「わたし、家に帰るっ」
おっと、そう来た。ここで、スミレがすべてを投げ出してしまい、カズさんの元から離れれば、いまの自分の置かれた立場と共に、どこにも寄り添う場所がなくなってしまう。だとすれば自分の家は、両親はどうなっているのだろうか。そんな不安が急遽わき上がってきた。
自分の過度に成長した姿を認めてくれるのか。認めてくれたとして両親はあのときのままでいるのだろうか。カズさんのように若返ってスミレと同じ年齢になっているかもしれないし、スミレと同様に一足飛びに年齢を重ねてしまっているのだろうか。
そうスミレが言い放った時、カズさんは胸をおさえて、かがみこんでいた。うーんと低い声をもらしていた。
「どうしたの。大丈夫? 胸が痛いの?」
目の前にはこれまで地元では見たこともない広さの空き地と、何本かの木々があり、緑の大きな葉が風に吹かれていた。木陰までヨロヨロとカズさんを誘導していく。手ごろな倒木が椅子がわりになり、ふたりはそこに腰かけた。若返ったとはいえ、元々は年寄りだ。持病のひとつふたつあってもおかしくはない。
「カズさん、おクスリとかもってないの?」
ふうと、ひといきついたカズは手提げの中から水筒を取り出した。それはフタがコップの役目をする古いタイプの物で、そこにお茶を注いで口に含めた。フタの内側には小ぶりなコップがもうひとつセットされていて、それをスミレに渡し、そこにもお茶を注いだ。スミレもそれをいただき、喉を鳴らして嚥下する。
カズさんは遠い目をして風で揺れる木々を見ている。一服着いたスミレも少し落ち着いた。これは受け入れなければいけない世界なのだ。抗ってはいけない。再び、時の流れがもとに戻り出すのか、この時空のなかで生きていくのか、それはもはや自分では決められない領分なのだから。
「わしも、スミレと同じだ」
カズさんが口を開いた。その口ぶりは若干怯えているように耳に届く。
「わたしがなんでも知っているように思うだろうが、そうではない。わたしもスミレと同じようにどこかでこの時の流れに巻き込まれただけだ。自分が知っていることをスミレが追体験している。だから余裕があったり、なんでも知っているように見える。だからな… 」
その先を言いかけてやめた。えっ、またその流れなのか? 言ったほうがいいのか、言わないほうがいいのか迷っている。それはスミレがこれから経験するであろうことで、知ったうえで体験することがいいのか計りかけていた。それにカズが体験したからと言って、必ずスミレにも同じことが起こるとは限らない。
「カズさん、わたしがこれからどうなるのか知っているの? それを言うべきか悩んでいるの?」
たとえそれを妨げられたとしても、自分の意思であるかのように認識するであろうか。誰かに支配された状況で、自分の未来を選択したなどと誰にも思われたくないし、なによりもそうである自分が許せない。
この世界でうまく生きていくには、因果関係から推測できる先読みをして上手に立ち回ることだ。その推測さえも今では誰かの手の中に有る。相手との関係を保つか、絶つかに関わるすべてが自分の手にはない。
「なあ、スミレ。わたしはちょっとは若くなったが、スミレから見れば年寄りだ。そうすると、どうだ。スミレはわたしのことを自分より物知りだと思うだろ。それを前提にわたしの話を聞くだろ。たしかにわたしはスミレより多くのことを知っとる。それはどんな世界だろうが変わらん。それは一般常識の範囲内での話であって、なんの物珍しさもないんだよ」
カズさんは首をふる。一般常識、当たり前の出来事、正常な時の流れ、そんな言葉はなんの意味も持たない世界にいる限り、スミレと、カズはある意味対等で、多くの失敗を経験していないだけ、スミレの方が大胆に動けるだろう。
「ふたりは運命共同体だ。わかるか、スミレその意味が」
キョードー隊って、美少女戦隊とか、秘密戦隊とかのことだろうか。なんとなく同じ運命をたどっていく隊員に選ばれたのだと理解できた。その運命は、たどるのではなく交差しているのだ。
「カズさんはこうなることがわかってて、わたしに話しかけたの?」
カズさんは難しそうな顔をして黙り込んでしまった。どこまで話すべきなのか思い余っている。
「なあ、スミレ。オナカすいたろ。なにか食べよう」
なんで、ここで食事の話しになる。確かにそろそろ、お昼にはなる時間だがいろんな意味で、スミレはオナカはいっぱいで、なにか食べたい状態ではない。お金もない。
「ハラがいっぱいなら、飲み物だけでもいいだろ。お金の心配はしなくていい」
そう言ってカズさんは、またスタスタと歩きはじめる。もはやスタスタというよりサッサッといった感じだ。スミレも仕方なくついていく。この状況でカズさんに見捨てられたら、どうなるのか想像もつかない。今の現状でスミレと世界をつなぎあわせてくれているのはカズさんだけなのだから。
