礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

シツケとは主客未分化の道徳的錬成である

2016-01-29 03:05:20 | コラムと名言

◎シツケとは主客未分化の道徳的錬成である

 本日は、国民学校における「教科」について、考えてみたい。本日も、のちほど、清水甚吾『国民学校学級経営法』(東洋図書株式合資会社、一九四一)を引用するが、その前に本日は、荒木茂久二〈アラキ・モクジ〉・熊埜御堂定〈クモノミドウ・サダム〉共著『国民学校令正義』(目黒書店、一九一六)という本によって、国民学校における「教科」の概略を見ておこう。
『国民学校令正義』の第二章「課程及編成」の第二節「教科及科目」の最初のほうに、次のようにある。

第二節 教科及科目
 国民学校に於ては、国民学校教育の本旨、皇運を扶翼し奉る基礎的錬成の立場より、従来の小学校に於ける教材を徹底的に再編制し、新に教科及科目を設けたのである。これが、国民学校の教育内容上の改正の、具体的根幹をなすものである。然らば国民学校に於ては如何なる教材の編制を行つたかと云へば、国民学校令第四条には次の如く規定してゐる。
《国民学校ノ教科ハ初等科及高等科ヲ通ジ国民科、理数科、体錬科及芸科トシ高等科ニ在リテハ実業科ヲ加フ
国民科ハ之ヲ分チテ修身、国語、国史及地理ノ科目トス
理数科ハ之ヲ分チテ算数及理科ノ科目トス
体錬科ハ之ヲ分チテ体操及武道ノ科目トス但シ女児ニ付テハ武道ヲ欠クコトヲ得
芸能科ハ之ヲ分チテ音楽、習字、図画及工作ノ科目トシ初等科ノ女児ニ付テハ裁縫ノ科目ヲ、高等科ノ女児に付テは家事及裁縫ノ科目ヲ加フ
実業科ハ之ヲ分チテ農業、工業、商業又ハ水産ノ科目トス
前五項ニ掲グル科目ノ外〈ほか〉高等科ニ於テハ外国語其ノ他必要ナル科目ヲ設クルコトヲ得》
 国民学校の教科とは、国民学校教育の実質的内容である教育材料即ち教材の有機的体系を謂ふのである。之は小学校令で用ひられてゐる「教科」とは多少其の趣を異にしてゐる。即ち小学校令に於ては教科とは、国民学校令の所謂課程の意味に用ひられたのを普通とするが、小学校令第三十九条に、「小学校ノ教科ヲ教授スル者ヲ本科正教員トシ」と規定するが如き場合は国民学校の「課程」よりは狭義に用ひられてゐるが如くである。
 国民学校に於て、初等科に在りては四教科、高等科に在りては五教科を設けたる所以を説明すれば、国民学校の教育の目的とする所は偏に〈ヒトエニ〉皇運を扶翼し奉る忠良なる日本臣民の錬成と謂ふ一点に在り之のみが凡てであるが、実際教育に当つては、教材は国家がある程度整理して与へなければならぬのである。国民学校の教科とは、国民学校教育の目的をよりよく達成する為に、教材を一定の体系に整理配列したものである。従来小学校の教科目も中等学校の学科目も学問の分類から生れ出たものと考へられて来た弊があつたのであるが、国民学校の教科は学問の分科より生じたものでは決して無く、国民学校教育の必要上、皇国臣民に必要なる資質の各分野の陶冶として生まれたものである。

 国民学校の発足にともなって、教科・科目の再編制がおこなわれた。なかでも注目されるのが、「国民科」の登場である。これによって、「修身科」や「国語科」という教科が姿を消した。これは、近代日本教育史の上で、きわめて重大な出来事だったと言えるだろう。
 では、この「国民科」というのは、どういう教科だったのか。これを確認するために、今度は、清水甚吾『国民学校学級経営法』を参照する。本日、紹介するのは、第十一章「初等科第一学年の学級経営」の第三節「国民科の教育」である。

