礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

大正初期における庶民の「見合い」

2018-11-13 05:23:21 | コラムと名言

◎大正初期における庶民の「見合い」

 PHP総合研究所編『エピソードで読む松下幸之助』(PHP新書、二〇〇九)を紹介している。本日は、その四回目(最後)。
 同書の「Ⅶ おまえはどっちの店員か――人生断章」に、「あらええで、もろとき」という項がある(二五八~二六〇ページ)。本日は、これを紹介してみよう。

❖あらええで、もろとき
 大正四年〔一九一五〕九月、幸之助は井植【いうえ】むめのと結婚した。幸之助二十歳、むめの十九歳。
 見合いを勧めたのは姉である。
「九条の平岡という炭屋からこんな人がいると勧めてくれたが、おまえどう思うか。聞けば淡路島の人で高等小学校を出て、裁縫学校を卒業後、大阪に来て京町堀のある旧家で女中見習い中の人であるということだが、いっぺん見合いをしてみてはどうかとのことだ。おまえがよければ、先方にそう返事するが……」
 姉には、亡くなった父や母、兄弟姉妹をはじめ先祖のまつりをするためにも、早く弟が家をもつようになってくれれば、という強い気持ちがあった。
 幸之助は、これも縁というものだろうと、深く考えもせず承知した。
 その当時、見合いといえば、良家の子女はともかく、一般的には、道ですれちがうだけといった簡単なものが多かった。二人が会って話をするというようなことは、よほど進んだ考えをもっている人しかいなかった時代である。
 幸之助とむめのの見合いも、松島〔大阪市西区〕の八千代座という芝居小屋の看板の前でするという段取りになった。約束の時間が来てもなかなか先方が現われない。と、突然、付き添いで来ていた姉の夫が叫んだ。
「来た、来た」
 近くの人たちが小声でささやいているのが、幸之助の耳に入った。
「見合いや、見合いや」
 幸之助はあがって、真っ赤になる。気がつくと、もう先方は看板の前に立っている。
「見よ、見よ。幸之助、見よ」
 義兄の声に初めて我に返って見直したが、時すでに遅く、わずかに横顔が見えるだけである。しかも、うつむいているので、なおさら顔が見えない。そうこうするうちに先方は行ってしまった。
「あらええで、もろとき、もろとき」
 この義兄の言葉に、幸之助はそのまま従った。

 有名なエピソードを短くまとめている。しかし、この短い文章の中にも、いろいろと読みとれる情報がある。
 幸之助の姉が、幸之助に結婚をすすめた主たる理由は、「家」を持たせるため、つまり、「亡くなった父や母、兄弟姉妹をはじめ先祖のまつり」をさせるためであったということである。そして、幸之助自身もまた、「深く考えもせず」、姉の意向に従っているということである。
 また、当時の庶民の「見合い」は、「道ですれちがうだけといった簡単なものが多かった」という。そして、見合いの場所に選ばれたのは、西大阪の松島という繁華街である。当然、人通りも多い。義兄が「来た、来た」と叫べば、通行人らは、当然、それと気づく。この文章によれば、幸之助が真っ赤になったのは、近くの人たちが、「見合いや、見合いや」と「小声でささやいた」ためだというが、幸之助は、義兄が「来た、来た」と叫んだ時点で、すでに真っ赤になっていたはずである。それにしても、通行人らが「見合いや、見合いや」と大声で叫ばなかったのは、幸之助らにとって好運だったかもしれない。

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