礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

日本の社会は情をもって成り立つ(内村鑑三)

2023-07-01 00:03:21 | コラムと名言

◎日本の社会は情をもって成り立つ(内村鑑三)

 山本七平編『内村鑑三文明評論集(一)』(講談社学術文庫、1977)の紹介に戻る。本日は、その五回目で、「信仰維持の困難」という文章を紹介したい。1904年(明治37)に発表された文章である。『聖書之研究』における巻号は、確認していない。

   信仰維持の困難
 日本のごとき非キリスト教国においてキリスト教の信仰を持ち続けるのは容易のことではありません。日本国は文明国ではありまするが、しかしその社会組織は全く東洋的であります。そうして東洋の精神はその多くの点においてはキリスト教をもって築き上げられたる西洋の精神とは正反対でありますから、したがって西洋の精神なるキリスト教の理想をこの日本において行わんとするのは実に難中の難であります。なにも必ずしもわれら日本人にキリスト教の教義を信ずるの信仰がないというのではありません。仏教や神道の中にはキリスト教の教義よりも信ずるにはるかに難い教義があります。ことに神秘的なるわれら東洋人は神秘的教義を信ずる点においてははるかに現実的なる西洋人に勝っていると思います。それゆえにわれら日本人がキリスト教を信ずるの困雜は、けっしてある人たちが言うように、われらの科学的傾向によるのではありません。いな、われら日本人は国民としてけっして科学的ではありません。事実はその正反対でありまして、われらは科学的であるよりはむしろ感情的で詩的であります。そうしてその詩的であることがわれらがキリスト教を信ずるの非常に困難なる主なる原因であると思います。
 われらは理性を貴【たつと】びますが、しかし、生来【うまれつき】、感情の高い人種であります。忠と言い、孝と言い、これは道理であるよりはむしろ情であります。あるいは情が化して道理となったものであります。われらの情はわれらの道理に比べて見ますれば、発達のいまだ至って足らないものであります。ゆえにわれらは情を感ずること至って早くして理を見ること至って遅いものであります。いな、多くの場合においては情に感ずること余りに烈しきよりして、理を見ることが出来ない者であります。われら日本人にとって最も辛【つら】いことは理に反【そむ】くことではなくして情に逆らうことであります。実に日本人の最大多数にとりては情と道理とは一つであります。われらは理の無いところにいることは出来ますが、しかし、情の無いところにはおられません。「不人情者【ふにんじようもの】」、これ日本人にとつては大悪人の代名詞であります。
 日本の社会はその上から下まで情をもって成り立つものであります。その政府も、政党も、会社も、学校も、みな情をもってのみ成り立つものであります。そうしてかかる社会に入って生存せんとすれば、情を作り、これに依るより他に途はありません、日本の社会に理をもって入らんとするは火を点じて水に入らんとすると同様であります。その熄【け】すところとなるにあらざればその弾【はじ】き出すところとなります。ゆえにキリスト教を信じて日本の社会に立たんとするは火を点じて水の中に立たんとするがごとく困難であります。

 夏目漱石の小説『草枕』の冒頭に、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通とおせば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」とある。この小説の発表は、1906年(明治39)9月。内村鑑三が、上記の文章を発表したのは、それよりも二年、早かったことに注意したい。

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