イスラエルでの暮らし

イスラエルでの暮らしなど、紹介します。そして今現在の生活で感じたことなど

難解な構造主義

2008年08月03日 10時18分33秒 | Weblog
「まだ動き回ることができず、栄養摂取も他人に依存している
幼児的=ことばを語らない段階にいる子供は、己の鏡像を
喜悦とともに引き受ける。それゆえ、この現象は、私たちの目には
、範例的なしかたで、象徴作用の原型を示しているもののように
見えるのである。というのは、(私)はこのとき、その始原的な
型の中にいわば身を投じるわけだが、それは他者との同一化の
弁証法を通じて(私)が自己を対象化することにも、言語の習得に
よって(私)の普遍的なものを介して主体としての(私)の機能を
回復することにも先行しているからである。」

これ何を語らんとしているかわかりますか?

これはラカンによる「鏡像段階」理論の一説なのですが、
わたしにはこの文章の言わんとしている事がいっこうに見えてきません。
内田樹さんの解説をもってしても私はこれを理解できません。

ここまで難解なものを読み込んで、理解しているわけではありませんが、
読むことが習慣化されていない人にとっては、「寝ながら学べる構造主義」
でさえ、これと同程度の難解さを感じるのではないかと思います。

このような難解な文章を私の脳みそに馴染んでくるところまで
読み込んで、それをさらに噛み砕き、どろどろの流動食にして、
飲み込みやすい言葉に換えて、それをブログにアップしているのです。

なぜそのようなことをするのか。

私自身が構造主義を理解したいと望むからです。
人に説明できないようなものは理解したとは言いがたい。
誰にでもわかるようなところまで説明できてこそ、理解しているということの
証となるのです。

「寝ながら学べる構造主義」。
たかだか200ページ程度のこの本に、私はどれほどの時間を費やしてきたのだろうかと
思います。それでもこの本には価値がある。

小説であれば200ページ程度はわけなく読める。
しかしそうはいかないのです。

遅遅として進まない、進めない理由を少しでもわかっていただければほっとします。
うれしいです。

さらに言い訳を一つ、
冒頭の通り、ラカンに至ってはもう何がなんだかさっぱりわかりません。
それゆえラカンには触れません。触れたくありません。私の知力では、
ラカンを理解することはできません。

構造主義の四銃士ですが、バルトとレヴィー=ストロースの三銃士をもって、
しめにしたいと思っています。

明日はバルトです。
これも驚きですよ。ソシュールの言う、ことばに規定されているという考えを
さらに深く深く掘り下げ、私たちの行動のありようを解き明かしていきますよ。

知っていくことの喜びってありますよね。