礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

貧困児童の教育は国庫支弁(ナチス綱領より)

2016-07-23 03:14:05 | コラムと名言

◎貧困児童の教育は国庫支弁(ナチス綱領より)

 昨日の続きである。木下半治の『新体制辞典』(朝日新聞社、一九四一)を紹介している。本日は、「国民社会主義ドイツ労働者党」および「ナチス綱領」の項を紹介してみたい。
 見ていただくとわかるが、この辞典は、項目の説明が、詳細かつ周到なものになっている場合がある。

国民社会主義ドイツ労働者党(独 Nationalsozialische Deutche Arbeiterpartei=N.S.D.A.P.)
「ドイツ労働者党」が一九一九年九月、ヒットラー氏入党後改称したもので「ナチス」と略称する。一九二〇年二月、初めて演説会を開き二十五綱領を発表。同年三月のカップ叛乱を支持。同年夏、鉤十字〔ハーケンクロイツ〕の党旗を制定。このころ「突撃隊」の萌芽組織徐あつた。十二月機関紙「フェルキッシェ・ベオバハター」を創刊。一九二三年一月第一回党大会、同年十一月ルーデンドルフ・ヒットラー一揆。失敗。ヒットラー氏入獄。一九二四年十二月、ヒットラー氏出獄(一九二四年九月、ドーズ案)。一九二八年五月の総選挙にナチス十二名当選。同年九月、プロシャ、ヒットラー氏の演説解禁。同年一月、ヒットラー氏初めてベルリンで演説(一九二九年六月ヤング案)。一九三〇年一月チューリンゲンでナチス党と人民党との連立内閣成立。フリックがその内相となつた。同月内紛、オットー・シュトラッサーらの脱党。九月の総選挙に百七名当選(一九三一年六月戦債モラ)。一九三二年三月、大統領選挙にヒットラー氏一一、三三八、五七一票を得、同年四月の第二回投票に一三、四一九、六〇三票を得て落選。同年七月の総選挙に二百三十名当選して第一党となり(社民党百三十二名、共産党八十九名)、ゲーリング議長となる(同年十一月の総選挙には百九十五名当選。社民党百二十一名、共産党百名)。やゝ後退したのでパーペンと妥協。一九三三年一月二十九日、ヒットラー氏は連邦首相となつた。二月二十七日議事堂放火事件を契機として共産党弾圧。次いで社民党に及んだ。同年三月の総選挙に二百八十八名当選(社民党百十九名、共産党八十一名)。ナチス党の独裁が始まつた。一九三三年六月国権党及び国家党を、七月ドイツ人民党、バヴァリア人民党並びに中央党を解散し、七月十四日を以て新党の樹立を禁じた。一九三四年六月三十日、レーム以下のS・A〔突撃隊〕を弾圧、同年八月ヒンデンブルグ大統領死去し、九日ヒットラー氏総統に就任。爾来着々ドイツ再建に成功し、今次大戦〔第二次世界大戦〕における輝かしい勝利となつたのである。

ナチス綱領(独 Programm der N.S.D.A.P.)
ゴットフリート・フェーダーの起草にかかる一九二〇年の綱領である。内容は次の如し。(一)民族自決権に本づく全ドイツ人の合同。(二)民族平等権の要求。従つてヴェルサイユ、サン・ジェルマン両条約の廃棄。(三)植民地の要求。(四)ユダヤ人の公民権否認。(五)ユダヤ人の外国人待遇。(六)一切の官職からのユダヤ人の排除、及び政党的官吏の排斥。(七)市民の生活保護とそのための異民族(ユダヤ人)の追放。(八)非ドイツ人の新入国禁止。(九)全公民の平等なる権利・義務。(十)各公民の精神的、肉体的完成の義務。(十一)不労所得の廃止。利潤奴隷の打破。(十二)全戦時利得の没収。(十三)社会化産業(トラスト)の国有化。(十四)大経営の利益参加。(十五)養老制度の大施設。(十六)中産階級の創設維持。大百貨店の即時的公有化と小営業者へのその賃貸。(十七)国民的要求に適応する土地の無償没収。地代の廃止。土地投機の禁止。(本項は一九二八年四月ヒットラー氏によつて取消された。理由は「私有財産制の上に立つナチス党に矛盾する」が故である。)(十八)反公共的国民犯罪者、投機者、高利貸の極刑。(十九)唯物的ローマ法の排除とドイツ普通法の主張。(二十)教育の改革と貧困児童教育の国庫支弁。(二十一)国民保健。(二十二)傭兵制の廃止と国民兵制の創設。(二十三)新聞の統制。非ドイツ人及び非ドイツ新聞の排除。(二十四)宗教の自由。公益は私益に先行する。(二十五)強力な中央国家権力の創設。等族=職能議会の形成。なほ一九二六年五月の党大会は本綱領の「不変」を確認した。

*このブログの人気記事 2016・7・23(6・10位に珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする