礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

国民学校の国語教育は音声面の修錬を重視した

2016-01-30 03:15:03 | コラムと名言

◎国民学校の国語教育は音声面の修錬を重視した

 ここ数日、清水甚吾『国民学校学級経営法』(東洋図書株式合資会社、一九四一)という本に依拠しながら、戦中の「国民学校」の教育について紹介してきた。本日は、その四回目(最後)である。
 本日、紹介するのは、第十一章「初等科第一学年の学級経営」の第三節「国民科の教育」の後半である。

 4 国語教育 国語は読み方・綴り方・書き方、話し方の四分節があるが、此の四分節の完全な教授機能は、児童用書の「ヨミカタ」と「コトバノオケイコ」(練習書)並に教師用書の三者が一体不可分として取扱はれることである。「ヨミカタ」は従来の読本に相当し、国語教授の中核で主体的な位置を占め、此の「ヨミカタ」の教材を活用して書き方、話し方乃至〈ナイシ〉綴り方の一部へと渡りをつけて行くのが「コトバノオケイコ」の練習書である。
(1) 児童用書の「ヨミカタ」
 国語の出発としては言語訓錬が重要である。従来の国語教育は直ちに文字を教へるといふことに進んだ。併し、国語には、口で語られる音声面と、文字で表はされる文字面との両面があって、国民学校の国語教育に於ては音声面の修錬が従来より重んぜられ、読み方に於ても綴り方に於ても、其の他の教科目に於ても重要視せられることになつた。特に国語の中に話し方といふものが設けられた。此のやうな精神に於て、「ヨミカタ」の最初には文字を提出せず桜花の下で体操して居る絵や先生が先頭に立つて円陣に児童を一列で行進させて居る絵等が描げられて児童と教師とがお話をして、児童の発する言葉を自然に訓練することになつて居る。このやうに「ヨミカタ」の最初は国語の音声面から出発して、発音、話方訓練をする。発音の指導には、教師の模範が大切であるが、模範のみでは児童自身がどんなに口を開いて居るかわからないから、鏡に向つて教師の示した模範の通りに口を開く訓練をすることが頗る有効である。私の学校では、幸に体育館に畳一畳位の面積を有する鏡が四面一ところに設備してあるから、そこへ一年生の児童を引率して行つて発音訓練することが出来る。
 発音・話方訓練を最初にやつても、之は継続的に訓練して行かねばならぬ。児童用書「ヨミカタ」の一では最初に以上のことを提出して、其の後は大体従来の国語読本のやうに一部二部三部に分けて組織し、たゞ二部から三部への移行を円滑にしてある。一年の児童は叫びの如き言語によつて、「アカイアカイアサヒアサヒ」「ハトコイコイ」「ヒノマルノハクバンザイバンザイ」「ハシレハシルシロカテアカカテ」といふやうに感動的の言葉で反復的命令型を使ふことが非常に多い。かかる低学年児童の言語の発生系統と、此の期の児童生活が鳥獣草木を自分と同じやうに考へる主観と客観とが未分化時代といふことから材料をとつて、言語の訓練を組織的にするやうになつて居る。
 次に他教科と教材内容に於て密接な関連を保たせ縦と横との有機的な取扱をしなければならぬやうになつて居る。例へば、「ヨミカタ」で「ヒノマルノハタバンザイ」を教へると、修身では「テンチヤウセツ」、芸能科の音楽では「ヒノマル」の唱歌、図画では「ヒノマルノハタ」といふ風になつてゐるから、自然綜合的の取扱が出来て非常に面白い。教師が、児童に興味をもたせ教授の効果を十分にあげるやうに工夫と注意とが肝要である。
 以上の第一部を終つて第二部に入ると、上から児童に与へる言語「オハヤウ、コザイマス」とか「センセイサヤウナラ」とかいふやうな躾の言葉を提出して、この言葉を通して躾をして行く。又電話遊びの如き児童の遊戯を利用して大人の言葉を児童に自然に使はせ、最後は「アメガヤミマシタ」のやうに敬体口語に到達する。
 第三部になると、おもむろに、一般的な叙述形式によつて児童が興味をもつ「舌切雀」とか「桃太郎」とかの昔からの童話を提出して、それを取扱ふ。尚、童話に於ては、亀と鳶〈トビ〉とが海の話をするやうな新作の童語が取り入れてある。このやうにして「ヨミカタ一」の取扱をすることによつて「ヨミカタ二、三、四」への発展の素地が培はれることになる。
「ヨミカタ」二も小学国語読本の材料が大分取り入れられるが、特に皇国民の錬成といふことを国語を通して行つて行くことに細心の注意が払はれて居る。形式上に於ても、従来の分別〈ブンベツ〉書き方を改めて新しい形式とし、「てにをは」等の助詞は、其の上に来る言葉につけることになつて居る。又平仮名は読本の順序に従つて教授して行くと共に、前に片仮名の覚え方を述べたやうに、平仮名のカルタ取や平仮名五十音図を提出して其の縦読み、横読み、逆さま読み等を指導し、表現にも平仮名を適宜使用させるがよい。
(2) 児童用書の「コトバノオケイコ」
 今度新しく生れた児童用書の「コトバノオケイコ」は、児童の生活語の発音訓練であるとか、標準語の訓練であるとか、文字語彙の習得であるとか、或ば話し方や書き方の修練とかをさせる為に、其の仕事を導き、行はせるのに編纂されたものである。その内容は大体次のやうに五つの部面が含まれて居る。
 イ 話し方へ発展する部面 児童の生活を省みる緒〈イトグチ〉が与へられ、そこから、子どもらしい話材なり、話題なりが湧き出て、それによつて、児童と教師との問答が行はれ、自然に話し方が正しいものに導かれて行くやうにする。
 ロ 言葉遣ひに注意を与へる部面 言ひ間違ひ易い言葉について、それを正し、又書き誤り易い言葉について注意を促し、或は敬語を子どもなりに覚えさせたり、語彙を豊かにさせたりして、知らず知らずの中〈ウチ〉に、言葉遣が磨かれて行くやうにする。
