事務所内を見渡せば、オチアイさんが苦々しい顔で伏せていて、マサトはほとんど泣き顔で、キョーコさんと女子大生のお姉さんはおびえた顔がそこにあった。
アイツらといえば、ヤザワとかいうヤツはひとり難しい顔をしているのに対して、その他のヤツラはニヤけ顔を無様にさらしていた。ラストエンペラーがその後ろ盾になっているんだ。
コイツら自分たちでは不安になったのか、もっと腕の立つ野郎を引っ張ってきたってとこか。そして約束の時間など反古されたのだ、、、 朝比奈のおどしが効きすぎだ。
「そうね、あり得るでしょ。こういうのも」
クルマで待っているはずの朝比奈が背後にいた。
「おー、おー、この娘か。はーっ、女王様だ。確かにな。それでおれが勝てば、なに、女王様を好き勝手にできるっていうの。でかした。オマエらにしては上出来だ。どうだ少年。どうせ負けるんだからさ、もう女王様残して退散してみては。時間の無駄だから」
おれはアタマの中が真っ白になっていった。ヤザワとのときもそうだったけど、おれはときに自分を見失う、、、 みたいだ、、、 ふだん冷静を装ってるから、その反動が一気に押し寄せてくるらしい。
「ホシノ、いまはまだその時期じゃないから」
おれの肩に手が添えられた。その手からおれの怒りが吸い取られていった。
おれはこうして助けられている。だれかに。そうでなければおれはもっとひどい目にあっていたはずだ。だれかに。
「ホシノ。いい? 怒りからはなにも生まれない。本当に強い人間は寛容になれる。ホシノはね、そういったのを力に変えて自分の能力を超えていける。だからいまじゃなくても、ねえ、いいんじゃない」
そんなこと言われたって、おれは強い人間ではないし、なれるとも思わない。怒りを力に変えるなんてできるはずもない。
だけど、、、 だけど、そんなおれの思い込みさえくつがえすのは朝比奈の言葉だ。いいんじゃないって言われや、、、 いいんじゃないでしょうか、、、
ラストエンペラーが余裕の勝ちを確信しているなか、時間をやりすごしているおれたちがいた。時間の流れを捕まえている感覚はまだ続いているんだろうか。
「どうした少年。時間のムダだとわかってきたか?」
おれがヤツらを自分のペースに巻き込もうとするならば、ヘタに自分から動き回るより迎え入れるように構えていた方がいいに決っている。それぐらいの駆け引きはおれにだってできる
戦いは必ずしもゴングが鳴ってから始まるものでもない。戦うことが両者に認識された時からそれは始まっているんなら、それを有効に使うことがかしこい戦略だ。
それもこれも朝比奈の助言があってからこそなんだけど。朝比奈はそれについて何も言わないし、そんなおれに促がそうともせずに放置している。だったらおれはそいつを信じていればいい。
「どうするか考え中か。いいだろう考えればいい。よく考えてみることだ。どうすればお互い幸せになれるのか」
おれはこれまでこんな時の中を過ごしてきたんだって、あらためて思い出させてくれた。走れなくなってもう二度とこんな雰囲気を味わうこともないと思っていたのに、なんの因果か、いま再び、同じような時間の中にこの身を置いている。
あと時間もすれば、確実に二つの世界のどちらかに自分がいる。勝利を得て賞賛と自画自賛に満ち溢れた世界。負けて慰安と自己批判にさいなまれる世界。
いまはどちらの世界にも行ける自分がある。その中に身を委ねていられることがいまを生きている直接的な感情の捉え方であるし、おれにとってなによりも代え難い貴重で大切な時間で、生きていることへの証でもあったわけで、あの時に戻れたような感覚が染み入ってきて自然と口元が緩んでいた。
なぜか、状況としてはいままでの陸上のレースではないほど、迫りくる緊張感もふつうではないはずなのに、それさえももう一度体験できていることが勝り、嬉しく思えてしまう。いつだってそうやって過ごしてきた。
「そう、それでいい。ホシノって、なに笑ってんだか。だいたい想像はつくけど」
そうやってなんでもわかったように口にする朝比奈は、やはりなんでもわかっているんだ、、、 どうせ。
もともと生まれ持った才能なのか、多くの経験の中で得た能力なのか、もしくは、、、 両方だな、、、
