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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

歩兵一般基礎訓練を7月23日から実施

2016-07-21 03:07:05 | コラムと名言

◎歩兵一般基礎訓練を7月23日から実施

 この間、中村正吾秘書官、および黒木勇治伍長の「日誌」によって、七一年前(一九四五年)の「今ごろ」の出来事を紹介している。出典は、それぞれ、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)、および黒木雄司著『原爆投下は予告されていた』(光人社、一九九二)である。
 本日は、『原爆投下は予告されていた』から、七月二一日~七月二三日の日誌を紹介する(二二二~二二九ページ)。

 七月二十一日 (土) 曇時々雨後晴
 朝から風が強い。板壁のあちこちから風が舞い込み、横殴りの雨は、窓枠の敷居のところから室内に入ってさんざん。屋根も棕櫚〈シュロ〉の葉が軒から落ちそう。午後に
なってやっと雨も止み、風も治まり、棟に上がって棕櫚の葉の屋根を荒縄で括【くく】りあげる。晴れれば晴れて太陽光線が強すぎ、屋根作業も大変だったが、なんとか恰好はできた。【中略】
 午後四時、上番する。明日は日曜日で勤務時間変更の日、したがって今日は三勤で午後十二時まで勤務するが、明日は二勤の勤務で午前八時からの勤務となる。今日は上山中尉だけ詰めておられ、隊長の姿は見えない。連隊本部への報告など忙しいのであろう。
 上山中尉は非常に真面目な人で、そのうえ博学多識、冗談などまったく言われることはない。自分と二人だけの勤務のときでも、めったに言葉をかけられたこともなく、またこちらからはあまりに立派な人なので言葉をかけにくい。要するに、常に畏敬の立場の人で、近づき難い感じがする。
 一方、芦田隊長には遠慮なく話もできたが、上山中尉がおられるときには隊長にも遠慮しなけれぱならないような気になった。
 上山中尉は軍隊口調の言葉の中に東京弁に近い標準語そのもので、関東地区の出身か、あるいは長く関東に住んでおられたものと思う。聞けばよいのに、身分が違うと心の中が止めるので、聞けなかった。年齢はやはり自分より一、二年年長と思う。
 七時のNHKのニュースは、戦況放送などまったくなく、今日は遅れていた旅行者外食券制度が実施されることになって、駅弁や列車内のパン購入の際も、外食券が必要になると放送していた。NHKは内地があれだけ空襲され爆撃を受けているのに、なぜ言わないのだろう。国民の士気低下を恐れてのことだろうか。あるいは針小棒大にデマとして流布されるのを恐れてのことだろうか。
 午後十時、ニューディリー放送が流れてくる。
 ――こちらはニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべき情報によれば、本日(七月二十一日)、米艦載機数機は南鮮釜山付近の船舶を空襲し爆撃致しました。繰り返し申しあげます。…………。――
 とうとう朝鮮まで手を伸ばしたかと思う反面、朝鮮は敵にあらずとして都市攻撃はしないで、日本の船舶だけを狙ったのか。【後略】