 ハ 語法に関する部面 一年の子供にのみこめるやうな、極めて平易なものを示し、而かも国語を学ぶ上には是非知つてゐなければならぬものを少しづつ提出し、文法的な知識を与へるのでなく、幾度も反復練習することによつて目然に身につくやうに作業をさせる。
 ニ 綴り方へつながる部面 「ヨミカタ」の教材に即して、物の見方や考へ方を取り扱ひ、時には「ヨミカタ」の長文を要約させて記述させたり、叙述の形を対話の形に改めさせたり、単純化された短文を児童生活内に取り入れて拡げさせてみたり、文字によると表現といふ仕事の基礎を錬成する。.
 ホ 書き方を修練する部面 細字の手本を示し、それによつて児童は文字の画〈カク〉とか、筆順とかを覚え、視写や聴写等専ら細字の練習をさせて、書写能力を養ふ。
(3) 正しく読む力の養成
 以上主として読み方についてのことであるが、読み方に於ては正しく読む力を養ふことが大切である。一年あたりでは、文字文章を読まなくて想だけを〔ママ〕記憶によつて読んで行く空読みといふのがある。それで、指で文字を指しながら読み、文字を通じて思考感動と一体にして行くやうにする。又一年の児童には、文字を指して読めてないのがあつて一字一字の拾ひ読みをするものがある。是等の児童には、一字一字拾ひ読みから、一つの言葉を一掴みにして読むやうに指導し、それから文章全体が読めるやうにし、文章が思考感動と、不可分で一体となるところへ導いて行く。そして、読みは反復練習によつて、正しく読む力の養成に力を注がねばならぬ。読み方に於て、読むといふことが出来なくては、読み方は破産である。
 尚、今日色々の児童読み物がある。これについては、皇国民の錬成といふ立場からと児童の興味といふ方面から選択して指導する必要がある。従来は、単に児童読物として漫然と父母も教師も提供し、或は放任の形であつたが、国民学校が実施されてからは皇国民の錬成といふことから読書環境を構成してやることが学級経営の一任務である。
 このやうに、学校及び家庭の読書環境を国民学校の目的によつて構成して、児童に多く読ませ本を読むことの趣味を養成することが極めて大切である。本を読むことを好むか嫌ふかといふことは、先天的の素質にもよるが、教師や父母の躾により注意によつての習慣が非常に関係するものである。小さい時に親しみ本を読むことに趣味をもつた者は、大きくなつて本を読め勉強せよといはれないでも本を読み勉強する。そして、上学年に進むにつれて読書力のあるものと然らざる者とはすべての教科目の学習に大きな関係をもつものである。かつて選抜しない児童を一年から六十余名持ち上つたことがある。三年四年頃迄、非常に優良児が多いと思つてゐたところ、五年になり読本はむづかしくなり、国史地理が特設されてからは、読書力のあるものと然らざるものとに開きが生じて来た。そして一年生の時から本を好んで読書して来た一児童は、国史の勉強に於て大森金五郎氏著の「大日本全史」といふ分厚い書物を難なく読破して国史の時間に活躍したものであつた。
 尚、読み方に於ては、読解力と発表力とを陶冶することになつて居る。読解力は発音に出発する読みの面からいつた読む力のみでなく、意味がわかり言語の書写を通しての綜合的の読解力をさす。国民科国語の目的の中にある理会力と相通ずるものである。発表力は読解力によつて得たものを発表させ、且其の他の色々な場合に成るベく発表させてみるやうにする。発表力を養ふには言語練習の方面から音声言語の発表力と文字文章による発表力とある。以上のやうに読み方に関連して発表力を陶冶するのみとせず、すべての場合に発表を尊重して発表力を養成する。綜合授業に於ては其の中枢が生活体験と表現とにあることを述べて置いたが、自然観察に於ても発表力の養成に資しながら自然観察の目的を達するやうにするがよい。要するに、あらゆる機会に発表力を陶冶する。
(4) 綴り方
一年は特に生活表現の綴り方を尊重して綴り方だけでなく童謡も作らせるがよい。ただ従来は自由発表に任せた為に自然主義的な傾向に落ちた傾向がある。それで、児童の生活に即して物の見方、考へ方を指導して、児童の生活そのものを適正に指導することが大切である。以上の点に注意して盛〈サカン〉に綴らせたり、童謡を作らせたりすると、片仮名平仮名の運用が出来ると共に思想が伸び、児童が国語に興味をもつやうになる。そして絵を入れさせるがよい。
(5) 書き方
 国民学校に於ける「書き方」は在来のものと趣を異にし、低学年に於ける文字訓練の基礎をなすと共に「読み方」の書取と相俟つて、緊密に連絡して行かねばならぬが、実際問題としては、初等科一・二年では「書き方」を課し、明確端正に文字を書く基礎を、特に低学年に於て指導するのであつて、読方に付随して随時にこれを行つて行く。即ち「ヨミカタ」及び「コトバノオケイコ」の書写を盛にさせるがよい。併し先入主となるものであるから、明確にそして綺麗に書く躾をして行き、筆順を正確に指導する。児童の帳簿は常に之を見てやることを怠つてはならぬ。
(6) 話し方
 話し方といつて、時間を特設して長い物語をさせるといふものではない。読み方の教材其の他遠足・運動会・学芸会等の諸行事に即して、児童に極めて短い話を自由に発表させる。読本の挿画の話や文章の劇化をする。児童は童話を非常に好むものであるから、教育的に吟味して童話を話してきかせたり、児童にもさせたりすることはよいと思ふが、何等指導しないやうなだらしのない話方になつてはいけない。もつときびきびした言葉の躾を中心とした話方を指導して、児童の自由な発表を次第に醇化することに努める。
 話し方と共に聴き方の訓錬をする。私は児童が教壇に出て話す時には、一般の児童に拍手させて居る。其の拍手の目的は第一はしつかりしつかりと応援の気持をあらわし、第二はよく聴きますといふ意味に於て両手を膝の上にキチンと置かせる。学校全体が大学芸会等をする時には、よく聴かない児童がある。かかる場合には「話上手より聴き上手」といふことをしつかりと話しきかせて、聴き方の訓練をして行く。

