イスラエルでの暮らし

イスラエルでの暮らしなど、紹介します。そして今現在の生活で感じたことなど

バルト 2

2008年08月10日 07時49分52秒 | Weblog
エクリチュールです。
聴き慣れない言葉だと思います。アバンチュールとか、そういう系統の
言葉かなとも思います。(思わないか)
記号の次はエクリチュールかぁ、そう思われるかもしれませんが、
どうかやけにならずにお読みになることを期待します。

私たちが言語を用いる場合、ある「不可視の規則」に従って運用していると
言うことは以前にも述べました。それこそがまさしく構造主義の出発点
でもあるのだと。
バルトはまず、この「不可視の規則」に二種類のものがあると考えたのです。
それが「ラング」と「スティル」です。
ラングとは平たく言えば国語のこと。
私たちが日本語を使うとき、私たちは日本語の文法に従い、日本語の発音をし、
日本語の語彙を持って、日本語として通じる言葉遣いをしなければなりません。
つまり日本語の持つ感性に知らず知らずのうちに規定されています。

「ある時代の書き手全員に共有されている規則と習慣の集合体」
これがラングです。

スティルとは言語感覚のこと。
これは一人ひとりが持ち合わせている言葉に対する「個人的な好み」
のことです。話すときであれば速度や、リズム感、韻律、息遣い、
また書くときであれば文の息の長さ、ひらがなと漢字の度合い、余白など、
このようなものは、まさしく「個人の好み」という以外に
説明の仕様がなく、私たちの「書く言葉」、「話す言葉」の全てに指紋の
ようについて回ります。
これも言葉を使う際に知らず知らずのうちに私たちを規定するものです。
わかりやすい例を出すならば、中島みゆきの詩にどんな曲をつけたとしても、
そこに中島みゆきを見つけ出すことができるでしょ。
そのような言葉に対する息遣いは、意識して変えられる、というものでは
ないですよね。それがスティルです。

さあ、私たちは意識することのない二つの「不可視の規則」に
規定されていることはわかりました。
しかしもう一つ、私たちをぐっと規定してくるものがありますよ。とバルト
は言うのです。

それがエクリチュールです。

ラングとスティルは不可視の規則ですから、それはもはや意識的に変えられる
ものではありません。しかし、それでもなお言葉を使うときに、
私たちはある種の「言葉遣い」を選択することが許されます。
もう一度言います。
不可視の規則ともうひとつ、ある種の「ことばづかい」を選択することが
「許され」ます。
この言葉づかいがエクリチュールです。

個人の好みによる言葉遣いであれば、それはスティルじゃないのですか、と
思われるかもしれませんが、エクリチュールとスティルは違います。
エクリチュールとは集団的に選択され実践される「好み」です。
それは無意識ではなく、「意識的」になされるのです。
たとえば、ある日を境に男の子が一人称を「ぼく」から「おれ」に
変えたとします。もちろんそれは意識的に、自主的に変えたものです。
もちろん「おれ」という言葉遣いは少年の発明ではありません。
社会集団の中ですでに採用されているものであり、男の子は、
ただそれを丸ごと借り受けたというだけのことです。

つまり、それまで「ぼく」という言葉遣いが主流であったものが、
小学5年生になり「おれ」という言葉づかいが主流になってきたので、
男の子も「おれ」を採用した、という程度のことです。

その程度で採用された「おれ」ですが、採用されたが最後、
それはもはや人称の変化だけにとどまりません。たちまちのうちに
男の子は全ての立ち振る舞いを「おれ」という響きに変えていくのです。
発生も、語彙も、イントネーションも、髪型、嗜好品、生活習慣、
身体運用に至るまで、「おれ」という一人称に相応しくなるよう「統制する
無形の圧力」を感じずにはいられなくなるのです。

私たち自身を振り返ってください。荒々しい言葉を採用したが最後
私たちは荒々しい立ち振る舞いに支配されてしまう。その逆も然りです。

「私たちは誰しもが、自分の使っている語法の真理のうちに、
すなわちその地域性のうちに絡めとられている。私の語法と隣人の語法
の間には激烈な競合関係があり、そこに私たちは引きずり込まれている。
というのも、全ての語法は覇権を争う闘争だからである。だから、ひとたび
ある語法が覇権を手に入れると、それは社会生活の全域に広がり、
無兆候的な《偏見》となる。政治家や官僚が語る非政治的な言葉、新聞や、
ラジオや、テレビが喋る言葉、日常のおしゃべり言葉、それが覇権を握った
言葉なのだ」

私たちは自分が属する集団や社会的な立場によってさまざまな言葉を
使い分けています。そしてひとたびある語法を選んだ途端に
自分が選んだ語法が強いる「型」にはめ込まれてしまうのです。

軍人は軍人のエクリチュールで語り、営業マンは営業マンのエクリチュールで
語る。そして採用されたその言葉遣いは、その人の行き方全体をひそかに
統御している。

知れば知るほどぞくぞくしてきませんか、
あなたをあなたたらしめているものは、あなたが使っているその言葉の中にある。

なんですと、いま何いうた?

なんだか決定的なものに足を踏み入れてしまったような気がしませんか、

バルト、もう少し続きます





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