礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ヒュー・バイアス『敵国日本』と伊藤述史

2013-03-26 09:10:12 | 日記

◎ヒュー・バイアス『敵国日本』と伊藤述史

 三月二三日のコラムで、「中野五郎は、その職業柄、ヒュー・バイアスの『敵国日本』を持ち帰ってきたのではないだろうか」と書いた。その可能性は高いと思うが、まだ断言はできない。
 ただ、ほぼ言えるのは、雑誌『世界』が紹介した抄訳「敵国日本」のもとになった原本は、中野五郎が持ち帰ったものではないということである。内山秀夫・増田修代訳『敵国日本』(刀水書房、二〇〇一)の「訳者解題・あとがき」(内山秀夫執筆)によれば、これは、伊藤述史〈イトウ・ノブミ〉という人物が、交換船で持ち帰ったものだという。
関係する部分を以下に引用しておこう。

 この記述〔『細川護貞日記』昭和一八年一二月一八日の項〕から伊藤(述史)がアメリカからもち帰った書物の中にバイアスの本書があって、この頃になって伊藤が読んで考えさせられ、細川〔護貞〕、富田(健治)に論旨を語ってきかしたことが分かる。少なくとも帰国時に没収されたのではなかった。ちなみに、伊藤述史〈イトウ・ノブミ〉は明治十八年愛媛県に生まれ、東京高商領事科を明治四十一年に卒集、外務省人省。おもにヨーロッパ諸国に勤務し、昭和二年国際連盟事務局事務官、昭和五年事務局次長。国際連盟の満州事変審議では日本の権益を唱えて活躍。昭和七年リットン調査団の中国入りに同行。昭和八~十二年ポーランド公使。昭和十五年近衛第二次内閣の内閣情報部長、ついで初代情報局総裁。昭和二十年貴族院勅選議員。昭和二十一~二十六年公職追放(伊藤述史については、臼井勝美稿『朝日人物事典』〈朝日新聞社、一九九〇年〉による)。
 細川は〔日記によれば〕翌十二月十九日に「高松宮邸伺候、直に〈タダチニ〉拝謁」し、「各方面との会見談」を「言上申し上」げているから、バイアスの書物の「通読」も話題にあがったかもしれない。十二月二十八日に近衛邸を訪問し、「ヒュー・バイヤス〈ママ〉の『敵国日本』を拝借して帰る」との記述がある。十日にもたりない日時で「抄訳」ができあがったことになる。想像するより他に方法がないのだが、高松宮が細川の話に興味を示したことで大車輪の翻訳作業が行われたのではないだろうか。

 これによれば、ヒュー・バイアスの『敵国日本』は、日本の敗色が濃くなった昭和一八年末に、政府中枢の一部から注目され、ただちに「抄訳」が作成され、関係者に頒布されたということらしい。
 とすれば、憲兵が、この『敵国日本』という本に注目したのも、そうした政府中枢の一部の動向との関わりからであって、最初から『敵国日本』という本の存在に注目し、その危険性を警戒していたわけではなかった、という推定が成り立つのである。【この話、続く】

今日の名言 2013・3・26

◎少なくとも帰国時に没収されたのではなかった

 ヒュー・バイアスの『敵国日本』(1942)は、交換船の帰国時に日本に持ち込まれた。その際は、その危険性が認識されていなかったのか、没収を免れたものがあった。内山秀夫・増田修代訳『敵国日本』(刀水書房、2001)の「訳者解題・あとがき」(内山秀夫執筆)の190ページに出てくる。

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