礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

本来のファシズムが、悠然と姿をあらわす

2016-07-07 08:54:41 | コラムと名言

◎本来のファシズムが、悠然と姿をあらわす

 木下半治著の『日本ファシズム』(ナウカ社、一九三六)を紹介している。本日は、同書の「結論 日本ファシズムの展望」を紹介する(二六三~二六七ページ)。

 結論 日本ファシズムの展望
 二・二六事件以来――殊に戒厳令の関係もあつて、日本のファシズム運動は、表面上非常に沈静したかのやうにみえてゐる。また日本ファシズムの根元とされた…………も、第一師団の渡満や、粛軍の進行(………………………………………)によつて、一時鳴りを静めてゐる形である。一ときは「×××」といはれた人々も、今では「×××」といふ名称で呼ばれてゐるさうだから、――これが人惰の軽薄なることを示してゐるかゐないかは別として――思へば………の空気も変つたものである。
 それでは日本のファシズムは、これから頽凋〈タイチョウ〉の一路を辿るのであらうか? 否、否、否である。
 先日の二・二六事件によつて、あゝしたテロ行為が民心から嫌忌〈ケンキ〉されたことは、非常なものであらう。大衆とつながりのない、一部のテロリストによるクー・デターによつて政権を獲得し、「国内改造」をやらうと思つても、それが不可能であることは、もうハッキリ分つたことゝ思はれる。勿論、これからだつて、あゝした痙攣〈ケイレン〉的な事件の一つや二つ、散発するかも知れない。しかし、それによつて日本政治の大勢が決せられることはあるまい。
 では、日本の政治は、これから自由の途〈ミチ〉へ進むだらうか? 近頃の世相のホンの表面だけをみて、そんなことをいつてゐる人もないではない。しかし、それは飛んでもない楽観論で、今後は、あんなヒステリックなファシズムでない、歴史的役割を十分に自覚した、いはゞ本来のファシズムが、悠然とその姿を舞台に現はすだらう。
 著者は、本書の「緒論」において、ファシズムが独占資本の段階の所産であること、またファシズムが起るには、この独占資本が危機に当面することが必要であることを述べた。いま、日本の資本主義が独占過程に入つてゐることは、ことごとしく統計を並べて説明するまでもなからう。またそれが危機に揺り返されてゐることも、お互ひによく承知してゐる事実である。資本主義の「墓掘り人」プロレタリアートの運動も起つてゐる。
 それだのに、何うして、日本資本主義政府は、ファシスト運動を弾圧してゐるのか? 彼等の政党・財閥攻撃に恐れをなしたのか? 彼等のテロ行動に戦慄したのか?
 その何れでもない。その原因は、日本のプロレタリア運動が未だ十分成熱せす、資本主義の墓穴〈ボケツ〉を直ちに掘るほど強くなつてゐないからだ。日本資本主義を直ちに打倒すべく、彼等の陣営が余りにも弱少であり、分散的であるからだ。即ち、左翼的脅威が現実に迫まつてゐないからだ。
 従つて、日本資本主義としては、差し当り、ファシズムといふやうな危険なスペキュレーション〔投機〕をやる必要はない。一か八かの冒険を試みる必要はない。日本プロレタリアートの最大組織、日本労働組合会議も、単なる労使協調から、「国家機関化」への迎合を示してゐるではないか(最近の帝大における松岡駒吉の講演)。
 しかしながら、プロレタリアートの成長といふことは、資本主義の存する限り不可避のことである。その意味において、日本のプロレクリア運動も、必ずまた勃然と昂揚する。また対外的にみる場合、戦争といふ問題もある。
 あれやこれやで、日本政治のファッショ化は必然である。大正十五年(一九二六年)頃、既に水野錬太郎がその「帰朝談」においてファシズム礼讃をやつたり、三菱コンツェルンの総理事故木村久寿弥太〈クスヤタ〉の「資本家武装必要論」(「実業之世界」、大正十五年十一月号)があつたりして、日本ブルジョアジーのファッショ化は、彼等の筺底〈キョウテイ〉に深く蔵されてゐた処方箋だつたのである。日本ブルジョアジーのファシスト独裁者の最後の切札として宇垣一成〈カズシゲ〉が考へられてゐたことは、知る人ぞ知る秘密であるが、近時宇垣内閣の噂が、かなり現実性を帯びて来たことは、この角度からみても、興味深いことであらねばならない。
 元来、日本政治には、封建的要素が頗る〈スコブル〉多い。その経済的根幹は農村にあり、それが発顕・開花して、官僚、軍部の異常に強き発言権となつてゐるのである。勿論、単なる封建的要素は、それ自身ファシズムではない。しかし、独占的段階におけるファシズム的残滓〈ザンシ〉は、極めて容易にファシズムの城砦〈ジョウサイ〉となり得るのであつて、殊ににイタリー、ドイツ等ファシスト国家の成立してゐる今日、封建的要素は即ファシスト要素であるとしても、客観的・政治的には誤りないのである。
 政府の手による経済統制の進行、種々の総動員準備工作、責任政治の排除、さては政党そのものの反動化等によつて、日本のいはゆる上層政治は、刻々ファッショ化の色彩を強めてゐる。「徹底せる自由主義者」として、日本政治のファッショ的移行を喰ひ止めてゐると世人から考へられてゐる西園寺〔公望〕の腹の裡〈ウチ〉だつて、何うなつてゐるのか、わかつたものではない。彼の「お便番」原田熊雄が国維会の一員であつたことは、注意されていゝ現象であらう。
 日本独占資本は、二・二六事件を転機として、真実のファッショ化へ「転向」するであらう。それは、近頃ジャーナリズムにしきりに放送される擬装的「転向」を指すのではない。あんなことは、歴史の流れに浮ぶ泡沫【うたかた】に過ぎない。著者のいふ「転向」とは、さやうな一時的・気まぐれ的擬装工作ではなく、独占資本固有のファシスト工作に急ぐこと意味する。これこそ真実のファッショ化の開始である。
 著者は、この日本政治の真実のファッショ化について種々の角度から論ずる予定でゐたが、紙数及び時間の都合上、今それを果し得ないのは遺憾である。早急に結論をいへば、日本の政治は、従来のヒステリックなファシズムから、真のファシズムへ移つて行くのである。そして、これこそが日本の民衆――労働者、農民、小市民、インテリゲンチア等にとつて、最も怖ろしいものなのである。「民衆の最悪の敵」ファシズムとは、まさにこれを指すのである。(終)

 木下半治の日本ファシズム論は、明らかに左派の立場からのファシズム論である(少なくとも本書執筆の時点においては)。
「日本政治のファッショ化は必然である」という、木下の見通しに、誤りはなかった。しかし、労働者、農民、小市民、インテリゲンチアなどの「民衆」が、「民衆の最悪の敵」であるはずのファシズムの支持に回りかねないことに、木下の考察は及んでいない。これが、木下半治の日本ファシズム論の最大の弱点である。
 ところで、そろそろ参議院議員選挙が近づいてきた。労働者、農民、小市民、インテリゲンチアなどの「民衆」が、いわゆる「改憲勢力」の支持に回るという現象が、ここで、起きるかもしれない。だとすれば、この選挙は、歴史上、きわめて大きな意味を持つ選挙になるであろう。

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