礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

大正大震災の前に、甚だ面白くない歌がはやった

2022-10-04 02:28:50 | コラムと名言

◎大正大震災の前に、甚だ面白くない歌がはやった

 山田孝雄の『古事記講話』(有本書店、一九四四年一月)を紹介している。本日は、その一五回目。本日、紹介するのは、「第六 古事記序文第二段」の一部である。

 亀田鶯谷〈カメダ・オウコク〉の古事記の序の解といふ本の中に、天智天皇十年の十二月に天皇崩御の時に童謡が三種ある、それを指すのではないか、かういふことを言つてをります。古事記は推古天皇の御代〈ミヨ〉で終りでありますから天智天皇の御代のことは書いてない。しかし古典に伝へられてをります所謂童謡といふものはたゞ子供が歌つたやうな意味でなくて、何等か暗示せられたやうな気味がある。童謡といふと子供とばかり考へますけれども、さうではないのでありまして、平家物語をお読みになつてもお分りになりますが、京都の人間はよく悪口をいふ、余計なことをべらべら喋言べる、それが色んな流言蜚語流といふものである。これは余程御注意なさらなければならぬ。余談で甚だ失礼でありますけれども、ちよつと脱線してお話して見ると、私は大正のあの大震災当時東京にをりまして出遭つたのであります。その大震災が起る一年近く前頃から甚だ面白くない流行歌が流行つた、何とか枯薄【スヽキ】といふ歌、どうもこれはいけないなと思つてをりましたが、果して東京市に枯すゝきの時代が来たのであります。我々が注意をしてをつても止まらぬかも知れないけれども、流行歌といふものはどうも人心の兆〈キザシ〉を現はすのであります。私は仙台に十何年をりましたが、当時仙台の市中をよく散歩しました。そして蓄音機屋の前を通るときどういふレコードがいま流行つてをるかと注意したものでしたが、それで大抵六ケ月後の人心の動きが分るものであります。さふいふことを言ふと何だか変なやうですが、それは決して他人には滅多に言はぬ、自分の極く親しい友達に言ふのです。非常に不景気で困る、いやまあ待つてをり給へ、六ケ月程すれば直るといふ、果して直るのであります。また非常に景気がよいとき、いや駄目だぞ、もう四、五ケ月すれば大変なことが起る。それはレコードによつて人心の動きが分るからであります。私は孔子が礼楽を以て国を治めるといつたのはかういふことだといふことを実験〔実見〕したのであります。この事は大抵間違ない。流行の音楽といふものが人心の微妙なる動きを示してをる。だから為政者はそれを抑へたり進めたりして行かなければならない。かういふ枯薄の如き歌を流行させては駄目であります。さて日本書紀などの童謡といふのは俗謡、流行歌です。流行歌が人心の機微を現はしてをることは古今を通じて変りない。私共は古典を読むと云つてもたゞ昔の事ばかり言つてをる訳ではありません。さういふ風に考へて見ますと、「聞夢歌而想纂業」と書いてあるのは決して空〈クウ〉なことを書いてあるのではない。何か歌があつたに違ひない。少くとも太安万侶が古事記のこゝを書いてゐる時には自分で知つてゐたものであらう、それでなければこんなことを書く訳はない。上表文にいふほどの著しい歌ならば古事記になくても同じ人の関係し編纂した日本書紀に漏らすことはあるまい。また日本書紀に漏らすほどのつまらぬことをこゝに書く訳がない。かやうに考へて来るとやはり序の解にいふやうに天智天皇崩御の際の三種の童謡であらうかと思ふのであります。〈一八二~一八四ページ〉

 文中、「何とか枯薄といふ歌」とあるのは、野口雨情作詞、中山晋平作曲の「枯れすすき」である。一九二一年(大正一〇)に作られたが、翌年、「船頭小唄」と改題され、中山歌子が唄って大ヒットした。そして、その最中に、大正大震災(関東大震災)が起きた。
 一九七四年(昭和四九)に「さくらと一郎」が唄ってヒットした「昭和枯れすゝき」という歌がある。山田孝雄作詞、むつひろし作曲。山田孝雄(たかお)さんは作詞家で、もちろん、国語学者の山田孝雄(よしお)とは別人である。
 明日は、話が「脱線」することになろう。

*このブログの人気記事 2022・10・4(8位になぜか西部邁、10位になぜか桃井銀平)

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