学校の行事に全校登山がある。
「全校」だから、1年生も頂上を目指す。
その登山中、がんばっているけど疲れてしまった1年生の子がいた。
「がんばれ。」
と励ましの声をかけた。
すると、なんと、
「がんばれない。」
という声が返ってきた。
え?がんばれない?
その返答のわけをじっくり考えたら、大人である自分自身の鈍感さに気付いた。
「がんばれ」という言葉は、「命令形」の言葉なのだ。
大人は励ましているつもりで発しているのだが、子どもにとっては、大人から命令されているように感じるのかもしれない、と思えてきた。
そこで、「がんばれ」をやめて、「よくがんばっているね」と声をかけることにした。
がんばりを認めて励ます言葉に変えたのです。
すると、どうだろう。
その子は、黙々と、懸命に歩いていくのだ。
この言葉は、長距離走の記録会でも使ってみた。
走っている子に、
「よくがんばっているぞ。えらい。」
と、声をかけていくのだ。
声をかけられた子は、たいていその後、一生懸命走って行った。
子どもたちは、自分ががんばっていることをまず認めてほしいのだ。
認められるとさらにがんばることができるのだ。
そんなことに気付かせてくれた「がんばれ」「よくがんばっているね」の言葉であった。
新潟シティマラソンに出場したとき、脚の痛みが限界に来て、もう走れなくなった。
ひたすら歩いているとき、「がんばれ」と応援された。
しかし、「がんばれ」なかった。
これ以上、がんばれないのだ。
大人の声援はまだしも、沿道の子どもたちに「がんばれ~!」と叫ばれるのはつらかった。
走らないのは、まるで、「やる気のない大人」のように見えただろうから。
走らないのは、私は、「もう走れなかった」からである。
子どもたちの生活にも、同様なことがあるのだろう。
子どもたちだから、応援してあげようという気持ちで、「がんばれ」と声をかけていくのだが、「がんばっているね。」の方が、はるかによいようだ。
一人一人のがんばる姿をみとめて、「がんばっているね、いいぞ。」と声をかけられる大人でありたい。
「全校」だから、1年生も頂上を目指す。
その登山中、がんばっているけど疲れてしまった1年生の子がいた。
「がんばれ。」
と励ましの声をかけた。
すると、なんと、
「がんばれない。」
という声が返ってきた。
え?がんばれない?
その返答のわけをじっくり考えたら、大人である自分自身の鈍感さに気付いた。
「がんばれ」という言葉は、「命令形」の言葉なのだ。
大人は励ましているつもりで発しているのだが、子どもにとっては、大人から命令されているように感じるのかもしれない、と思えてきた。
そこで、「がんばれ」をやめて、「よくがんばっているね」と声をかけることにした。
がんばりを認めて励ます言葉に変えたのです。
すると、どうだろう。
その子は、黙々と、懸命に歩いていくのだ。
この言葉は、長距離走の記録会でも使ってみた。
走っている子に、
「よくがんばっているぞ。えらい。」
と、声をかけていくのだ。
声をかけられた子は、たいていその後、一生懸命走って行った。
子どもたちは、自分ががんばっていることをまず認めてほしいのだ。
認められるとさらにがんばることができるのだ。
そんなことに気付かせてくれた「がんばれ」「よくがんばっているね」の言葉であった。
新潟シティマラソンに出場したとき、脚の痛みが限界に来て、もう走れなくなった。
ひたすら歩いているとき、「がんばれ」と応援された。
しかし、「がんばれ」なかった。
これ以上、がんばれないのだ。
大人の声援はまだしも、沿道の子どもたちに「がんばれ~!」と叫ばれるのはつらかった。
走らないのは、まるで、「やる気のない大人」のように見えただろうから。
走らないのは、私は、「もう走れなかった」からである。
子どもたちの生活にも、同様なことがあるのだろう。
子どもたちだから、応援してあげようという気持ちで、「がんばれ」と声をかけていくのだが、「がんばっているね。」の方が、はるかによいようだ。
一人一人のがんばる姿をみとめて、「がんばっているね、いいぞ。」と声をかけられる大人でありたい。