2日前のブログに書いた番組を見て、小椋佳自身が、今まで生きてきて、現在どのようなことを考えて生きているのかということに興味を持った。
番組でも扱われてはいたが、もっと知りたいと思ったのだった。
そこでその日見つけたのが、そのブログにリンクしておいたネット上の記事だった。
もう少し知りたいなと思って調べてみると、著者名が小椋佳で、1冊の本が出版されていた。
その書名も、「もういいかい まあだだよ」という。
出版日は、2021年の12月25日。
あまり日がたっていないし、放送タイトルやアルバムタイトルと同じ「もういいかい」という言葉があるので、ちょうどよい本だと思った。
図書館で検索してみたら、その本があると知った。
ラッキーと思い、さっそく借りてきて読んだ。
本の帯には、
「昭和、平成、令和を共に駆け抜けてきた人に贈る 魂のラストメッセージ」
「稀代のシンガー・ソングライターが生涯をかけて見出した『生きる意味』とは?」
という言葉が並んでいた。
「共に駆け抜けてきた人に贈る」というところは、気に入った。
本書は、巻末に「語り下ろし」となっていたが、語り口調で書いてあるし、文字数も多くなく読みやすかった。
内容は、先日の番組同様に、生い立ちから出会った人たち、銀行での経験などが書かれていた。
さすがに、1時間半のテレビ番組よりも詳しく、まだ知らないエピソードも交えてあった。
ただ、私が知りたかったのは、今の彼の生き方や人生に対する考え方であった。
それは、本書の後半にちりばめられて書いてあった。
生きることは、むなしく苦しく意味もなく、孤独で寂しいもの。
僕の底止まりの感覚としてずっとあります。
「死んでしまうのがわかっているのに、なぜ生きていかなきゃならないのか」
そう問われたら、一種の諦観かもしれませんが、こう答えますね。
「生きていかなきゃいけないとも、思わないな」って。
世の中は
食うて糞(ほこ)して寝て起きて
さてその後は死ぬるばかりぞ
と、一休和尚の歌を出して、
生きるとはそれだけのことさ、という思いは、僕のなかにも常にあります。
あるがままに。
自然(じねん)のままに。
ビートルズの『レット・イット・ビー』にも通じますよね。
…生きることについて、「むなしく苦しく意味もなく、孤独で寂しいもの」とズバリと言い切っている。
そうでありながら、絶望しているわけではなく、非常にうまく力が抜けたとらえ方をしていることに、うなずいてしまう。
あるがままに、自然のままに物事をとらえて、力まずに生きる。
そうやって生きていくのは、私の中にある思いが活字として出ているような思いがする。
77年生きてきて、思うんです。
生きる意味なんて、なかったと。
生きることそのものが無意味だ、ということではありません。
「生まれつき与えられる意味」なんてものは、どこにもなかった。
生きる意味は、自分で創るしかないのです。
自分探しより、自分創りなのです。
僕の場合、みずから創り上げた「生きる意味」は、歌を創ることでした。
歌を創り尽くしました。
いい人生を味わい尽くしました。
そして、生きる意味については、これまたズバリ「生きる意味なんて、なかった」と答えを出している。
ただし、生きることそのものを無意味とは言っていない。
「生きる意味は、自分で創るしかない」…名言だよなあと思う。
やはり、生きる意味の答えを出すのは自分なのだ。
小椋佳は、歌を創ることが自分の生きる意味だった、と断言している。
さて、自分の場合は、どうだろう。
これだと自信を持って言えるだろうか?
自信をもって言えるものがあるだろうか?
