◎美濃部達吉と「八月革命説」
昨日は、美濃部達吉の『日本国憲法原論』(有斐閣、一九四八年四月)から、「新憲法制定」について論じている部分を紹介した。本日は、それを読んで感じたことを述べる。
美濃部は、新憲法草案による憲法改正には反対であった。枢密院における憲法改正案に関する審査委員会においても、また枢密院本会議においても、美濃部は反対の立場を貫いている(このことについては、明日のブログで)。
美濃部の反対論で、ひとつ興味深いのは、日本政府がポツダム宣言を受諾した結果、大日本帝国憲法の第七三条は効力を失っており、同条に依る憲法改正は不可能であると説いていることだった。美濃部が、最初に、この見解を表明した時期がいつだったのかは、まだ確認していないが、一九四六年(昭和二一)年五月一日発行の『世界文化』第一巻第五号に掲載された「憲法改正の基本問題」には、その見解が明確に示されている(今月二日の当ブログ記事「ポツダム宣言受諾で帝国憲法73条は失効(美濃部達吉)」参照)。
美濃部の「旧憲法七三条失効説」は、宮沢俊義の「八月革命説」と似たところがある。宮沢の「八月革命説」が、美濃部の「旧憲法七三条失効説」をヒントにしていた可能性は否定できない。ただし、美濃部の場合、「旧憲法七三条失効説」を根拠にして、憲法改正に「反対」したのに対し、宮沢の場合、「八月革命説」を根拠に、憲法改正を「支持」したのであった。
その後、美濃部達吉は、新憲法の解説本を執筆するという形で、事実上、新憲法を「支持」する立場に回る。その際に、援用したのが宮沢俊義の「八月革命説」であった。
昨日、紹介した美濃部の文章のうち、最後のほうに、次のようにあることに注目したい。
即ちポツダム宣言の受諾は此の点に於いて旧憲法を覆した革命的行為と見るべく、若し憲法所定の手続に依らずして憲法を破壊する行為を「革命」と称するならば、ポツダム宣言の受諾に依り明に革命が遂行せられたものに外ならない。
まさに「八月革命説」である。宮沢俊義の「八月革命説」は、こういう形で「公認」されていったのであろう。
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