礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

藤村操の自殺前後(山名正太郎)

2016-01-15 05:29:09 | コラムと名言

◎藤村操の自殺前後(山名正太郎)

 本日は、山名正太郎の『思潮・文献 日本自殺情死紀』(大同館書店、一九二八)という本から、「藤村操の自殺」について書かれている箇所を紹介してみたい。藤村操の華厳の瀧投身自殺(一九〇三)については、一昨年の一二月に、若干の資料を紹介したが、併せて参照いただければ幸いである。
 山名正太郎〈ヤマナ・ショウタロウ〉は、大阪朝日新聞社名古屋支局長などを歴任したジャーナリストで、三〇冊以上の著作を持っている。一八九四年(明治二七)生まれだが、没年は不詳という(ウィキペディア「山名正太郎」)。
 以下に引用するのは、『日本自殺情死紀』の【三】「自殺心中世相史」の(四)にあたる文章である。

 (四)藤村操の自殺前後
 華厳の瀧は、日光山七十八瀧のうちの雄なるものといはれてゐる。日光町役場では最近の事、倉庫の片隅から埃〈ホコリ〉まみれの古い一冊の台帳を発見して、大きな拾ひものでもした以上に喜んだことであつた。
 といふのは、毎年の例であるが、ことにその夏は、どうした訳か華厳の瀧に投身自殺するものが頻々とあつたのである。すでに死体となつて発見せられたものさへ男女合せて七十幾人。それにはまだ瀧壷にふかく埋められて、死体の発見せられないものが可なり多く、また一方には、身殺〔ママ〕未遂として、日光警察署の係員に捕つたものも、日に数件といふ有様であつた。
 そこで、これでは如何〈ドウ〉もならない。何とか方法を講じなければならぬ。と、日光署と役場当局とが珍らしからぬ協議会をひらいたもとで、迂遠な話に似てはゐるが、何でも一つ、確かな方策の上に立つて、根本的に自殺予防策を考へ〔る〕がよからうといふ議がなつた。
 でまづ、第一に古い台帳をくつてみて、華厳病者の年齢や原因または季節といふやうなものを調べあげて統計をつくることなつた。
 幸ひなことには、発見せられた二昔半前〔二五年前〕の過去帳たるその蔓帳をくりひろげてみると、その変死欄のイの一番に
 △日時明治三十六年五月二十三日△原因哲学研究のため△住所東京市小石川区△年齢十八歳△氏名藤村操
とちやんと載つてゐる。
 なるほど、華厳行の筆頭は、さうしてみると案に違はず、巌頭の感を刻んで投身した若い哲学者藤村操その人であつで、かれの以前には華厳の瀧で投身自殺したものは一人も無かつたことがわかるのである。
 もつとも、華厳の瀧で自殺した人はその以前にあつた。何でも益田某といふ青年が失恋のことで投身したといふ前例がたしかにあるといはれてゐるが、それは記録にのつてゐないから、まづ華厳行の第一人者は藤村操としなければならない。
 まことに近代自殺史の第一頁を飾るものは、確かに藤村操の死であるといふことが出来る。もちろん痴情関係や精神異状などで自殺を遂げた人は、その当時でも別段に珍らしい事件ではなかつた。しかし学窓に育つた一少年が、『万有の真理を疑ふ』といふ大みだしつきで、『人生不可解』をとなへて、しかして吾人が存立の内外の事理を疑ひ、かの絶筆たる宣言をのこして華厳の瀧ふかく飛込んで永遠の水屑と消えたのであるから、それは、まことに空前な椿事だと世間に騒がれたのも無理ではない。
 藤村操の死が世間に騒がれたことは種々の原因がある。まづ第一に、自己の思想と自己の存立の葛藤衝突といふ点にあるのである。死に方がすこぶる小説的であるのがその二つ。死を撰んだ場所が戯曲的であるのがその三つ。当人が十八歳の少年であつたことがその四である。最後にかれの叔父ざん〔那珂通世〕が文学博士であつたといふ一事も加はつてゐたのである。
 とにかく一少年の死は大事件には違ひなかつたのである。当時の新聞紙の通信欄は至つで貧弱なものであつたから、この事件でも、事件発生後数日たつてから「あつたさうだ」式に報導した新聞紙も多かつたが、漸次これが広く伝はると共に各新聞紙は社説をかゝげて(これも今日の如く日々の紙面には社説はなかつた)一少年の死を評論した。そこで乙れが所論に賛否を唱へるもの随つて多く、実に世論は囂々〈ゴウゴウ〉たるものがあつた。【以下、次回】

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