特別だと思ったことはないはずだ。誰だって感じてるんだと思う。言葉にするのは難しいかもしれないし、したとしても理解しづらかったのかもしれない。それで、口をつぐむことはよくある。
人との関わり合いのなかで、流されていく会話が、舞台のセリフのようによどみなく、そして枯れていく。誰にでも理解できるなんてことはあり得ないし、語り合う言葉は噛み合わなくても不思議でもなく、違った意味合いで理解されることだってある。
都合が悪けりゃ歪曲して捉えてもいい。それで良い方向に流れる場合もあれば、逆もある。最終的な判断は、どう自分に戻ってくるかってことだけだ。
意識的ではないかもしれないけど、最後は本能的にそちらを選んでいる。それが相手の意に反すれば嫌われ者に成り下がる、意のままなら好意的に受け入れられる。そこが見えてれば人間関係にそれほど悲観することはない。
相手に期待するから失意が大きくなるなら。
「ホシノは自分に期待する他人の身勝手をどれだけ許容できるのかしら?」
朝比奈の言い分はもっともだ。だからといってそれですべてが割り切れれば、この世で人間関係に悩むヤツラは出てこない。そんなヤツラが多く居るってことは、誰もそんな結論に到達できてないからだ、、、 もちろんおれだってそこまで達観できてない。
「だからね、みんなそれだけ時間が有り余ってるのよ、もしくは、時間が無尽蔵にあると勘違いしている。本当にやりたいことや、目標とするゴールから逆算していま何をすべきかがわかっていれば、そんな範疇を越えたことにかまって暇はないはずなんだけど。どうにもならずに手っ取り早くその迷宮から脱出したくなれば別なんでしょうけど。いまだって、わたしとの間には相容れないミゾがあって、それを解消するために、自分の都合のいい方へ解釈し始めてるでしょ」
ああそうか、だからなんだ。思いもせず自分の意図が伝わったり、口にしなくても思い通りの結果を得たときの得も知れぬ快感は、その数倍ある伝わらない実績があるからそこ成り立っているわけだ。
「おい、おい。おれは理屈っぽいオンナは苦手なんだよ。可愛い顔してるお嬢さんは、黙ってオトコの言いなりになってりゃいいんだ」
「選べれるうちはいい。いつか選べないときがくる。ホシノは選べた? それとも選ばれたのかしら」
自分から選んだといえるかもしれないけどそれは結果だ。だれかにいいようにつかわれたって、それを選択肢のひとつととらえることもできる。必ずしも事実だけがそれを物語っているわけじゃあないんだ。
「つまりはそこなの。好意を持てば選ばれたい。悪意を持てば嫌われたったいい。ホシノだってまわりのすべてを受け入れているわけじゃない。ほんの少しのすれ違いで、悪態ぐらいつきたくなる。ふつうの行為。そうじゃない人間など信じられない。だからね、いいのそれぐらいで。すべての人を愛せなくたって、すべての人の平和を叶えられなくたって、しかたないんだから」
あいかわらず決定事項として結論だけを述べてくる朝比奈であった。
おれなんかそいつに対してなにかいいかえせるほど語彙が多彩ではないんだし、反論の言葉さえ持ち合わせていない。ただひとつだけ反論、、、 反論てほどでもないけど、述べさせてもらうなら、どうして今なんだろうってことだけだ。話しの流れでそうなったのかもしれないけど、それ以上に朝比奈からは訴えかけられる力強さが見て取れた。
「それはねえ… 」
遠くを見ていた。
「 …わたしたちには、」
その先に何が見えるのか訊いてみたいぐらいに。
「 ……時間が… 」
何かが見えるわけじゃない。何かを見つけたいのかもしれない。その目の先には。これまで見えてきた経験から自然に及んだ行為にすぎない。
「 …ないんだから」
自分の意にそぐわない判決を下した裁判官の言葉のように思えた、、、 裁判の判決なんか聞いたことないけど、、、 例えが適切だったかどうかはおのずとわかるはずだ。おれたちに時間がないならばそれほど遠い話しじゃないんだから。
そのやりとりとは裏腹に、おれたちふたりのあいだだけには無尽蔵の時間があるかのようだった。
どうやらそいつは、消えゆくロウソクの炎が限りある時間を使い切るための最後の時間だったらしい、、、