 七月二十二日 (日) 晴
 午前七時三十分起床し、大急ぎで洗顔して朝食を取り、上番準備にかかる。ここはありがたいことにゆっくり歩いても、出勤の時間は一分で情報室に入れる。今日から二勤勤務だ。
 午前八時、上番する。昨晩申し送りをした田原候補生から申し受け、午後四時、またこの田原候補生に自分は申し送りをすることとなり、本日、田中候補生が休日となるわけである。上下番の挨拶をきちんとして勤務につく。今日は珍しく隊長がもう席に着いておられる。何かいいたそうな顔をしているところへ、田中候補生が入って来た。
「田中候補生入ります。田中候補生、黒木班長殿の許〈モト〉に参りました」といって書面を持って来て見せた。隊長名の全員に告ぐと題し、当分の間、一切の外出を禁止するという通達であった。とくに日用品などについては、炊事横に簡易な酒保を置いて販売すると書いてあった。むしろ酒保ができるのは、われわれには有難いことで、大歓迎の通達だった。
 自分は「よし」といって黒木と鉛筆で書き、書いた名前を○でかこんだ。そして書類を渡した。
「田中候補生、帰ります」といって出て行った。
 終始見ておられた隊長は、
「おい黒木、よく仕込んだな」と自分を褒められる。
「隊長殿、彼も田原も二人とも真面目なんです」と振り向いて言った。
 その直後、隊長から、「おい黒木。ちょっと来い」といわれた。びっくりして「はッ」といって起立し、隊長の前に立った。
 隊長「諸般の事情により、本日をもって次の監視所は閉鎖する。梧州、横石、海晏、広海、平沙、恵東以上の六監視所で、前回閉鎖した陽江、河源、多祝、海三の四監視所と共に閉鎖した監視所は、十ヵ所となった。以上である」
 礼をして席に着いた。本日付の外出禁止令は、隊長の雑談でよくわかっているが、今回の監視所縮小は、隊長自身の意志で閉鎖されたものでなく、南支軍としての戦線縮小で、やむを得ず他部隊と合同して監視所縮小となったものと思われる。【中略】
 午後四時、下番する。下番後はいつもの通り洗濯し入浴する。内務班でひとり煙草を吸う。煙草の煙を見ながら一体、いつまでこうしてここにいることだろうかと思う。
 田中は、今日は休日の番でゆったりした顔だ。
「おい田中、五目並べでもしようか」と紙製の盤を出そうとしたら、
「班長殿、碁盤作りました」という。立派な碁盤だ。こんな板に碁盤目もくっきり引かれている。
「碁石は田原が作りました」という。見れば木製の碁石だ。よくもこんなに何の道具もないのに、丸く作ったものだ。しかも黒の色と白の色に塗ってある。板を縦横に鋸【のこぎり】で引いて四角な板の角を取ったもので、碁石の全般的に丸いのよりも下部が平らで安定度がある。
「貴様ら、どこからか掻っ払った〈カッパラッタ〉んじゃあないだろうな」
「班長殿、全部棄てられたもんから作ったんです」という。それにしても驚くほど立派なものだ。
 盤を真ん中に碁石にあらざる碁木を一つ二つ置いたときだ。
「この先任者はだれか」といって、見たこともない上等兵が入って来た。
「おれだ」と答えると、通達書面を渡してくれた。隊長からの指令だ。
「よしわかった。もらっておく」と答える。相手はこちらが褌一枚の裸が、二人で五目並べをしているのでびっくりしたようだ。
 通達の書面は次の通りであった。
【一行アキ】
  指令
 昭和二十年七月二十二日
 各係班分隊先任者殿
      情報室長芦田
諸般の事情により来る七月二十三日より十日間の予定で次の訓練を行なう。各班各係とも原則として一勤二勤の勤務明〈アケ〉者とするが、各係各班各分隊では出来る限り左記訓練の未経験者は必ず参加するように勤務時間の変更を行なってでも参加させられたい。
  記
(場所)情報室入口北側山手空地
(訓練内容)歩兵一般基礎訓練
(訓練時間)毎日午後四時十分より二時間
(服装)鉄帽、夏衣袴、脚絆、帯剣着用
(担当教官)高橋中尉
           以上
【一行アキ】
「今週はおれが二勤だが、この指令の主旨を生かして、この勤務時間はおれが勤務する。今週は二勤からつづけてやる。来週も同様とする。来週についてあらためて指示するが、三勤の者は訓練終了後に上番すればよい。田原にも申し送ってくれ」と田中に話す。
「班長殿、この夏衣袴とは、いま着ているのでよいのですか」
「いや違う。巻脚絆は半パンツには巻けない。長い袖、長いズボンの正規の夏服のことや。匍匐【ほふく】のときに半袖や半パンツやったら、手足が擦り剥けるぞ」
「この服、ここに来てもらっただけで着たことがないです」
「着て見ろ。階級章と座金もちゃんと付けとけよ。その服のときには襦袢と袴下も下に着るもんだ」
「えッシャツもパッチもですか」
「そうだよ。君のズック靴はそれでよいとして、かならず靴下を履き、襦袢・袴下をつけ、その上に夏衣袴を着る。さらに脚絆を巻くのだ。その上衣の上に帯革をし剣を下げるのだ」
 服を着ると兵隊らしく見える。暑い、暑いという。服はやや大きいけどやむを得ないだろう。タ食後一勤に備えて田中は、早くも横になる。
 それにしても、隊長の頭の回転の早いことよ。あの放送の南支一般人の受け取り方として、場合によってはいつ、どこから攻撃を受けても、他少泥縄式であるにしても、歩兵の基礎訓練を受けていれば、対応はできると考えたのであろう。さらに考えれば、この地でもいつゲリラ作戦に移る時期を迎えるかも知れぬが、その対応策の必要性からもあるのだろう。
 隊長は十日間は安全で大丈夫と見られたのか。あるいは高橋中尉が二時間の十日、二十時間は最低限必要といわれたのであろうか。その辺のところはわからない。

