◎尊氏は錦旗を押し立て勢力を得たり(三上参次)
雑誌『日本及日本人』第五百五十四号(一九一一年三月一五日)、「南北正閏論」特集から、「南北正閏問答」を紹介している。本日は、その四回目(最後)で、「第三問」の全文を紹介する。
問う側は、藤澤元造、牧野謙次郎、松平康國、答える側は、三上参次、喜田貞吉。ただし、第二問と同様、前者を△印、後者を〇印としている場合がある。
第 三 問
△ 南北両方〈リョウカタ〉共に対立と見る時は南朝の忠臣に楠〔正成〕新田〔義貞〕あるが如く、北朝にても〔足利〕尊氏其の他彼の一味の者を忠臣とすべきか、
三上〔参次〕 否、尊氏の徒は忠臣とすべからず。尊氏はもと武家政治の再興を欲したるもの。自己の私心を果したるもの、忠臣とすべからず。
△ 北朝も足利の力のみならず、足利以外の人で我々より見れば大義名分を誤れる者なれども、其の人々よりは北朝に忠するを忠と思ひて真実に北朝の為に謀りたる者あらば北朝の忠臣といふべきか。
〇 此の如き人あらば忠臣といはざるべからず。然れども北朝には此の如き人なし。
△ 北朝の光明院の即位する時、神器〈ジンギ〉なきを憂ひられしに、藤原良基卿が尊氏を以て剣となし、臣を以て璽となさは云々、といひし事あり、これを認むるか。
三上、認む。
△、然らば良基卿は北朝の成立に大功ある者。且つ何等尊氏の如き私を営むの心ありしにあらず。これは北朝の忠臣といはざるべからず。
三上、然り忠臣なり。
△、楠諸公は南朝の忠臣なり、而も今日は一統の世より見て 国家の忠臣なり、これと同じく良基も国家より見たる忠臣となすべきか。
〇、然り、国家の忠臣なり。
△、然らば良基の祠〈ホコラ〉を湊川神社の側に幷べ〈ナラベ〉立て、其の銅像を楠公の銅像の上手〈カミテ〉に幷べ立てんとする者あらば、三上氏は第一の賛成者となるか。
三上、(暫く無言)
喜田〔貞吉〕、まあ理窟をいへば然るべし。然れどもそれは杞憂なり。
△、若し好事者〈コウズシャ〉のありたる時は如何。
△、三上君は如何。
三上、何故に楠公の上手に建つるか。
牧野〔謙次郎〕、良基は関白なり楠公は当時廷尉なり位上下あり故に上手に建てざるからず。楠は南朝の忠臣にして武臣なり、良基は北朝の忠臣にして文臣なり、文武の両臣を幷べ建てたらば宮城前更に一大壮観を添ふるにあらずや。
三上、(大に:弱りたる状態)
喜田、(三上に対つて〈ムカッテ〉、理窟をいへばさうではないかといふ)
喜田、理窟は然れども、小学教科書には書いてないから、此の議論は起らぬ。
△、是れは国定教科書也、国定となれば今後の史論も之を標準として定めざるべからず。故に余等之を争ひて此に至りしなり。若し国定にあらざれば我等は関せざる所なり。君等は 国定の字を何と解するか。
(此の答へなし)
藤澤〔元造〕、一体此の様な下らぬ書を作りたれるは誰の責任なるか。喜田君あなたでせうね。
喜田、私もやるにはやつたが、私丈の責任ではない。
藤澤、けしからぬ、〔小松原英太郎〕文部大臣は編輯の責任は喜田博士、学説は三上博士に聞けといひたり。大臣の言を否認するか。(声色共にしはげし)
喜田、書きたることは私が書きたり。然れとも余一人にて書きたるにあらず。三上君其の他の人々も相集りて書きたり。唯犬馬の労は我執りたり。
藤澤、君が犬馬ならば誰れが之に乗りたるか、誰か之に乗りたる人あるべし。
(両博士共に顔色なし)
藤澤、教科書の錦旗の処を指し「これでは尊氏は官軍でせうね」といふ。
三上、然らず、我等の書きたる意味は、「錦旗は実に偉大なる。威光あり。尊氏は賊なれども之を押し立つれば此れ程の勢力を得たり」といふ意にて皇室の尊厳を現さんが為にかくは書きたる也。然れとも文章拙にして其の様に取れるかも知らず。
藤澤、文章は甚だ拙なり。しかく取れるどころにあらす。此の様なる文章を書きて猶博士と称するを得るか。余等をして書かしむれば、更に数倍の名文を書くべし。
以上が、「南北正閏問答」の内容である。三上・喜田博士とも、追及側の詭弁に足をすくわれ、まさに「顔色なし」の感がある。
明日も、『日本及日本人』第五百五十四号から、南北正閏論関係の記事を紹介してみたい。
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