◎中村敬宇訳『自由之理』と「モルモニズム教」
昨日、ミルの『自由論』のうち、モルモン教について言及している部分を紹介してみた。
ミルの『自由論』は、明治五年(一九七二)、中村敬宇によって翻訳され、『自由之理』というタイトルで出版された。これがその後、自由民権運動に多大な影響を与えたことは、よく知られている。
ところで、中村敬宇は、ミルがモルモン教に言及している部分をどのように翻訳しているのだろうか。これが気になって、国会図書館の近代デジタルライブラリーで同書を閲覧してみた。国会図書館には、明治五年版も架蔵されているが、今回閲覧したのは、明治一〇年版である。
当該箇所は、同書の二九八~三〇三ページ。引用にあたっては、カタカナ文をひらがな文に直した。
窘逐の事にて、正しきものあり、モルモニズム教〔モルモン教〕を唱ふる人、顕はるるときは、英国の民衆、これを窘逐せんと欲する情思、発出スルことなり。抑も〈ソモソモ〉この教〈オシエ〉は、新たに天の黙示を得たりと詐はり〈イツワリ〉称するものにして、この教を創め〈ハジメ〉たる人、卓然〔ぬきんでて〕信ずべきものにあらず。然るに〈しかるに〉これを信ずるの人、数十万の多きを致し〈イタシ〉、今ま新聞紙、火車〔汽車〕、鉄道、電信の世代に於て、この教徒、一会社を創立するに至れり、その最も異とすべきものは、その他善き教法にあるが如き、マルテイル(教法の為に死を致す人)を有ち〈モチ〉、その先知者、即この教を創立する人は、乱民に殺され、これが信士となれる輩〈ヤカラ〉また無法なる殺害を受けたり、この教を奉ずる党衆、その教の生ずる地方より■出され〈オイダサレ〉、寂莫無人の地に逃るるに至る、英国許多〈アマタ〉の人、宜しく兵を出してこれを攻め、それを強迫して、世間一同の説に従はしむるを当然と為すと云へり(然れどもこれ為し難きの事なり)この教の条款の中に一人にて数婦を娶る〈メトル〉ことを許定〈キョテイ〉せり、この事回教〈イスラム教〉の人、印度しな支那の民には、習俗となることなれども、英語を話す人、西教〈キリスト教〉を奉ずる人はこれを甚だ〈ハナハダ〉嫌ひ悪む〈ニクム〉ことなり、余〔わたくし〕この教を悪むこと、他人より甚し、然れども、【後略】
予想通り、難しい漢字が使われていた。まず冒頭の「窘逐」であるが、手持ちの漢和辞典に出ていない。おそらく、〈キンチク〉と読み、苦しめ放逐することを指すのであろう。また、■は、「超の召のところに旱が入る」漢字で、およそ見たことがない難字である。ルビには「オヒ」とあるので、何とか意味は通る。
「条款」は、原文では「条欸」となっていたのだが、文脈から考えて誤字または誤植と判断した。なお、この二字には、左ルビで「カヂヤウ」(箇条)という「注」が施されていた(明治初年の文章では、左ルビは「注」になっている場合が多い)。
漢字はいかにも難しいが、文章そのものはきわめて明瞭である。何よりもこれは、中村敬宇の英語力、および、ミルの言わんとするところを理解しえた思想的力量、さらにはその日本語力によるところが大きいと思われる。【この話、続く】
今日の名言 2012・9・2
◎他国ヨリコノ人民ヲ妨ゲ、ソノ好メル律法ヲ禁ズベキ理ナシ
J・S・ミルの言葉。中村敬宇訳『自由之理』明治10年版の300ページにある。「コノ人民」とはモルモン教徒のこと、「ソノ好メル律法」とは、一夫多妻制を含むモルモン教の教義のことである。柳田泉の訳では、この部分は、「彼らがその好むがままの法律の下に生活することを禁止しうる原理があるかどうか」となっている。原文に忠実なのは柳田泉訳のほうだろうが、中村敬宇訳のほうが簡潔で力強い。