 三 国民科の教育
 1 国民科の要旨と其の出発 国民科の要旨とするところは、「我ガ国ノ道徳、言語、歴史、国土、国勢等ニ付テ習得セシメ、特ニ國體ノ精華ヲ明ニシテ国民精神ヲ涵養シ皇国ノ使命ヲ自覚セシムル」にある〔国民学校令施行規則〕。即ち国民科は一言にしていへば国民精神ノ涵養が目的である。この目的を達成する為に、修身・国語・国史・地理の四科目に分化されて行く訳であるが、低学年に於ては、修身が国民科の父となり国語が国民科の母となり、上の学年に進むにつれ、国史、地理を漸次分化発展させて行くといふ気持で取扱ふ。
 殊に、低学年は、主観と客観、空想と現実とが未だ分化しない時であるから修身教授は躾から出発する。躾といふものは、主客未分化の道徳的錬成である。自覚の伴はない躾から出発して、自覚を伴つた国民的錬成といふ方向へ、修身教授を向けて行くやうにする。躾については、学級経営の方針と其の具体化のところに〔第十一章第二節〕、一年生として、団体生活から見たものと毎日の生活から見た極めて卑近で必須なものをあげておいたが、更にここにもつと広い見地からあげてみよう。
(1) 児童の遊戯
(2) 各種の学校行事
(3) 友達との交際
(4) 教師への礼儀、お礼の仕方、教師への服従
(5)  学用品其の他所持品の取扱方と其の始末
(6) 姿勢及び服装等の容儀
(7)  学級作業等の学校生活
(8) 家庭に於ける朝晩の挨拶
(9) 親兄弟に対する礼法、挨拶の仕方、返事の仕方等の躾
(10) 道の歩き方
(11) 電車・汽車の昇降・車中の心得
(12) 神社仏閣御陵の参拝の仕方
(13) 祝祭日に国旗を立てること
(14) 御尊影竝に皇室に対する礼法・最敬礼の仕方
等々とあつて、児童に親しみの多い、而かも実行の容易なことがらから指導することによつて、教授の実〈ジツ〉をあげることに留意すべきである。
 次に国語に於ては簡単なる言語訓練から出発して、此の言語訓錬に力を用ひる。言語訓練といふと、正しい言葉の躾といふことであるから、発音や言葉遣〈ヅカイ〉等について正しい国語が使用出来るやうに初歩訓練するのであるから、修身と不可分の関係で行く必要がある。従つて、教師や父母の実践躬行によつて模範を示し、又家族や友達等の周囲の環境によるよい言葉の見習等も注意して教育して行かねばならぬ。
 2 国民科教科書の活用 以上の精神から・国民科の教科書の「ヨイコドモ」と「ヨミカタ」とは、国民精神感情を養つて行くといふ点では一体たる関係に於て編纂され、教材内容は互に相連絡し、又相補ふやうになつて居る。「ヨイコドモ」の方は国民生活の正しき筋道を明かにする表側となり、「ヨミカタ」の方は国民的感情情緒を豊かにして心の奥行を作つて行く裏側をなすといふ関係になつて居るが、時には、又形式上「ヨミカタ」が表に行つて、「ヨイコドモ」が裏を行くといつた趣もある。
 教材の表現も、「ヨイコドモ」と「ヨミカタ」とは非常に接近して、「ヨイコドモ」の各課の標題がすべて、従前の国語読本のやうな表現法が用ひられて、「ヨミカ夕」と一体不可分のものとして、国民科の目的を遂行するやうになつて居る。併し、之を取扱ふ時には、各〈オノオノ〉の特質が発揮されねばならぬ。「ヨイコドモ」は国民的自覚を興起しつつ之を日常の実践行為にまで躾けて行く立場を取り、「ヨミカタ」は言語・文章を訓練してコトバの実践に導き、コトバの国民的思考感動を通じて国民精神を養つて行くをいふ立場を取る。此の二つの立場から教材の体系も亦自ら〈オノズカラ〉相違する訳である。
 3 修身教育 日本の国民が守つて行かなければならない道の実践指導をなし、児童が色々と起してくる意欲を道徳的に啓発して行く。此の場合に、児童の徳性に於ける情意方面を錬成するといふことを重要視して、低学年児童の生活の即する事柄を取り上げ、児童生活の実際又は生活の行事と堅く結びつけて、情操の深化を図つて行かねばならぬ。それを、直接自分に関係のない他人の事の話のやうにして、いくら説話を上手にして修身教授をしても、それは駄目である。動もすると、児童は局外にゐて、他人の話のやうに思つて、面白がり注意を集中してきいて居ることがある。文吉さんがかうした。小太郎さんがかうした。と直接自分の問題とせずに第三者としてながめた弊がある。
 児童を直接的対象とし、直接的に指導する為に低学年の「ヨイコドモ」といふ教科書に於ては、児童の道徳意識が此の年齢で発達して行く程度を充分に考慮して、教材を児童の遊戯や、学校、一般国民生活に於ける行事、家庭に於ける躾といふ如きものを密接な関連を保たせ、児童の心線にピツタリと即せしめて、著しく情意的錬成といふところに力を注いである。又児童用書の体裁〈テイサイ〉に於ても、二頁に亘つて綺麗な挿絵を採用して全部見開きの絵とし、文章を入れるにしても其の両頁に亘つた一つの事項の絵に関係して児童の生活記録といふべきものを入れてあつて、この児童用書を其の侭に情意的錬成の一助としてある。此の点教師は勿論、家庭の人にもよくこのことを理解させて、児童用書其のものによつて国民学校国民科修身の目的を達せしめるやう心掛くべきである。
 併し、「ヨイコドモ」はどこまでも児童のものであるから、教師用書を熟読玩味し、これによつて教授しなければならぬ。児童用書のみによつて、ここではかういふ徳目に触れるものだと即断するごとは禁物である。必ず児童用書と教師用書と二つのものを堅く結んで、それに加ふるに教師の教育力を以て教授することによつて目的を達するやうにすることが肝腎である。家庭に於ける両親にも此の点を了解して貰はねばならぬ。
 次に実際の教授に於ては、実践行為の主体を「ワタクシ」として、お友達に勇さんや文子さんが居ると考へ、或時には児童各自の実践行為から出発し、或時にば掛図から出発して、道徳的生活の意欲の発動を促し、具体的に説話を進め、道徳的情操を涵養しながら、深刻なる実践指導をする。此の際、礼法躾といふものと密接の関係をもたせることに努める。児童の生活、児童の実践行為に即するといつても、児童の自然的成長によるのでなく、皇国の道に則つて国民の基礎的錬成をなすのであるといふことを考へ、忠良な日本国民として行くことを忘れてはならぬ。そして、低学年は一度に徹底を図るよりも、度々時を異にして反復練習をすることが要諦である。特に躾については実行の反復練習によつて習慣化して行くことが必要である。【以下、次回】

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