 七月二十三日 (月) 晴
 午前八時、上番する。下番者田中候補生の報告は、
「昨夜の前任者の申し送りでは、午後十時のニューディリー放送によれば、昨日(七月二十二日)、米軍P51二百機が近畿地方の航空基地および交通機関を空襲し銃爆撃をしたといっております」
「よし、わかった」と答えた。が、交通機関といっても、軍人も乗っているかも知れないが、大多数の乗客は一般人ではないか。一般人を対象にする米軍の卑怯きわまりないやり方に憤懸やる方なし。【中略】
 正午のNHKの放送によると、鉄道も軍隊組織に編成替えをして鉄道義勇戦闘隊となるよう要望すると、阿南陸相が示達したと放送があった。午後は午前中の空爆の後ということもあって、静かな午後だ。今日から歩兵基礎訓練をやることになって、午後四時の下番が約二時間延びることとなった。
 午後六時五分、下番する。上番の田原候補生の勤務は、従来通り午後十二時までとし、変更はしないことにした。
 下番後、入浴、洗濯、夕食と時間的にもうまく運んだ。夕食時、田中に、「今日は何を習ったか」と聞くと、
「今日は銃の持ち方、銃の使い方、銃の撃ち方、伏せ撃ち、座り撃ち、台を置いての撃ち方などであります」
「勉強になったか」
「はじめてのことばかりで、よい勉強になりました」
という。早く一人前になって欲しい。夕食後は明日の一勤が控えているので、彼はすぐ横になる。自分も今日は十時間勤務でだいぶ疲れてもおり、早くも横になる。

 一七日のブログで紹介したように、黒木勇治伍長が執務していた情報室では、七月一八日のニューデリー放送によって、ソ連政府が同日、「日本政府より要請のあった近衛文麿氏の特使としての訪問については、その持つ意味が不明なるを理由として特使派遣を拒否」した事実を把握した。
 この情報に接した芦田隊長は、ただちに上山中尉に対して、「今度の日曜日〔七月二二日〕以降、外出は一切中止しろ」と指示した。その理由は、「日本は和平交渉に失敗した=【イクオール】日本は勝てる見込みはなくなった=日本は負けた=支那は勝ったということになって、外出中の一人、二人の兵隊に、何十人と一般支那人が棒でも持って来られたらやられる」という事態を予想したからであった。
 この外出禁止令は、七月二二日朝、実際に発令されている。のみならず、同日付で、翌二三日から十日間、「歩兵一般基礎訓練」を実施する旨の通達も出された。その理由は、基本的に、外出禁止令を発令した理由と異なるものではない。
 いずれにしても、芦田隊長の情報分析は鋭く、それに対する対応も機敏かつ適切であった。
 一方、当時の政府中枢の判断はどうだったのか。中村正吾の『永田町一番地』によれば、佐藤尚武大使から、待望のソ連政府回答が報告されてきたのは、七月二〇日であった。「日本政府の申入れは具体的といふわけにいかぬ。また近衛公派遣の目的も明瞭でない、従ってソ連政府としては現在、回答を与えるわけにいかぬ」というものであった(一昨日の当ブログ参照)。
 ソ連政府は、近衛公派遣の目的が「和平の斡旋」であることを、十分に承知した上で、この派遣を拒否したのである。つまり、「和平の斡旋」を拒否するという意思表示である。そもそも、ソ連政府は、七月一五日、佐藤尚武大使に対し、スターリン首相がポツダムに赴く予定であるとの連絡をおこなっている。この時点で、ソ連がポツダム宣言に加わる可能性、ソ連が日本に宣戦布告する可能性を予想すべきであった。
 ところが、七月二〇日午後六時、急遽、開かれた「最高戦争指導者会議構成員会合」の結論は、「近衛公の派遣は対米、英和平の斡旋をソ連政府に依頼するためであることを申入れ、且つ近衛公は日ソ間の問題につき交渉を進めるとともに、戦争終結に関する日本の具体的意図を齎してモスコーに赴くものであることを通告する」というものであった。あいもかわらず、ソ連に頼ろうとしたのである。
 おそらく、この最高戦争指導者会議構成員会合のメンバーに、「七月一八日のニューデリー放送」の情報は届いていない。仮に届いていたとしても、その時点で、「日本は和平交渉に失敗した」と受けとめることができたようなメンバーは、おそらくいなかったであろう。
 特に問題なのは、東郷茂徳〈シゲノリ〉外相のセンスの悪さである。東郷外相は、ポツダム宣言が発せられたあとの最高戦争指導者会議構成員会合(七月二六日)においても、まだ、「ソ連に向かい和平の仲介を依頼した手前があるので、この三国共同宣言に対する我方の態度の決定はソ連政府の我が和平仲介の申入れに対する態度を見極めた上になすべきである」と主張していたという(一昨日の当ブログ参照)。

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