礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

鶴見俊輔、水木しげるを論ずる

2016-01-07 03:05:58 | コラムと名言

◎鶴見俊輔、水木しげるを論ずる

 昨年末、書棚を整理していたところ、『水木しげる集』(筑摩書房、一九六九)が出てきた。「現代漫画」全一五巻のうち「5」にあたるものである。
 巻末に、「ねぼけ人生」と題する水木しげるさんの文章があり、そのさらにあとに、「紙芝居と貸本の世界から」と題した鶴見俊輔さんの解説がある。鶴見俊輔さんは、水木マンガの熱心な読者であった。このおふたりが、前後して(ともに昨年のうちに)亡くなられたという事実に、若干の感慨を覚える。
 さて、本日は、鶴見俊輔さんの解説「紙芝居と貸本の世界から」を紹介してみよう。この解説は、九ページに及ぶものだが、紹介するのは、最初の三ページ分である。

 紙芝居と貸本の世界から
  ――作家と作品――  鶴見俊輔
 水木しげるは、大正十三年〔一九二四〕三月、鳥取県境港〈サカイミナト〉市にうまれた。高等小学校を出てから図案の学校に入り、二年ほどでやめた。大阪の夜間中学校をへて、武蔵野美術学校に入った。召集されて陸軍に入り、歩兵としてラバウルに行く。ここで左手を失なった。ラバウルで彼は、死の世界と背中あわせになる体験とともに、近代文明以前の手ごたえのたしかな生活を知った。文明以前への回想と死の世界との交流とは、水木しげるが戦後の日本を描く時に補助線としてくりかえし用いる方法であり、水木の現代生活の描写はこの故に、独自のあつみをもつようになる。
 陸軍一等兵として昭和二二年〔一九四七〕日本にかえって来てから、水木は、神奈川県の旧陸軍病院に入院した。画家になる志をすてにくく、ふたたび武蔵野美術学佼にもどるが学費つづかず退校した。白衣の傷病軍人として、このころ数寄屋僑にたったこともある。
 神戸にうつって、水木通りの水木荘というバラックのアパートの経営などもした。これが彼のペンネームの由来である。しばらくして紙芝居の絵をかきはじめた。戦後十年ほどは、他の娯楽がすくなかったので、紙芝居は誕生以来二度目の隆盛期に入っていた。やがて東京にかえって来た。そのころにはすでにテレビにおされて紙芝居は下火になっていたので、紙芝居の親方の加太こうじは、漫画本をかくことを水木にすすめた。その時から、貸本屋用の漫画作家としての水木しげるの活動がはじまる。
 今では、紙芝居についで、貸本屋も、下火になってしまったが、テレビの登場からその普及までのわずかな期間、貸本屋は、テレビをもっていない家庭、テレビが家にあってもそのチャンネル権をもつことのできないこどもにたいして、かけがえのないたのしみをあたえた。今から八年ほど前に、私の演習に来ていた学生の中歳一が貸本屋のおとくいをしらべたことがある。その時、貸本屋から一ヵ月に百冊も漫画の本を惜りて読む人が二人あらわれたが、二人とも、クリーニング屋のすみこみの店員だった。二人は、ひまの時間にも、やといぬしの家で一緒にテレビを見ているのでは休みにならないと考えてか、休みの時間は、自分の部屋にとじこもって、一日三冊のわりあいで漫画を読むことをえらんだ。同年輩のものと、あまりつきあいのもてない孤独の境遇にいるこれらの少年を、水木しげるは、その愛読者層の中にもっていたのである。このことは、投書などをとうして一躍に雑誌や新聞とむすぴつく漫画家たちとはちがう性格を、水木の作品にあたえた。今日では、彼の作品は、テレビや大雑誌にもあらわれるようになったけれども、依然として漫画家としての発足当時の貸本屋読者層の悩みや望みをにないつづけている。チャップリンが、その活動の最後(といってもまだ終っていないのかもしれないが)の段階まで、初期の彼の映画の観客層だったアメリカの移民労働者の悩みと望みをにないつづけたように、水木しげるも、貸本屋の時代の精神を最後までになってほしい。
 紙芝居、貸本屋の次に水木の創作の場を提供するのは、『ガロ』という漫画雑誌である。長井勝一〈カツイチ〉の主宰する青林堂発行のこの雑誌は、昭和三九年〔一九六四〕七月に創刊されて、今日に至った。この雑誌が、創刊以来、水木しげるに、自分の持味を妥協しない作品をかかせる大きな刺激となって来た。ここでも、今の日本の社会秩序でただ成功をねらうことを第一の目標としない編集者と読者の熱気は、作家の精神につよくはたらきかけた。『ガロ』の編集者・作者・読者共同体が、水木の作品を育てたもう一つの場所である。
 水木しげるの書いた二百冊あまりの漫画本の中で、私は、百冊あまり読んだくらいか。そのくらい読んでも、すこしも私はあきていないし、水木の作品を必死の思いで追いかけ貯えている人々の気持ちが、わかった。今、ここに一冊の本として出した見本は、あくまでも見本にすぎないもので、水木の作風が全体としてこれで埋解できるものではない。
 初期の戦記もの、外国だねの翻案ものなどが、くりかえしくりかえしあらわれては後の作品では別の形をとってゆく過程は、おもしろいものだ、同じたねの作品を何度か書いているが、それらはやがて、それぞれの傾向が一つの完成品の形をとって水木しげる全集(そういう本が出ることを希望する)の中に定着するだろう。だが、貸本屋用単行本や数多くのこども雑誌にかかれた作品もまた、状況にすぐさま反応する作家の活動として漫画という様式の本格的な面目をつたえている。漫画は、その時、その時に、読みすて、見すてにされるところにその様式としての存在理由があるとも言えるからだ。
 水木しげるは、短篇作家としてだけでなく長篇作家としてもすぐれている。このことは、水木の作品のコレクターだけが知っていることかもしれない。この集におさめた『河童の三平』、『悪魔くん』、『幽霊一家』(墓場の鬼太郎)は、いずれも長篇として読む時に、迫力をあらわす。鬼太郎もののほうは、まだ完結していないので、わからないが、『河童の三平』と『悪魔くん』とは、読みつづけて終りまで来た時の幕ぎれがあざやかだ。そのために、物語全体の印象がわれわれ読者の人生の中にとけいって、これからも自分とともに生きて行くであろうという予感をもつ。その味わいは、この小さな選集ではつくすことができない。【後略】

 加太こうじの名前が出てくる。三日から五日にかけて紹介した『国定忠治・猿飛佐助・鞍馬天狗』(三一新書、一九六四)の著者である。なお、加太こうじは、同書の「あとがき」において、「この本を書くにあたって、直接お世話になった」四氏の名前を挙げている。そのうちのひとりが、鶴見俊輔である。

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