 本書『国民学校学級経営法』を一読して、最も興味を抱いたのは、実は、本日、紹介した部分であった。それは、戦中の「国民科」における「国語」教育の理念、その授業の実際、『ヨミカタ』、『コトバノオケイコ』といった教科書の内容に触れていたからである。
 昨年一二月一三日のコラム「井上赳が語る、戦中における教科書編修事情」で見たように、「読本の神様」井上赳は、文部省図書監修官として、この「変革」に関わっていた。そのときのことについて、井上は、のちに、次のように回想した。

 ……この国民学校令を機として、国語にば「話方」が分科としておかれることになったのに乗じ、私は皮肉にも在来の読本の外〈ホカ〉に「ことばのおけいこ」というものを編纂し、国語教科書を二本建〈ニホンダテ〉にする計画をさえ立てた。これがために用紙を乱費するものだという上層部の叱責的な非難もあったが、私は強引に押し進めた。戦後の言語教育といえばわが事のように論じたがる現在の人も、戦前すでにこうした考え方か実行に移されたこと――もちろんあわただしい時機に際してのきわめてお粗末な出来ばえでばあったが――について先輩のなめた苦労だけは汲んでほしいと思う。そして記憶しておいてもらいたいことは、あの神がかりの極端な国粋圭義の権化〈ゴンゲ〉と見られがちな国民学校の方針を具体化すべき教科書の編修方針が、その実、根本的に児童中心の自由教育をまもりぬくべき仕組みにできていたことである。

 この井上の言葉には、ウソも誇張もない。そのことを私は、清水甚吾の『国民学校学級経営法』を読んで知った。いずれにしても、この本は、戦中の初等教育の実情を知りうる、きわめて貴重な史料であると言えるだろう。

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