先日、ポチッと押して購入した小椋佳のアルバム「もういいかい」。
2年前に最後のオリジナルアルバムとして発売されたものだ。
ほどなく手元に届いた。
アルバムにはどんな楽曲があるのかというと、全13曲で構成されていた。
- 開幕の歌
- ラピスラズリの涙
- 生きろ
- 僕の憧れそして人生
- 俺は本当に生きてるだろうか
- 笑ってみよう
- 花、闌の時
- 朝まだき
- 老いの願い
- 置手紙
- もういいかい
- 山河
- SO-LONG GOOD-BYE
この中で以前から知っていたのは、「山河」のみ。
五木ひろしに提供して、彼がよく歌っていたあの曲だ。
1曲目から全曲聴いてみて思った。
なるほど、「最後のオリジナルアルバム」だ。
「オリジナル」の意味は、「独創的」だとか「目新しい」という意味があるが、そこに「最後の」が付いているとおり、彼の人生での「最後」を意識した曲が多かった。
人生での最後、というと「老境」であることを意味する。
そう考えると、「老境」にいるソングライターが、それを意識した曲を集めてアルバムにした人はいなかったのではないかと思った。
かつての小椋佳のイメージどおりの曲は、「ラピスラズリの涙」「朝まだき」「花、闌の時」くらいであった。
それら以外、このアルバムには、まぎれもなく小椋佳が自らの老いをテーマに作った曲たちが散りばめられていた。
1曲目の「開幕の歌」は、コンサートの最初などに流されるのかもしれないが、思わず苦笑してしまう。
その2番は、
既にもう喜寿の歳 見返れば道遥か
年老いて体力の衰えは残酷で
ステージも最後まで持つかどうか不安です
兎に角に最後までお付き合い願います
…だもんね。
老境にいる小椋佳個人の今の思いや考えが出ている歌がずらりと並ぶ。
曲名を見ただけでも、それがわかる。
「生きろ」「僕の憧れそして人生」「俺は本当に生きてるだろうか」「笑ってみよう」「花、闌の時」「老いの願い」「置手紙」「もういいかい」「SO-LONG GOOD-BYE」…。
「花、闌の時」は、「闌」を何と読むのか分からなかったが、「たけなわ」であった。
「闌」(たけなわ)の意味は、「盛り、あるいは盛りを少し過ぎたとき」の意味である。
この曲名には、人生の盛りを過ぎた意味が入っていると見たくなる。
「生きろ」は、自分や周囲の人に対する叱咤激励である。
この世に美しい死 などというものはない
讃えられたり 褒められたり みんなまやかしさ
腹の底の 命の声を 裏切ることなく
出来る限り 手だて尽くし 生きろ 兎に角生きろ
在らん限り 力尽くし 生きろ 兎に角生きろ
精一杯生きろ
「置手紙」という曲もある。
その曲名を聞くと、われわれの世代では、「かぐや姫」の名曲を思い出す。
だが、小椋佳の曲は、「未だ蒼く若い人」への「悔いなく生きよう」というメッセージソングであった。
アルバムタイトルにもなっている「もういいかい」は、こんな詩で終わる。
流石に喜寿 疲れました 疲れました もういいかい
ラストの曲「SO-LONG GOOD-BYE」は、
涙するほど ただ感謝です
心は満ちて 幕引きの時
SO-LONG GOOD-BYE
こんなふうに、老境小椋佳の独白のような曲ばかりであるが、これはこれでよいと思う。
ラストメッセージが、次々と並んでいる。
今まで、このような高齢者のつぶやきのような曲が並んだアルバムなんてなかっただろう。
そんな意味でも、聴いてみる価値があると思った。
だから、五木ひろしの歌う「山河」もすごいが、小椋佳の歌う「山河」は、歌のうまさでは劣っても、さらに人生の重みと迫力が感じられた。
顧みて、恥じることない足跡を 山に残したろうか
永遠の水面の光増す夢を 河に浮かべたろうか
愛する人の瞳に 愛する人の瞳に
俺の山河は 美しいかと。
美しいかと。
学生時代や社会人時代に買った小椋佳のアルバムもよかったが、こうして自らの詩を大切にした曲たちというのは、小椋佳ならではのものだろう。
私より人生の一歩先を行く先輩の、偽りのない思いにあふれた歌たちが並んでいるように思えた、小椋佳のラストアルバムであった。