構造主義とはいかなるものかです。たとえば、今回のチベット問題にしてもマスコミでは必ず中国側の有識者とチベット側の有識者を出してきます。それは立ち位置が変われば見えてくるものも変わってくると言うことを重々認識しているからにほかなりません。もちろんそれはメディアを受け取る側にも共通した意識です。それは常識といってもよいでしょう。私たちが今常識と考えているこの意識こそまさに構造主義そのものだというのです。そしてこのような考え(構造主義)が常識として認知されたのは、今からおよそ40年前の1960年代ぐらいなのだそうです。
もちろん、私にとって自明なものが他者にとっても私と同じように自明なものであるのかという懐疑こそが哲学の出発点であるので、プラトンもデカルトもそのような懐疑から哲学を出発させているのです。しかしそれはもっぱら思弁的なものにとどまっており、そのような思索が哲学者本人の日常に反映されることはほぼなかったのです。
まだわかりづらいですね。
本の中から構造主義を端的に言い当てている部分をそのまま抜粋しておきます。
私たちは常にある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから私たちは自分が思っているほど、自由にあるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちはほとんどの場合自分が属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせれている」。そして自分の属する社会集団が排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。
私たちは自分では判断や行動の自律的な主体であると信じているけれども、実はその自由や自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたものこそ構造主義だというのです。
わかりましたでしょうか。
明日は構造主義の源流の一つであるマルクスについて取り上げてみようと思います。
補足、、、、、思弁とは経験によることなく、思考や考えだけで真理に到達しようとすることです。
もちろん、私にとって自明なものが他者にとっても私と同じように自明なものであるのかという懐疑こそが哲学の出発点であるので、プラトンもデカルトもそのような懐疑から哲学を出発させているのです。しかしそれはもっぱら思弁的なものにとどまっており、そのような思索が哲学者本人の日常に反映されることはほぼなかったのです。
まだわかりづらいですね。
本の中から構造主義を端的に言い当てている部分をそのまま抜粋しておきます。
私たちは常にある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから私たちは自分が思っているほど、自由にあるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちはほとんどの場合自分が属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせれている」。そして自分の属する社会集団が排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。
私たちは自分では判断や行動の自律的な主体であると信じているけれども、実はその自由や自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたものこそ構造主義だというのです。
わかりましたでしょうか。
明日は構造主義の源流の一つであるマルクスについて取り上げてみようと思います。
補足、、、、、思弁とは経験によることなく、思考や考えだけで真理に到達しようとすることです。
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