自転車に乗った女性が軽快にふたりを追いこしていく。湿度が上がってきたようでムシムシする。風があればまだいいがそれもなければ手で扇ぐしかない。さきほどの自転車の女性が気持ちよさそうに見え、目で追いかけるとなにか塊のようなものをよける動きをして、さらにスピードをアップして行ってしまった。
電柱の下の物体は、果たしてグッタリとした人だった。自転車の女性は気づいたのか、そうでないのか。いや、気づいたからよけたのだろうが、それが人だとわかっていたのかを問いている。
「まさかあの人には、ひとに見えていないなんてことないよね?」
そうであれば、自分には見えていることに不平等さを感じる。なるべくなら日常のなかで出くわしたくはないシーンだ。それもまわりに誰もいないならば自分が主体にならざるを得ない。
「どうしようカズさん。あのひと気分わるそうだけど… 熱中ショウかな?」
「熱中ショー? なんだそれ。なんにも熱中しとらん。それどころか放心しとる。暑気バテでか、日本脳炎じゃないのか?」
そっちの熱中じゃないんだけどと、スミレはこれまでの自分の変換ミスを棚に上げて小バカにするも、さらに聞いたことのない病名を挙げられて困惑に変わる。日本農園だなんて農園などどこにも見当たらないのに、農園で働く人が良くかかる症状なのだろうか。
とにかくこのまま見過ごして行くのも心が痛む。だいたい、どこかに急いで行く用事ももうなくなっていた。
誰かの家のフェンスに寄りかかるようにして座り込んでいる男は、アタマを下げていて表情をうかがい知ることができない。断続的に呼吸を続け、息苦しそうに見える。スミレは勇気を持って声をかける。
「あのお、だいじょうぶですか?」
その声に反応しておとこはスッとアタマをあげた。目がうつろで視点が定まっていない。それなのになにか照れくさそうに口元をあげ、温和な表情を取り繕っている。
「大丈夫。大丈夫だよ」
ぜんぜん大丈夫に見えない。見えないのにああそうですかと、この場を立ち去るわけにもいかない。それはきっとこの人のためではなく自尊心のためだ。
「だめだよ、スミレ。大丈夫かと訊けば、反射的に大丈夫だと答えてしまうもんだ。大丈夫じゃなくてもな。そう言わないといけないように仕向けてるようなもんだ」
そう言われれば、スミレにも思い当たることがあった。母親からはよく、明日の準備大丈夫なの? 宿題やった? 忘れ物、ない? 本当に大丈夫? 全部大丈夫だからと答えてからやりはじめた。
そうだとすればこのひとも、大丈夫だと言っておいてから、どうにかしようと考えているのかもしれない。どうすればいいのか。自分だったらどう声を掛けてもらえればこころを開けるのだろうか。
「こんな、お嬢ちゃんに哀れられているようじゃ、おれもとうとうヤキがまわったな」
その男は片目をつり上げてそう言った。
「そう思うんなら、さっさと、立ち上がってみてはどうかい。こんなとこでぐったりしてちゃ、いちいち通行人の目に留まり、聞きたくもない憐みの言葉をかけられるだけだろ」
虚を突かれた男は、今度はカズさんを見上げる。思い当たる節があるのか、不服な顔をしながらも腰を上げはじめた。そうか、相手になにかを行動させようとすれば、相手の痛いところをつけばいいのだ。スミレだって指摘されたくないことをいちいち母親に言われるから重い腰をあげる。
「スミレ、それは本当に体調がすぐれない人には通用せんだろ。コイツは体調が悪いわけでなく、ただ、酔っぱらって、ヤサグレて、誰かの気を引こうとしてただけなんだからな」
ガーン、いつのまにか主題が変わっていた。これはただ、カズさんがひとのあしらいがうまいだけだった。
「ひでえ、言われようだ。オレは好きでここで転がっているだけで、人の目なんか引こうとしていない。ヤツらが勝手に自分の良心の呵責に耐え切れず、お節介をしてくるだけだろ。そして何人かはオレの存在に気づかないふりをして通り過ぎていく。路上でどうしようがオレの勝手だ」
なんだか、親切心で声をかけて逆に怒られている状況にスミレはなんともやりきれない。それはこの男の言うことが正論に聞こえるからだ。このひとが路上でなにしてようと自分の知ったことじゃない。
それこそ大声で歌ったり、踊っていたりして、それが見ごたえ、聴きごたえがあれば立ち止まって観続けるし、ひどいものであれば見えない聞こえないふりをして足早に遠ざかるだろう。あの自転車で通り過ぎていった女性にはその対象でしかなかったのだ。
ぐったりとしているという主観は自分が持っただけで、このひとがぐったりして助けて欲しいと言ったわけではない。自分が勝手に困っているだろう人を助けなければならないという、自分の価値観と、虚栄心を満たそうとしただけだ。