イスラエルでの暮らし

イスラエルでの暮らしなど、紹介します。そして今現在の生活で感じたことなど

バルト 客観的言葉づかいが覇権を握る 1

2008年08月09日 10時33分36秒 | Weblog
今日の題名は、内田建さんの言葉をそのまま引用しました。
バルトを語るにおいて、これ以上しっくりと馴染み、
釘で板を打ち付けるかのごとく、ぴったりとはまる言葉もないなと、
思えたからです。

バルトの仕事、それは文学テクスト(作品)、映画、宗教、音楽など、
あらゆる文化現象を「記号」として、読み解くというものでした。
そこで、私たちが一番最初に知っておかなければならないことがあります。
「記号」とは何ぞや、です。
記号と聞いて私たちが真っ先に連想させるものは、その記号を見れば
世界万国共通に「こんなことを言っているのかな」と連想されるあるカタチの
ことだと思うのではないでしょうか。
しかしここで言う記号とはそのようなものではありません。
たとえば、トイレのドアに記されている○と▽で示された模様。
あれを見て私たちは、ここが紳士用のトイレなのだなとわかりますよね。
でもあれはここで言う記号ではないのです。

ここで言う記号とは、○と▽ではなくて、「紳士用」という文字のこと。


「記号」とは、ある「社会集団」(たとえば日本国)が制度的に取り決めた
「しるし」と「意味」の組み合わせのことです。そこにはいかなる自然的、
内在的な関係もありません。つまり記号には、「人為的な取り決め」
以外のいかなる自然的な結びつきも存在しません。
もっとざっくり言ってしまいましょう。
記号とは。、たとえば「文字」のことです。「しんしよう」と書かれた文字
を見て、「あー、男はここで用をたすのだな」と日本人(ある社会集団)
なら誰でも理解できるでしょう。「しんしよう」と「用をたす」という
結びつきは人為的な取り決め以外にはない。つまり、それを見ても
日本語を知らない外国人にとってはまったく意味をなさない。理解不能。
このでたらめさ、これこそが記号です。

ちょっとしつこく説明しましたが、ここをしっかりと抑えておかなければ
バルトの核心に触れることができません。

これで大体の下準備は整いました。それではそろそろ本題に入っていきましょう。

「エクリチュール」と「作者の死」

と思ったのですが明日にします。