次回。【この話、さらに続く】

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