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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

立川文庫の書き講談から講談社の大衆小説へ

2016-01-04 04:39:53 | コラムと名言

◎立川文庫の書き講談から講談社の大衆小説へ

 映画『鞍馬天狗 角兵衛獅子』(一九五一)の原作は、大佛次郎〈オサラギ・ジロウ〉である。大佛次郎は、一九二四年(大正一三)以来、四一年間にわたって、「鞍馬天狗シリーズ」を書き続けた。鞍馬天狗を主人公とする映画も、六〇本近く作られた。その第一作は、實川延松〈ジツカワ・エンショウ〉主演の『女人地獄』(帝国キネマ演芸小坂撮影所、一九二四)だという。
 さて、昨年末だったか、加太こうじ著『国定忠治・猿飛佐助・鞍馬天狗』(三一新書、一九六四)という本を買い求めたことを思い出し、取り出して、「鞍馬天狗」関係のところをあたってみた。加太こうじ(一九一八~一九九八)というのは、生前、「博学多識」で知られた人だそうだが、その評価通り、興味深い情報が満載されており、たいへん勉強になった。文章も平易にして巧みである。

 本日は、同書の「Ⅴ 知的で清潔なアウトサイダー」の「1 若がえるヒーロー」から、少し、引用してみたい(一七四~一七七ページ)。

大衆小説の発生 大衆的な小説が、出版業者の企画によって大量に作られるようになったのは大正二年(一九一三)からである。それまでにも村上浪六〈ナミロク〉や黒岩涙香〈ルイコウ〉、押川春浪〈シュンロウ〉の諸作、あるいは翻案物は大衆に広く読まれていた。だが、出版社《大日本雄弁会講談社》を経営する野間清治〈ノマ・セイジ〉が自社の危機克服策として大衆的な小説の執筆を小説家に依頼したことが、後日、大衆文学といわれる小説群を生みだすきっかけになったのである。
 事の起こりは、その頃流行しはじめた浪花節の速記を、講談社が自社の雑誌『講談倶楽部』に、講談、落語の速記と並べてのせたことによっている。
 当時、講談、落語に関係する者の多くは、浪花節を乞食節といっていやしめていた。それは、浪花節が明治の中頃までは門付け〈カドヅケ〉を主としていたからであった。すなわち、浪花節語りは三味線ひきを連れ、持った錫杖〈シャクジョウ〉をならしながら辻に立って語ったり、人家〈ジンカ〉の軒先〈ノキサキ〉に立って語り、招じられては人家で近所の人を合せてもせいぜい十数人ぐらいの客を相手に語り、投げ銭〈ナゲセン〉や、心づけ程度の料金で芸をきかせていたからであった。しかし、せんじつめれば講談も落語もそのようにして起こったものだし、浪花節語りが祭文語り〈サイモンガタリ〉の発展であって、エタの群れのなかから多く出たとしても、その昔をたずねれば平安朝時代の猿楽法師〈サルガクホウシ〉や唱門師〈ショウモンジ〉になるのだから、当代の明治政府のごきげんうかがいに汲きゅうとした講談師の多くよりは、ずっと立派なのだが、差別することによって自分の方はいい子になろうという、いやしい根性が、当時の講談、落語関係者、特に出版に関して利害を多く持つ速記関係にあったのである。
野間清治の卓見 講談速記の代表は「浪花節の速記を自分たちのものといっしょにのせないように――」と、野間清治に抗議をした。しかし、野間はとりあわず、かえって「将来性のある浪花節にケチをつけるようなら、講談の速記はのせなくてもよい」とこたえた。そのために講談の速記は講談社の雑誌にのらなくなった。南朝の忠臣とされていた楠木正成を中心とした『太平記』を読むところから発したといわれる講談よりも、芸術の浪花節を重要視したことは、当時の野間のすぐれたところだった。浪花節語りの多くは野間が速記を自社の雑誌にとりあげたころから、だんだんに地位があがり、やがて政府高官のお声がかりで忠君愛国を説いて落語や慢才〔ママ〕をいやしめるようになるが、大正二年〔一九一三〕頃は、まだ講談の方が威張っていた。
 野間は講談速記をことわったものの、当面、雑誌のスペースをうずめる原稿がなければ雑誌は出版できない。そこで講談速記にかわるものとして、筋立てのおもしろさを主とした平明な表現の小説を書かせたのであった。野間は一種の書き講談のつもりだったかもしれない。大阪では同じ頃、書き講談として立川文庫が作られ、日本中で高い人気を得ていた。野間のこころみは大成功をする。それは講談速記にかわる書き講談から、さらに近代的な感じを持った大衆的な小説への飛躍だった。
 野間の成功は他社をも刺激した。博文館その他でも講談速記をのせていた雑誌に大衆的な小説をのせるようになり、しまいには講談と銘うった雑誌でも、古めかしい講談速記はひとつものらないようになった。大衆的な雑誌は速記本から小説に移ったために企業として成功し、やがて、数多くの大衆誌発刊の時代をむかえる。また、新聞も連載小説に対する紙面をふやした。あるいは小説を中心にした少年少女向きの雑誌もいくつか創刊された。そして、大衆的な小説――文学の本道をゆく大きな分野がひらけていくのだが、それは大正初年から昭和初年までの十五、六年間のできごとであった。この時期に発表され、後日多くの亜流を生むようになった作品は次の通りである。〔中里介山〕『大菩薩峠』、岡本綺堂『半七捕物帳』、白井喬二『富土に立つ影』、吉川英治『鳴戸秘帖』、長谷川伸〈ハセガワ・シン〉の股旅物〈マタタビモノ〉、子母沢寛〈シモザワ・カン〉のヤクザ物、江戸川乱歩の探偵物――明智小五郎シリーズ、その他であり、大佛次郎の『鞍馬天狗』も、この時期(大正十三年〔一九二四〕)に作られた。【以下、次回】

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