礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

芳賀利輔と暴力行為取締法(1926)

2017-10-13 03:39:52 | コラムと名言

◎芳賀利輔と暴力行為取締法(1926)

 芳賀利輔著『暴力団』(飯高書房、一九五六)の「やくざの世界」から、一木喜徳郎襲撃事件のところを紹介している。本日は、その二回目(最後)。
 昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 その晩に殿井元助という男が吉原の君津楼という女郎屋へ上つていたところを逮捕され、それから二、三日たつて高見沢というのが帝国ホテルでつかまつた。それから二十日ぐらいたつて信田四郎というのが、巣鴨のとげ抜き地蔵というのがあつて、そのとげ抜き地蔵の縄張りを持つているテキヤの親分新井幸太郎といふ人のところに逃げているところをつかまつた。しかし私はとうとうつかまらない。二十八日間逃げた。その当時、清浦奎吾という総理大臣だつたが、その人の子経通氏の家に逃げ込んだ。そしていよいよ金もなくなつてしまつて逃げることができない。それから武部申策という私の親分が深川におりましたから、そこへ電話をかけて金もなくなつたから自首しようと思う、と言つたら、それじや麻布の「新喜楽」という待合へ行つていろというので、どうせおやじがくるからと思つて、そこで金もないのに芸者をあげて遊んでいた。それが赤羽隆次という人の縄張りなんですよ。そうすると鳥井坂警察というのが当時麻布の鳥井坂にあつた。私の遊んで居る所が麻布十番ですから、鳥井坂署の管轄なんですよ。それで全国手配をされて居た私を探知した鳥井坂署は私を捕縛に来たわけなんです。ところが昔のことで、料理屋というものは警察とみんな密通している。それがために入ろうとしたところが、芳賀さんはうちのお客様だ、けれども芳賀さんはよつぱらつているところを見ると、ふところに匕口〈アイクチ〉を持つている。だからあなた方が来て、家の中で格闘されたんでは待合がメチヤクチヤになってしまう。あしたからお客が来なくなるから、どうかひとつ芳賀さんが帰るときに知らせるから表で張つていてくれというふうに警察に頼んだ。警察では始終そこでごちそうになつているから、やむを得ず承諾したわけですよ。それで遠まわしに私を取り囲んでいたわけなんですね。そうすると、私は芸者買いをして居て、それを全然知らないから、親分のところへ自首するんだからと電話をかけたわけです、武部申策という人がそれを警視庁に電話した。「ようやく芳賀が東京へ現われたた。今までどこへ行つていたかわからない、新聞で毎日私の行く方〈ユクエ〉を探しているわけなんですがようやく現れたものだからそれつというので、警視庁から自動車七、八台連ねてきたわけです。それを私は全然知らずに一杯飲んでいる。おやじがまさか警視庁へ自首するからと連絡したとは思わない。自首の形式だけとればいいというのでおやじは自動車でやつてくる。おやじがくる前に警視庁が入ろうとした。ところがそれを鳥井坂の刑事は警視庁の刑事とは思わない。鳥井坂の刑事は私が出たらばつかまえようとしていたところが警視庁が来たものだから、よその警察に取られちやいけないというので警察同志で格闘が始まつたというわけです。そうして警視庁からの二十人の刑事と鳥井坂の刑事との戦いだから大変な騒ぎでしたよ。つまり連絡がとれなかつたのでしよう……。その当時の刑事部長は中谷さんだと思いました。おれは本庁の刑事部長だと言つたものだがら、鳥井坂は一応手を引いて、警視庁が家の中へ入つてきた、その当時第一課長か、第二課かはつきりしませんが、知能犯係の土屋米八という警視が私を逮捕したことになつているわけです。それから私は自首の形式をとつて警視庁へ行つたんです。ところがなかなか酒を飲まさせない。私は酒を若いときから飲む、そして洒を飲まないうちはしやベらない。それで土屋という人は利口な人だから私に毎日酒を飲ましては調べるんです。私は今でも警察へ行けば酒を出さないと絶対に答えませんから、その点警視庁ではよく知つているんです。
ききて 異例のことですね。(笑)
芳 賀 飲まないと口を開かない。だから私をアル中だと称しています。(笑)それからまたおもしろいことがありまして、一木喜徳郎先生が全治四週間の傷を受けた。これは大正十三年〔一九二四〕二月の十五日の夜七時に私が斬り込んだ。ところが一木喜徳郎は、宮内大臣になつたのが大正十三年の二月二十一日なんですよ。そこで牧野賤男〈シズオ〉という弁護士があつて、いよいよ検事の懲役六年の求刑があつたんです。殺人未遂傷害罪というのです。ところが法廷を開くと検事が論告をあいたわけなんですが、そうすると、裁判長と言つて弁護士が、どうも殺人未遂傷害罪というのはおかしいという。なぜならば芳賀が斬り込んだのは二月十五日の晩だ。一木喜徳郎氏が陛下に拝謁を仰せつかつたのは二月の二十一日だつた。その間わずか六日しかない。この帝国大学の何とかという医学博士の診断を見ると全治四週間の傷をうけて居る。四週間の傷を負うてるものが、しかも尊い神のごとき陛下に拝謁を仰せつかるのに、不浄な体をもつて拝謁仰せつかるはずがないと言うんです。これは何かのお間違いだろうから取り調べ直してもらいたいとポンと蹴つてしまつた。今と違いましてその当時は天皇というと神のごとく崇拝しておつた、それがために、そういう論理が成り立つわけなんですよ。今はそんなことを言つても成り立たないんですが…………。それで裁判長はそのままずつと一年間取り調べたわけなんです。だから私は一年間余分に未決監に入つておつた。それで出てきまして、芳賀は傷害を加えなかつた。ただ暴行をしただけだ、そして強迫をしただけだ、器物をこわした。それで暴行強迫器物毀棄罪という罪名になつた。これは懲役三年以上はない、その最高の三年の判決をうけたわけです。六年は帳消しになつた。それで私が保釈で出獄しました。とにかく一年以上未決でおりましたから、それと差引して結局務めるところはいくらでもなかつた。それが私の初犯です。
ききて 結局いわゆる政治犯ですね。
芳 賀 政治犯だが暴行罪ですよ。つまり暴力行為取締法違反というのに引つかかった。その当時は、傷害とか、強迫とかいう犯罪はあつたが暴力行為取締法違反という法律はなかつた。それで私が一木さんという人をやつたために、暴力をもつて政治を左右すということは危険だというので。その時の議会で初めてそれが提案されて通過したのです。それがいまの暴力行為取締法違反というのです。今の法律は私が作つたようなものなんですよ。
ききて 歴史的なものですね。

 ここで芳賀利輔の言う「暴力行為取締法」とは、「暴力行為等処罰ニ関スル法律」(大正一五年四月一〇日法律第六〇号)のことであろう。時期からすれば、「今の法律は私が作つたようなものなんですよ」という芳賀の言葉に矛盾はないが、真偽の判断は保留する。

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