そのあたりは、もう少し時間をかけて考えてみたいと思う。
いかにも、いつ命の終わりが来てもよいようなことや、実際に足腰が弱ってきていることを書いていながらも、小椋は、1年前からピアノを習い出したとか、野菜の栽培に楽しみを見出したとか、稽古場兼スタジオを造りたいとか、様々な創造活動に取り組んでいる。
その前向きな姿勢は、やっぱり素晴らしい。
小椋佳が自分は人生の初冬にいるというようなことを書いていたが、そうならば私は、今晩秋にいるのかもしれない。
初冬の人の言は、非常に示唆に富む。
自分も、創造的な活動の多い暮らしをしていきたいという思いが強まった。
番組でも扱われてはいたが、もっと知りたいと思ったのだった。
そこでその日見つけたのが、そのブログにリンクしておいたネット上の記事だった。
もう少し知りたいなと思って調べてみると、著者名が小椋佳で、1冊の本が出版されていた。
その書名も、「もういいかい まあだだよ」という。
出版日は、2021年の12月25日。
あまり日がたっていないし、放送タイトルやアルバムタイトルと同じ「もういいかい」という言葉があるので、ちょうどよい本だと思った。
図書館で検索してみたら、その本があると知った。
ラッキーと思い、さっそく借りてきて読んだ。
本の帯には、
「昭和、平成、令和を共に駆け抜けてきた人に贈る 魂のラストメッセージ」
「稀代のシンガー・ソングライターが生涯をかけて見出した『生きる意味』とは?」
という言葉が並んでいた。
「共に駆け抜けてきた人に贈る」というところは、気に入った。
本書は、巻末に「語り下ろし」となっていたが、語り口調で書いてあるし、文字数も多くなく読みやすかった。
内容は、先日の番組同様に、生い立ちから出会った人たち、銀行での経験などが書かれていた。
さすがに、1時間半のテレビ番組よりも詳しく、まだ知らないエピソードも交えてあった。
ただ、私が知りたかったのは、今の彼の生き方や人生に対する考え方であった。
それは、本書の後半にちりばめられて書いてあった。
生きることは、むなしく苦しく意味もなく、孤独で寂しいもの。
僕の底止まりの感覚としてずっとあります。
「死んでしまうのがわかっているのに、なぜ生きていかなきゃならないのか」
そう問われたら、一種の諦観かもしれませんが、こう答えますね。
「生きていかなきゃいけないとも、思わないな」って。
世の中は
食うて糞(ほこ)して寝て起きて
さてその後は死ぬるばかりぞ
と、一休和尚の歌を出して、
生きるとはそれだけのことさ、という思いは、僕のなかにも常にあります。
あるがままに。
自然(じねん)のままに。
ビートルズの『レット・イット・ビー』にも通じますよね。
…生きることについて、「むなしく苦しく意味もなく、孤独で寂しいもの」とズバリと言い切っている。
そうでありながら、絶望しているわけではなく、非常にうまく力が抜けたとらえ方をしていることに、うなずいてしまう。
あるがままに、自然のままに物事をとらえて、力まずに生きる。
そうやって生きていくのは、私の中にある思いが活字として出ているような思いがする。
77年生きてきて、思うんです。
生きる意味なんて、なかったと。
生きることそのものが無意味だ、ということではありません。
「生まれつき与えられる意味」なんてものは、どこにもなかった。
生きる意味は、自分で創るしかないのです。
自分探しより、自分創りなのです。
僕の場合、みずから創り上げた「生きる意味」は、歌を創ることでした。
歌を創り尽くしました。
いい人生を味わい尽くしました。
そして、生きる意味については、これまたズバリ「生きる意味なんて、なかった」と答えを出している。
ただし、生きることそのものを無意味とは言っていない。
「生きる意味は、自分で創るしかない」…名言だよなあと思う。
やはり、生きる意味の答えを出すのは自分なのだ。
小椋佳は、歌を創ることが自分の生きる意味だった、と断言している。
さて、自分の場合は、どうだろう。
これだと自信を持って言えるだろうか?
自信をもって言えるものがあるだろうか?
そのあたりは、もう少し時間をかけて考えてみたいと思う。
いかにも、いつ命の終わりが来てもよいようなことや、実際に足腰が弱ってきていることを書いていながらも、小椋は、1年前からピアノを習い出したとか、野菜の栽培に楽しみを見出したとか、稽古場兼スタジオを造りたいとか、様々な創造活動に取り組んでいる。
その前向きな姿勢は、やっぱり素晴らしい。
小椋佳が自分は人生の初冬にいるというようなことを書いていたが、そうならば私は、今晩秋にいるのかもしれない。
初冬の人の言は、非常に示唆に富む。
自分も、創造的な活動の多い暮らしをしていきたいという思いが強まった。