先日は、昭和20年7月20日の岡崎空襲について話しました。
今日はその続きから始めます。
岡崎物語は、中根銀次と、板屋町の遊女こずえとの話が主流になっていますが、
私は、その中から、ガラ紡の盛衰を拾っていきたいと思います。
岡崎に投下された焼夷弾は12000発、米軍機90機によって雨のように
降らせたようです。死者207名、行方不明者13名。岡崎の中心街は
ほぼ破壊されたようです。
能見の辺りは戦災をまぬがれたようで、そのおかげで今でも道が狭いようです。
8月15日の、玉音放送は、ラジオの性能も悪く、とぎれとぎれではっきり
聞こえなかったようですが、それでも明日からはアメリカの飛行機は飛んで
来ないことだけはわかり、ホッとしたようです。
米河内までのバスが、一日三往復、デコボコ道を走っていたようで、自転車
リヤカー、馬車が交通の主流だった。松本や康生の闇市では、米等がかなり
高い価格で販売されていました。
まだこの頃は、綿の材料が手に入らなくて、機械は動いていなかった。
昭和21年4月からは、やっとガラ紡の機械が動くようになりました。
水車の活躍です。水源である青木川から引き込まれた幅1mの水路は
畑の中を30m走り、さらに家を取り囲んでいる土壁に平行に流れて水車へ
導かれていた。水車に流れ込んでいる水路は直前で狭くなって半分の幅になって
いた。
私は水車は青木川に直接あるものだと思ってましたが、どうも違っていたようで
す。
材料不足に加え、紡織機そのものが不足していたが、この頃から水車のあるガラ紡も
復活した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/87/0af22ba25af0e718a425a5facafe98f0.jpg)
ガラ紡の機械と当時の食事風景、女工さんたちの写真です。
ガラ紡の復活と共に、人手不足が深刻になり、秋田県の方から働き手を探して
きていたようです。
秋田、山形の方から働きに来て、滝町の方と結婚されている方もいらっしゃい
ますね。
常磐地区のガラ紡業者の理事会があり、滝山寺で会合を開いて、相談事を決めて
いたようです。
安戸、米河内等も含めて。理事が20名もいたそうですから、ガラ紡業者は
かなりの人数だったのではないでしょうか。詳しい数は記載されていません。